(18)一番大切なもの

「私の合図一つで、照民は動きます」

「冗談、でしょ?」


 思わず訊き返していた。

 にわかには信じられなかった。


 私が勝てばしゅーくんを殺す?

 そんなことして、ただで済む訳がないのに。この子は突然、何を言い出すんだ?


「勿論、本気ですよ。あ、気をつけて下さいね。

 少しでも怪しい動作を見せると、合図を待たなくても照民は動きますから」


 穏やかな口調で、物騒な言葉を口にする彼女。

 動くというのは、つまり。照民さんが、しゅーくんを──。


 横目で夫の姿を確認する。

 彼は真剣な眼差しをこちらに向けていた。良かった、まだ無事のようだ。

 近くに照民さんの姿は見えないけど、また忍者みたいに陰に潜んでいるのだろうか?


 ……どうしよう。


 彼女は私に、わざと負けるよう促している。

 言うことを聞かなければ、しゅーくんの命は無いのだという。気付かれない方法で、危機を伝えられたら良いのだけど。

 ──ああ、駄目だ。それでもやっぱり、彼を危険な目に遭わせることになる。私には、できない。


 諦めるしか、無いのかな?


『諦めるな!』


 その時。声が、聞こえた気がした。

 懐かしい、あの人の声が。私の、内側から。

 消えてしまったはずなのに。私が、殺してしまったはずなのに。


 そうだ。あの人のためにも、私はまだ諦める訳にはいかない。

 死中に活を求めるんだ。


 対局を、続行する。

 相手玉の横の歩を取る。と金を作り、王手をかける。


 私を孤独の闇から救い出してくれたお姉ちゃん。

 見ていて。今度は、私が永遠ちゃんを救ってみせる。

 彼女が取り返しのつかない過ちを犯す前に。

 この一局に、決着を着ける。


 同銀に、更に歩を打ち込む。

 銀がかわした所で、馬で57の銀を回収。攻め駒を補充した。


「その手。まさか、勝つつもり?」


 驚きの声を上げる永遠ちゃん。

 狂気に染まった瞳に、動揺の色が浮かぶ。

 私が夫の命より対局を優先するとは、思っていなかったのだろう。

 ……うん、私だって驚いているよ。

 以前なら、ありえなかった判断だ。


「盤外で何があろうと、絶対に勝つ。死んでも負けない。

 それが将棋指しってもんでしょう?」


 私にできる最善を尽くす。

 わざと負けるなど言語道断。それで夫が助かったとして、その後の人生には後悔だけが残るだろう。

 そんなのは嫌だ。


 ごめんね、しゅーくん。

 あなたの命、私のわがままのせいで奪われてしまうかもしれない。

 でも大丈夫だよ、独りでは逝かせないから。


 この子に、勝たせて。


「馬鹿な。気でも狂ったんですか? 貴女にとって本当に大切なものは、将棋ではなく──」

「今は、この一局が一番大事だよ」


 私の返答に、永遠ちゃんは息を呑んだ。

 みるみるその顔が紅潮する。視線を逸らし、俯いた彼女は、桂馬で片美濃の銀を取った。


「本当ですか? 旦那さんよりも?」

「うん。今だけは、ね」


 彼女の望み通り、心を将棋で満たす。

 この瞬間に、私の全てを懸ける。

 もう一人の私のようには上手くできないけど──弱虫の私にできる、全てのことを尽くす。


 歩を成り、王手をかける。

 同銀に、先程馬で取った銀をぶつける。

 同銀に、金を捨てて王手。


「嬉しい、です」


 彼女の瞳に、輝きが戻った。

 終わりが近いことを悟り、名残惜しそうに駒を擦る。

 そうだ、後数手で終わる。簡単な詰将棋だ。余り駒は無く、自分で言うのもなんだけど、綺麗な投了図が残る。


「残念です。もっと長く、じっくり指したかった」

「今度、サロン棋縁に遊びに行くよ。いっぱい指そう!」

「……ありがとうございます」


 意を決し、玉を下げる永遠ちゃん。

 馬で王手をかける私。

 合駒に、同馬。

 いよいよ、詰みだ。


「本当に、ありがとうございました。私は貴女に、酷いことばかり言って来たのに。貴女は、私を赦(ゆる)してくれた」

「赦すも赦さないもないよ」

「──え?」

「永遠ちゃん。私は貴女のことを友達だと思っているよ」


 だから、赦すとか、そういうんじゃないんだ。

 私はただ、友達が困っていたから、助けてあげただけ。

 ううん、そんな大それたものじゃない。私がやったのは、一緒に将棋を指しただけだ。

 一緒に、対局の楽しさを共有しただけのことだ。


「私も、です」


 呟いた彼女の頬を、一筋の涙が流れ落ちた。


 永遠ちゃんは玉を端に逃がす。

 終局まで、後一手。

 私は深呼吸をしてから、馬を手に取った。


 彼女の玉目掛けて、打ち下ろす。


 走馬灯のように、様々な思い出が頭をよぎった。

 初めて対局した日のこと、しゅーくんと真剣勝負をした時のこと。

 それから、それから。今までの対局、その全てを。


 ああ。将棋ってやっぱ、楽しいな。

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