(15)残酷な事実

 ふう。独りため息をつく。緊張から解放され、どっと疲れが押し寄せて来た。


「お疲れ様でした。いやあ、見事な一局でしたな」


 声を掛けて来たのは大森さん。缶コーヒーを差し出して来る。疲れた脳には、カフェインの刺激がありがたい。受け取ろうとして、あることに気付き、手を止める。


「ごめん、大森さん。私、ブラック飲めないんだ」

「え……あっ……!? 申し訳ございません!」

「いいよ、謝らなくて。それよりありがとう。勝てたのは、大森さんが教えてくれた作法と戦法のおかげだよ」


 慌てて頭を下げる大森さんに、笑顔で答える。甘党の私は、まだまだ大人にはなり切れない。もっと色々、教えてもらわないとね。

 これからも宜しくお願いしますよ、師匠。


「こちらこそです」


 鬼殺し向かい飛車を使いこなしてくれて、ありがとうございました。

 そう言って、大森さんはにこやかに微笑む。いつもながら爽やかな笑顔、若い頃はさぞかし女にモテたに違いない。

 ごめん、ショウ兄ちゃん。ついアンタの笑顔と比較しちゃったよ。やっぱりね、女性を口説くには誠実さが必要だと思うよ。


「お疲れでしょう。休憩に行かれてはどうですか?」


 大森さんの提案に、私は笑って首を横に振る。休憩なんてしている場合じゃないよ、すぐに大将戦が始まるんだから。観客席に腰を下ろす。


「私、最初は香織さん達の指す将棋を馬鹿にしてたんだ。なんてレベルの低い対局なんだって。観る価値なんて無いって、決めつけてた。

 でも、違ったんだ」


 単純な棋力では表せないものが、香織さん達の将棋にはあった。それが何なのか、今になってやっとわかった。

 一つは対局を楽しむ気持ち。そしてもう一つは、一局に懸ける情熱だ。どちらも、私には不足している。

 だから、休んでなんかいられない。

 見届けたいと思った。大将戦、園瀬修司さんの将棋を。


 私の説明を、大森さんはうんうんと、ただ黙って聞いていてくれた。


「修司さんの対局を観ればわかるかな、って。どうしたら将棋を楽しめるのか、どうしたら一局にそこまで情熱を注げられるのか」

「そうですね。私も彼らを観て思い出したいと思います。長く生きている間に、忘れてしまったものを」


 そう答えて、左隣の席に腰を下ろす大森さん。人生は色々なことがあって、挫折を味わったこともあった。そんな中で、少しずつ失っていったことがあるのだという。

 そうか。ただ私達の応援に来た訳じゃない。大森さん自身も、取り戻そうとしているんだな。将棋指しにとって、とても大切なことを。


「来たか」


 その時。ミスター穴熊が声を上げた。

 彼はまだ対局席に座らず、向かいの観客席に腰掛けている。隣には漆黒の少女・永遠が、彼に付き従うように座っていた。

 この二人も、待っていたのだろうか。対局者の到来を。


 彼らの視線の先へと目を遣る。誰が来たかって、言うまでもない。

 修司さんが、一人こちらに向かって歩いて来ているのが見えた。香織さんの姿は無い。


 残念だ。勝ったよと報告したかったし、おにぎりのお礼もしたかったのに。

 私の気持ちを察してか、修司さんは首を横に振った。


「香織は、もう指せない」


 静かな口調で、彼は告げて来る。残酷な事実を。


「二回戦の時点で、棋力をほぼ使い果たしていたんだ。とても準決勝に出場できる状態ではなかった」


 それなのに、無理をして限界以上の力を引き出し続けてしまったから。将棋指しとしては、抜け殻同然になってしまったのだという。

 そんなことって。せっかく香織さん達の対局を観て、学ぼうと思った矢先だったのに──!


「普通に生活を送る分には問題無いんだがな。決勝戦は、俺達二人で勝つしかなくなった訳だ」


 やれるか? と修司さんは問いかけて来る。

 正直言って、私もそろそろ限界だ。一試合ごとに棋力体力共に消耗し、今となっては立ち上がることもままならない。

 だけど。これから対局する人を、不安にさせちゃ駄目だよね。

 精一杯、胸を張る。空元気を、お腹にこめる。


「大船に乗ったつもりでいて下さい!」

「……宜しく頼む」


 ふっ、と修司さんは笑みを浮かべた。

 あ。そう言えば私、この人の笑顔を見るの初めてかも。基本的にいつも仏頂面だもんなあ。へえ、こんな風に笑うんだ? 香織さんが好きになった気持ち、少しわかったかも。


「正直、見直したよ。応援も無く、たった独りでよく戦ってくれた。勝ってくれて、ありがとうな」

「上から目線で言われても、嬉しくないですよー」


 嘘だ。誰かに褒められるのなんて今までほとんど無かったから、本当は滅茶苦茶嬉しい。躍り出したい気分だ。

 だけど、ひねくれ者の私は、素直に喜びを表に出すことができなかった。


「すまんな。こんな言い方しかできなくて」


 修司さんは苦笑する。私の方こそ、ごめんね?


