(19)託された想い
──時が、止まった気がした。
最後の一手を指す寸前で。
駒が盤に触れる直前で。香織さんは、動かなくなった。
異変に気付き、初めに動いたのは修司さん。
香織さんの名前を呼びながら、彼女の下に駆け付ける。
一瞬遅れて、私達も次々に席を立った。
ああくそ。何が起きているのかわからない。
わからないまま、香織さんの様子を見る。
彼女の口元には、笑みが浮かんでいた。
目を閉じて、スヤスヤと寝息を立てている。
「……どうやら、大事には至ってないようですね」
大森さんが、安心したように呟いた。
うん。心配して損した。
何て能天気な寝顔。どんな楽しい夢を見ているのやら。
「恐らくは全棋力を使い果たしたのだろう。後一手で決着が着いたのに、惜しかったな」
今度は穴熊さんが口を開く。
惜しかった、じゃないよ。そんな一言じゃ済まされないよ、この一局は。
凄まじいまでの、勝利への執念を感じた。
観ていただけなのに、対局していないのに。こっちまでゾクゾクした。
それなのに、こんな終わり方。納得いかなかった。
香織さんの代わりに、最後の一手を指してやりたい気分だ。勝っていたのに。詰ませていたのに。
「残念だが、こうなってしまった以上、先鋒戦は無効試合とすべきだろうな。中堅戦と大将戦のみで、チームとしての勝敗を決定する。もし一勝一敗となった場合は、補欠戦を行おう」
……は?
このおっさん、何を言い出すんだ?
無効試合? それってつまり、先鋒戦に意味が無かったってこと?
香織さんが必死で、執念で築き上げた棋譜を、無かったことに……?
「──ふざけないでよ」
「ふむ? 君は確か、鬼籠野燐と言ったか」
「私の名前なんてどうでも良い。あんたの提案は認めない」
私が睨み付けると、穴熊さんは怪訝そうに眉をひそめる。何を怒っているのか、理解できていないようだ。
……私にだってわからない。わからないことだらけだ。何だこの、胸の中のモヤモヤは? どうしてだか、無性にイライラする。
「ならば、君はどう判断する?」
「負けよ」
「ほう?」
「香織さんの、時間切れ負け」
私の返事に、穴熊さんは「なるほど、確かに」と答えた。
その視線の先には、チェスクロックが置かれている。
香織さんの持ち時間は──残り0分0秒。
「君らがそれで良いのなら、ありがたく我らの一勝とさせてもらう」
「構わない。もう負けないから」
「ふっ。ならば、園瀬香織の時間切れ負けで」
「……待って下さい」
声を上げたのは、香織さんの対局相手だった。
紫色から黒色に変わった、元・結月ゆかり。確か本名は、永遠とか言ったっけ?
彼女は恐る恐るといった様子で、手を上げて来る。
「残り一手で私の玉は詰んでいました。時間切れ勝ちと言われても、納得がいきません。この勝負、私の負けです」
ああもう、蒸し返すなよ。面倒臭いなあ。
私が睨むと、彼女は「ひっ」と縮こまる。
もっと堂々としていてよ。あんただってこの素晴らしい一局の、立役者なんだから。
──そう、だから。少しは敬意を見せないといけないか。
こほんと、咳払いをしてから口を開く。
「いや。やっぱり、あんたの勝ちだよ」
「で、でも」
「香織さんを限界まで追い詰めて、棋力を消耗させたんでしょ? 最後の一手を阻止したのも、あんたの実力だったってことじゃない」
「そんな、屁理屈」
「あんたが勝ちを認めないと、今度は香織さんが納得しないと思うけどな」
私の言葉に、彼女は息を呑んだ。
やれやれ。世話の焼ける人達だ。
勝ちは勝ち。負けは負け。
白黒はっきり付けて、はいおしまい。
シンプルに、それで良いじゃないか。グダグダ理屈を並べたって、堂々巡りを繰り返すだけだ。
「香織さんとの決着は、次の機会に着ければ良い。この人のことだから、どうせサロン棋縁に遊びに行きたいーとか言い出すでしょうよ」
「そう、ですね。次が、ありますよね」
彼女の顔に、微笑が浮かんだ。
あ、もしかして想像しちゃった? 容易に想像できるよね、香織さんの行動パターンって。絶対逢いに行くって。友達放っておかないって、この人は。
さてと、何はともあれ。
これで先鋒戦は、おしまいだ。結果は、サロン棋縁の一勝。
……ん、待てよ? 一勝?
「あ。賭け」
ふと思い出して呟く。そうだ、賭け。香織さんが負ければ、修司さんの分まで負けになるんだった! しまった、すっかり忘れてたー!
内心焦る私に、賭けの当事者は笑って答える。
「ふふ。あれは香織さんに本気を出してもらうための方便ですよ。
全力の将棋を指せて、私は大満足です。これ以上何を求められましょうか」
それに。中堅戦と大将戦も、勝つのはサロン棋縁です。
だからもう一勝は要らないと、彼女は胸を張って言って来た。
ふん。随分と舐められたものね。
まあいい。何とか、首は繋がった。皮一枚残して、だけど。
「香織を、休憩所に寝かせて来る」
「あ、僕も手伝います」
修司さんが香織さんを抱き起こすと、照民さんがそれを支えた。
うん、頼みますよ。
「後のことは、私に任せて下さい」
修司さんの後ろ姿に向かって、私は告げる。
大船に乗ったつもりでとは、もう言わない。
自信満々で挑んだ二回戦では、力及ばず敗北した。
今度は負けられない。私が負ければ、チームの大会敗退が決定してしまう。
絶対に、勝つ。
親指を立てて。
修司さんは、香織さんと共に歩き去った。
「大丈夫ですよ、貴女なら」
大森さんの応援が心強い。
うん、そうだよね。そのために、わざわざ道場まで行ったんだから。お弁当も食べずに。
私なりに、精一杯頑張ったんだから。今こそ、その成果を発揮する時だ。
『後は頼んだわよ』
その時ふと、誰かの声が聞こえた気がした。
頼まれるなんて、悪くない気分。
誰かのために戦うなんて、初めてのことだけど。
対局席に座る。
お相手は、既に着席していた。軽薄な笑みを浮かべて、こちらを値踏みするように見つめて来る。背筋に鳥肌が立った。
不愉快な相手だったけど、目を背ける訳にはいかない。
彼の一挙手一投足を見逃すな。必ずや勝機をモノにしろ。
「へえ。いい目をしてるね、君」
気に入った。そう言って。
その男は、にやりと笑った。
確か、ショウとか言ったか。その笑顔、今すぐぶん殴りたい。
こうして、新たな戦いの幕が上がった。
準決勝中堅戦。負けられない一戦。
鬼籠野の血よ。今こそ私に、力を貸して。
この戦いに勝利し、弟を家に連れて帰るために。
香織さん達の期待に応えるために。
そして、何よりも。
あの先鋒戦を超える一局にするために。
──やってやる。
第七章・完
第八章に、続く
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