(17)不純物
「笑顔。いついかなる時も、結月ゆかりで居る間は笑顔を絶やさないこと。
それが条件でした」
そう言って、永遠ちゃんは微笑んだ。
彼女は結月ゆかりになった。
容姿だけでなく、性格や口調まで、完璧に成り切った。棋風は、動画に上げられた棋譜を元に研究を重ね、再現した。
相方の『将棋盤くん』も、ちゃんと用意した。残念ながら、喋ることはできなかったけれど。
人生を上書きした。分厚い仮面で素顔を覆い尽くし、誰からも見えなくした。
全身紫色になり、性格まで変わった彼女の姿を見ても、サロン棋縁の常連さん達はこれまでと同じように接してくれた。皆の優しさが、嬉しかった。
「サロン棋縁は、寄る辺の無い人々の、憩いの地なんです。皆が皆、心に何かしらの哀しみを抱えて生きている。そんな人達の癒しの場を、私は守りたい」
ゆかりで居る間、彼女は充実した時間を過ごすことができた。自分に自信を持つことができた。
唯一サロン棋縁だけが、そんな彼女を受け入れてくれた。将棋を指すだけなら、他の道場でもできるだろうけど。
もっと大切なものを、彼女は穴熊さん達からもらっていた。
閉店なんて、到底受け入れられなかった。
経営難と聞かされた時、彼女は耳を疑った。
店内は常連さん達で賑わっているし、とても信じられない。
でも、それだけじゃ足りないのだと、穴熊さんは告げた。
今居る常連さんだけでは、この先経営を維持できない。このままでは、店を畳むしか無い。
もっと、ご新規さんを増やさなければならない。
そのためには、何よりも宣伝が必要だった。
ちょうど頃合い良く、季節は秋。
秋祭り将棋大会の時期がやって来ていた。
「伏竜稲荷神社の将棋大会は、景品が良いため、他所からも注目されています。
大会で優勝すれば、サロン棋縁の名を広く知らしめることができる。お客さんを増やすことができる。
そう考えて、穴熊さんに参加を進言しました」
穴熊さんは、最初は渋っていたという。
自分が指せば、対局相手が愛を失う。不幸になってしまう、と。
でも、永遠ちゃんは懸命に説得した。『結月ゆかり』の特性を最大限に活かして、熱弁を振るった。情に訴えかけた。
閉店すれば自分を含め、常連さん達が行き場を失うことになる。それで良いのか、と。
「説得は成功しました。私達は優勝を目指して、今この場に居ます。香織さん。私が貴女に勝てば、決勝への切符を手にすることができるんです。大人しく負けてくれませんか?」
「残念だけど、負ける訳にはいかないわ」
概ねの事情は理解した。同情の余地は十分ある。
だけど、それでも負けられない。
告白がもう終わったのなら。
勝たせてもらう。
「──貴女は、私には勝てませんよ」
見えている棋譜(みらい)は同じはずなのに、彼女はそんなことを言って来た。
「私は将棋によって、空っぽだった心を満たすことができました。憧れていた貴女に一歩近付くことができました。
けれど、肝心の貴女は」
貴女の将棋には『不純物』がある。彼女はそう続ける。
「貴女は心の底から将棋を楽しんでいるんじゃない。貴女が本当に好きなのは、旦那さんと将棋を指すこと。違いますか?」
「それは」
そうかもしれない。しゅーくんと出逢っていなければ、私は将棋を指していなかった。
だったら、何だと言うんだ?
「私は誰よりも、貴女の幸せを憎んでいます」
先程聞いた言葉を、彼女は繰り返す。私の幸せ、つまりそれは。
──しゅーくんと、将棋を指すこと。
「今日初めて対局して、確信しました。不純物を取り除けば、貴女の心は将棋で満たされる。私の理想とした貴女が誕生する、と」
落ち着いた口調だった。
穏やかで、静かで。
だからこそ余計に、怖いと思った。
不純物(しゅーくん)を、取り除く。一体どうやって……?
そう言えば先程から、照民さんの姿が見えない。
「一方で、私はこの勝負にどうしても勝たなければならない。大会参加を発案した者として、サロン棋縁を決勝戦に進出させる義務があります」
永遠ちゃんは微笑を浮かべる。
だけど彼女の目は笑っていない。まっすぐこちらを見つめるその瞳から、輝きが消えた。
闇に染まる。
「貴女が勝てば、園瀬修司を殺します」
私だけに聞こえるような小さな声で、しかしはっきりと彼女はそう言ってきた。
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