第八章・鬼籠野燐の青春

(1)人鬼襲来

 大人は嘘つきだ。

 鬼籠野には村があったし、村には彼が居た。

 だけどある時、神様が隠してしまった。何もかもを。

 そのことを皆わかっているはずなのに、口を揃えてこう言うのだ。

 神の山に、鬼は居なかった──と。


 私だけが覚えている。

 私だけが、両の眼に焼き付けている。

 彼の地で、何があったのかを。


 山肌を覆い尽くす、紅い津波。

 抗いようの無い、神威(かむい)の顕現。

 私は忘れない。

 最後に見た、彼の笑顔を。

 儚く煌めいた、生命の輝きを。


 ……私は、貴方を忘れない。


 大人は嘘つきだ。

 そして、彼らは臆病者だ。自ら真実に蓋をしてしまった。

 だけど私は、彼らとは違うから。


 だから今も、鬼を名乗っている。



「鬼、ねぇ。随分とまあ、可愛らしい鬼が居たもんだな」


 ふと耳に入ったその声に、ハッと我に返ると。

 軽薄な男の笑顔が、私を迎えてくれた。


 そうだ、今は将棋大会に出場しているんだった。準決勝の中堅戦。

 これから私は、目の前に居るこのいけ好かない男と戦い、何としても勝たなければならないんだ。


「確か、君は俺の試合を観ていなかったよな?

 ──うん、居なかったはずだ。君みたいなカワイ子ちゃんが居たら、気付かないはずが無い。

 対局前に、軽く自己紹介でもしようか? 俺の名はショウ・ザ」

「必要無い」


 男の言葉を遮り、私は睨み付ける。

 何故だろう。こいつの笑顔が、無性に癇に障る。


「そうか。そいつは、残念だな」


 フェアじゃないと思ったんだが。

 そう答えて、男はわざとらしく肩を竦めてみせた。


「俺は観ていたぜ、君の試合。一回戦、二回戦共に、君の相手は女子高生だった。

 美少女達の競演だ、見逃すはずが無いわな。いやあ、眼福だったぜ」

「キモいわ、アンタ」

「くくく。いいねえ、そう来なくては。口説き甲斐があるってもんだぜ」


 く、口説く?

 突然何を言い出すんだ、このおっさん?


 蛇のように絡み付く視線を感じ、鳥肌が立った。この男は一体、何を考えているんだ?

 あ、もしかして、集中力を削ぐための作戦とか? だとしたら、まともに相手しちゃ駄目だ。

 男から目を逸らし、駒を並べ始める。


「二試合共、相手はガチの居飛車党だったよな。だからこそ際立った。君の異質さが」


 駒並べには、対局者の性格が表れる。

 雑に、順番も適当に並べる人も居れば、一つ一つ丁寧に、定められた順番通りに並べる人も居る。

 それで対局結果が決まる訳ではないけれど。強い人は大体、駒を並べる所作も美しいのだという。


 道場に行った私がまず最初に教えられたのは、正しい駒の並べ方だった。


「棋は心なり。対局席に座った時点で、既に勝負は始まっているのです」


 大森さんの教えを思い出し、できるだけマス目の向きに揃えて並べていく。

 駒の並べ方には大きく二種類あって。メジャーな『大橋流』と。


「へえ、『伊藤流』か」


 感心したように、ショウが呟く。その時には既に、彼も並べ始めていた。

 そう。私の並べ方は、伊藤流と呼ばれているものだ。


「一回戦二回戦の時とはまるで違う、なかなか様になってるじゃねぇか。一体何があった?」

「アンタに答える義務は無い」

「へへっ。つれないねぇ」


 だがそれがいいと、男は笑う。

 彼の並べ方は大橋流。玉、金、銀、桂馬、香車、角、飛車を並べた後で、歩を真ん中から左右に広がるように並べていく。


 左右対称に、整然と。美しさを取るなら、大橋流の一択だろう。

 実際、多くの棋士達はこの並べ方を採用しているらしい。


 一方の伊藤流は。玉、金、銀、桂馬までは大橋流と同じ。次に歩を左から横一直線に並べるのが特徴的だ。その後で香車、角、飛車の順に並べて完成させる。

 何故そんな変わった順番なのか。


「香車、角、飛車が敵陣を直射しないよう、先に歩を打つことで防いでいるのです。対局相手への配慮と言われています」


 私の疑問に、大森さんは丁寧に答えてくれた。

 対局相手への配慮こそが、二回戦までの私に欠けていたもの。今の私に最も必要なものは、気遣いとのことだ。


 ──よし。綺麗に並べられた。


「けどよ、鬼が伊藤流を選ぶとは。まるで鞘に納まった刀だな。君の将棋は定跡破りの異質さがウリだったが、これじゃあ真価を発揮できないんじゃないか?」


 そう言いながら、ショウは慣れた手つきで駒を並べ終えた。早いけど、それでいて繊細。マス目に沿ってミリ単位で揃えられた駒達が、輝きを放ち始める。

 悔しいけど、経験の差が出たか。

 自陣との差は歴然。相手陣を見つめ、私は思わずため息をついていた。

 できるだけ慎重に、綺麗に並べたつもりだったんだけどな。


「大きなお世話よ」


 それだけ、何とか言い返す。

 並べ方には性格が表れるというけど、この男の場合は全然違う。

 こいつは、嫌な奴だ。


「くく。君の新たな一面が見られるのなら、それも悪くないかもな。

 さあ、振り駒をさせてもらうぜ」


 歩が五枚、盤上に放たれる。鮮やかな手つきだった。駒達は一枚も立つこと無く、天に向かって面(つら)を曝(さら)した。

 『歩兵』が三枚、『と金』が二枚。残念、後手だ。


「ああそうだ。一つ言い忘れていたことがあった」


 対局直前になって、ショウの顔からふと、笑みが消えた。

 いや、口角を上げて笑顔の形を保ってはいる。ただ、感情が込められていない。


「君は、本物の鬼に遭ったことがあるかい?」


 ぼそりと、彼はそんな言葉を口にする。

 ぞくっ。そのたった一言で、背筋に震えが走った。


「そうか。あるのか」

「な、何言ってんのよアンタ。鬼は私よ。鬼籠野の血には、鬼が宿っていて──」

「そうだ。鬼の血が混じっているだけの、ただの人間だ」


 自分でも情けなく思える、震え声に。ショウは声のトーンを落として答えて来た。

 静かに、否定された。ただの、人間だって?


 何だ? この男、一体鬼の何を知っている……?


「何が、言いたい?」

「昔、君の祖先は鬼と遭遇し、血を分けられた。鬼側の意図は不明だが、君達にとってはさぞ都合が良かったことだろう。何しろ、人智を超えた能力を、断片的とはいえ得ることができたんだからな。

 だが、所詮は借り物だ。本物の鬼には、到底敵わない」


 ショウの瞳が、妖しく輝いた。


 まさか。

 そこまで聞いた所である考えに思い当たり、私は息を呑む。

 いや、しかし。そんなはずは。

 目の前に居る、この軽薄な男が?

 ありえない。そんな偶然、あるはずが無い。


「なあ。鬼の眼は、何色だった?」


 男の問いかけに、私は答えることができない。

 金色の双眼が、私を捉えていた。

 射竦められる。


 過去の記憶が蘇る。

 かつて、鬼籠野の里山で出逢った『彼』の眼は──。


 蒼白い月明かりに、よく映えていたのを思い出した。

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