「そうそう。代わりと言ってはなんだが、香織からの伝言だ。大会が終わったら、皆で肉じゃがパーティーをしよう、ってさ」

「は? 何それ。そんなパーティー聞いたこと無いんだけど」

「ああ、俺も無い。要は何でも良いんだと思うぞ? 楽しく打ち上げができれば」


 楽しく、か。私まで誘って来るなんて。


 香織さんは、誰とでも分け隔てなく接することができる。おまけに天性のお人好しだ。

 最初私は、あの人のそんな所が嫌いだった。そんな人間は、騙されて酷い目に遭うのが当然だと思っていた。

 だけど。二回戦で、私の嘘に傷付いた顔を見た時、少し胸が痛んだ。


 本当に、底無しのお人好しなんだから。


「いいじゃないですか、それ。是非やりましょう」

「ああ。そのためには、まずこの一局に勝利しなければな。お前が掴んだ貴重な一勝、決して無駄にはしない」


 私の返事が気に入ったのか、修司さんは微笑を浮かべ。

 その視線を、ミスター穴熊の方へと向けた。


「待たせたな」

「後悔しても知らんぞ」


 黒い炎を纏った穴熊が立ち上がる。たったそれだけで、大気が震えた。

 彼を中心に、突風が吹き荒れる。飛ばされそうになるも、懸命に堪えた。


 修司さんは険しい顔で、一歩、また一歩と前進する。対局席に向かって。


「今からでも遅くはない。棄権しろ」

「死んでも嫌だ」

「ならば、仕方ない」


 修司さんを指差す穴熊。指先に、禍々しい闘気が収束されていく。高濃度の闘気は具現化し、暗黒の球体を形成する。修司さんが一歩踏み出す毎に、その球体は大きさを増していった。


「棄権しないのなら、少々痛い目に遭って貰う。動けなくなるが、愛を失うよりはマシだろう?」

「どちらも御免こうむりたい所だな」


 苦笑する修司さんの頬を、一筋の汗が流れ落ちる。彼もわかっているんだ、アレを食らえばタダでは済まないってことを。死なない程度に手加減はされているとしても、『対局できないレベルの重傷を負う』のは覚悟しなければならない。

 それでも、修司さんは歩みを止めなかった。


「止まらんと撃つぞ」


 警告する穴熊を、修司さんは真っ向から睨み返す。


「やってみろよ。将棋指しが対局を前にして、臆すると思うな!」


 その心意気や良し、と言いたい所だけど。あまりにも無謀だと言わざるをえない。

 くそ、身体が動けば助けに入ることもできただろうに。鬼の力の反動か、足に力が入らない。立ち上がることさえできない。


「そうか。ならば」


 ──かちり。

 目には見えない、撃鉄が起こされた。

 心のリミットが解除されたのだと気づく。穴熊は、本気で撃つつもりだ。

 今やサッカーボール程の大きさになった黒色球体が、修司さんを狙っている。


「神に抗う者よ。神罰を受けるがいい」


 引き金が引かれる。

 空間が、黒に染まる。


 目の前を球体が横切った。と思った時には、修司さんの身体が遥か彼方へと飛ばされていた。球体は黒炎へと変わり、彼を包み込む。燃え盛る炎の中は深い闇色で、彼の姿は見えない。


「終わりだ、園瀬修司。大人しくそこで焼かれていろ」

「ちょっと! そこまでやる?」

「これでも随分、手加減してやっている」


 思わず抗議の声を上げる私に、穴熊は涼しい顔で答えた。

 対局席に座り、駒を並べ始める。


「アンタ、何やって──」

「彼は、将棋指しの矜持を見せてくれた。敬意を表し、不戦勝ではなく、時間切れ勝ちにしてやろう」

「ふざけんな! そんなことしたって、修司さんは」


 そこまで言いかけた所で、気づいた。

 黒炎の中で、何かが煌めきを放っている。縦、横、斜め。白い閃光が、炎を薙ぎ払っていく。


「……馬鹿な」


 穴熊も気づいたのか、呆然と呻く。閃光は徐々に強さを増していき、炎は勢いを失っていった。

 白刃を手にした修司さんが、悠然と姿を現す。微笑みすら浮かべて。


「俺には、香織がついてる」

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