(16)愛のキゴウ
光り輝く刃を、穴熊に突き付ける修司さん。いつの間にそんな武器を──と思ったけど、よく見ると違った。
彼の手に握られているのは、一振りの扇子だった。白い光を放ってはいるけど、どう見ても武器じゃない。
「それは、まさか。プロ棋士の加護を得た業物か……!?」
「違う」
呻く穴熊に、首を横に振る修司さん。
「それ以上の宝物だよ。俺にとっては、な」
答えて、彼は折り畳んでいた扇子を開く。
爽快な秋風が一陣、吹き抜けていった。まるで扇子が風を起こしたみたいだ。
白扇には、プロの棋士が『揮毫(きごう)』を書き記すことがある。サインのようなもので、その棋士を象徴する文字が書かれていることが多い。
有名所では『玲瓏(れいろう)』、『天衣無縫(てんいむほう)』、『百折不撓(ひゃくせつふとう)』等。揮毫が記された扇子には、棋士の魂が宿っているという。
ならば、修司さんが今手にした扇子には、一体誰の想いが込められているのだろうか。
揮毫を読み上げてみる。
「愛、羅、武、勇」
……あいらぶゆー?
普通揮毫は筆で書くものだけど、黒のマジックで殴り書きされている。お世辞にも字は上手いとは言えない。おまけに、周りに赤のマジックでハートマークまで付けちゃってるし。これなら、いっそ普通にアルファベットで書いたら良かったんじゃ? とか、つい思ってしまったけど。
そんなモノでも、香織さんの愛情が込められている。
修司さんにとっては、この世でたった一つの宝物なのかもしれない。そんな堂々と掲げるようなものでもないと思うけど。
なるほどね。だから穴熊の攻撃を退けることができたんだ。この夫婦の絆は、暗黒闘気などには屈しないから。
「愛、か」
呟いた、穴熊の顔が苦しげに歪む。
「我の前で、愛を語るな」
発作でも始まったのか、胸を押さえている。でも心配なんてしてやらない。救急車は自分で呼びな。
チャンスだよ修司さん。今対局を始めれば、確実に勝てるって。
「何故、そこまで愛にこだわる? 愛を失うとは、一体どういうことだ?」
対局席に座り、修司さんは問い掛ける。穴熊の発言が気になったのか。
びりっ。盤上を、放電が走った。
思わず駒を持つ手を引っ込める修司さん。並べ始めようとした矢先のことだった。
「気になるかね?」
彼を見つめる穴熊の瞳には、一切の輝きが無い。死んだ魚のような視線を受け、修司さんは身を震わせた。
「棋は対話なり。我と君が対局すれば、君は我に同調するだろう」
そうなれば終わりだと、穴熊は続けた。
修司さんは気を取り直し、扇子を広げる。香織さんの想いを、盤上に開く。
「同調し、俺があんたみたいになるってのか? 俺には香織がついてる。屈するものか」
開いた扇子をチェスクロックの横に置き、修司さんは駒並べを再開した。
放電は、もう起こらない。
大丈夫だ、修司さんは呑まれていない。盤上に、整然と駒達が並ぶ。その様子を見つめて、穴熊はふう、とため息を一つついた。
「どうしてもやるというのかね?」
「ああ。俺はあんたを倒す。香織と一緒にな」
「残念ながら、それは叶わぬ願いだ。我には視えているのだよ。我に惨敗し、同時に愛を失った君の姿が」
どのみち敗北する運命なら、愛を失わずに済んだ方がマシだろう? 穴熊は平然とそう言い切った。だから諦めろと、試合を放棄しろと。
ふざけるな、と口から出かけた言葉を飲み込む。これは修司さんの対局だ。口無しと血溜りのことを思い出した。どうするかは、対局者同士で話し合うしかないんだ。
修司さんは、しばし考えた後に口を開く。
「あんたは、失ったことがあるのか? 愛を」
それは、鋭い切り返しだった。途端に空気が凍り付くのを感じた。穴熊は目を見開き、口元を両手で押さえて、わなわなと全身を震わせる。
効いている。今にも噴き出そうとする激情を、必死で抑え込んでいる。
「怖いのか?」
「怖い、だと?」
「ああ。俺があんたに同調し、香織への愛を失う様を見せられるのが、怖いんじゃないのか? だから、こうまで執拗に棄権を勧めて来る。違うか?」
「き、貴様……!」
「その反応。さては図星だな?」
修司さんの容赦の無い追撃に、ついに穴熊は怒りを露わにした。全身から、黒い炎が放出される。
轟々と燃え上がる炎。それよりもなお深き漆黒の闇が、穴熊の両眼に宿った。
修司さんは、確かに図星を突いたのだ。そして同時に、奴の逆鱗に触れてしまったらしい。
「我を愚弄するか、園瀬修司」
「あんたと対局できるなら、いくらでも言ってやるよ」
「よかろう。もはや一切の容赦はせぬ」
死よりも辛い、敗北の苦痛を味わうが良い。穴熊は盤に手を翳(かざ)した。黒炎が、駒の一つ一つに燃え移っていく。本物の火ではないのか、駒が炭に変わることはない。蝋燭のように、延々と燃え続けている。
「一手指すごとに、貴様は獄炎に魂を焼かれる。どこまで耐えられるか、見せてもらおう」
「面白い。望むところだ」
額に汗をかきながらも、修司さんは負けじと言い返す。
ちょうど良いハンデだ、と。
それを聞いた瞬間。穴熊のこめかみに、血管が浮かび上がった。
やれやれ。約一名程、怒りに我を失いかけているけど、何とか対局は始まるようだ。
準決勝大将戦。最強を自称する男に、棋力差を顧みることなく、一人の級位者が挑む。
無謀とも言える挑戦だけど、全く勝機が無い訳ではない。修司さんの棋力は、時として段位者を上回る。あの香澄翔を倒した奇跡を、今一度見られるかもしれない。
それに、穴熊は今、冷静さを欠いている。怒りは判断力を鈍らせ、普段通りの力を発揮させない。
なるほど、これは確かに。『ちょうど良いハンデ』なのかもしれない。
「宜しくお願いします」
お決まりの挨拶を交わす二人。
怒りで我を忘れていても、穴熊は礼までは忘れていなかった。
頑張って、修司さん。
香織さんの代わりに──いや、あの人の分まで応援するよ。
勝って、一緒に香織さんに逢いに行こう。
きっと、待っているよ。
第八章・完
第九章に、続く
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