(9)おにぎり

「……は?」


 頭の中が真っ白になったのは、光のせいではないだろう。理解の及ばない手を指され、脳が混乱する。

 何だ? それで受けになっている、とでもいうのか? 確かに、27の地点に利いてはいるけど。

 この一手で、28銀打の効果が薄まるとでもいうのだろうか? だとしたら、私は一体どうすれば良いんだ?


 彼が言うように、形勢は恐らく私が優勢なのだろう。

 でもそれは、一手でも対応を間違えれば簡単にひっくり返る程度の差でしかない。

 私の玉だって、決して安全な位置に居る訳じゃないんだ。


 やっぱり、簡単には勝たせてくれないか。

 狙いのはっきりしない曖昧な手を指して、私のミスを誘発しようとしている。なんて狡猾な。


 28に銀を打ちたい。

 自分の直感を信じたい。けど、私が思いつくような手は、きっとショウだって読んでいるはず。反動を食らって、逆に窮地に立たされてしまう可能性がある。

 困ったな。ここに来て、頭が朦朧として考えがまとまらない。ああそっか、お弁当食べてないから──。


 ぐー。

 昼食のことを思い出したのがいけなかったか。

 お腹の虫が、盛大に鳴いた。


「──っ……!」


 慌てて両手でお腹を押さえるも、一度鳴き始めた腹の虫は中々収まらない。

 仮にも鬼ともあろう者が、人前で何てみっともない。弱みを見られた。恥ずかしい……!


「う、ううううう」


 情けなくて、涙が出そうになる。皆の視線が辛くて、私は顔を伏せた。


「ほれ」


 そんな時、ショウが声を掛けて来た。

 鼻に感じたのは、わずかながら甘い匂い。

 恐る恐る顔を上げると。彼が私に向かって、手を差し伸べているのが見えた。その手には、四角くて茶色い栄養補助食品が握られている。


「あいにくと手持ちはこんなモンしかねぇがよ。空きっ腹で指すよりはマシだろ?」

「え、くれるの? 何で?」


 思わず訊き返す。

 彼にとって私は対局相手、つまりは敵だ。情けをかける理由など、無いはずなのに。

 私の質問に、彼は苦笑混じりに答える。


「空腹のせいで負けたとか、対局後に言い訳されたら困るしな」

「なっ……そんなことするわけ……!」

「俺はな、燐。君と最高のデートがしたいんだよ。君には、万全の状態で指して欲しい」


 デートって。彼は今まで、デート気分で対局してたというのか。

 あまりにもお気楽過ぎて、思わず吹き出してしまう。


「何だ? 何かおかしいこと言ったか? 口説き文句のつもりだったんだがな」

「あはは……ごめん。肩肘張って指してたのが、馬鹿らしくなっちゃってさ」


 せっかくの贈り物だ、ありがたく頂戴しよう。


 一口かじる度に、身体の奥底から力が湧き上がって来るのを感じた。同時に、頭の中が徐々に鮮明になっていく。

 最高のデート、か。面白い、やってやろうじゃないか。

 指先から生じた炎が、右手を伝って全身に燃え移る。うん、悪くないコンディションだ。


「あの」


 熱くなる私に、声を掛けて来る人物が居た。


「良かったらこれ、召し上がって下さい」


 大森さんだ。人の好いお爺さんは、ラップに巻かれたおにぎりを差し出してくれた。


「わあ! 大森さんが握ってくれたんですか? ありがとうございます!」

「あ、いえ。握ったのは香織さんです」

「……え?」

「先程意識が戻られたようで。これを、貴女にと」


 大森さんの話では、私が対局に集中している間に、香織さんが目を覚ましていたとのこと。

 立つのもままならない状態で、彼女は私のために、おにぎりを握ってくれたというのだ。 私が昼食を食べていないのに気付いて。私を気遣って。


「──本当、底知れないお人好しだわ」


 敵わないなあ、あの人には。


 具の無い、塩をまぶしただけのおにぎりを、口一杯に頬張る。

 美味い。もう一口。美味い……!

 ああもう。香織さんの優しさが、身に染みる。


「伝言を頼まれました。負けてごめんなさい、と。頑張って、と」

「うん……うん……!」


 私、頑張れるよ。絶対負けないよ。

 必ず、一勝を手にしてみせるからね。


「香織さんに伝えて下さい。大船に乗ったつもりで、安心して休んでて下さい、って」

「はい」

「それと。早く元気になって、一緒に決勝戦に出場して下さい、って」

「かしこまりました。ご武運を」


 炎が猛る。制御しきれない程に。

 だが、不思議と心地よかった。今なら、鬼の力を全て解放できるかもしれない。


 そうだ、難しく考え過ぎた。

 先鋒戦を目にして、壮絶な棋士の覚悟を見せ付けられて。勝たなければならないと、気負ってしまっていた。

 違うのだ。あの一局を通して香織さんが伝えたかったことは、もっと単純で、もっと大切なこと。


 将棋を、全身全霊をもって、楽しむ。

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