(15)明鏡止水・極
光が収まると、そこは将棋大会の会場。対局席に座っていた。
良かった、間に合った。
全身紫色の少女と目が合う。
彼女は顔をしかめ、こちらを睨み付けていた。
どうやら気付いたらしい。私の中で起きた変化に。
「貴女は、誰?」
尋ねて来る彼女に、笑みを浮かべて私は、
「貴女こそ誰よ?」
と訊き返す。少女はそれ以上、何も言って来なかった。
盤上に視線を移す。なるほど、ピンチだ。
表層の私が投げたくなった気持ちもわかる。
私だって、師匠に鍛えてもらう前なら、諦めていただろう。
弱気の私達は、元々園瀬香織の諦めの感情から生み出された存在だったから。
だけど、今は違う。
実体を伴う木駒の柔らかい感触は新鮮で、想像していたよりも軽いことに驚いた。
これは、良い音が鳴りそうだ。
盤面をじっくり観察してから、改めて彼女の方へと顔を上げると。
紫色の少女の奥に、黒い髪の女の子の姿が見えた。
何かに怯えている。自分に自信が無い様は、まるでかつての私のようだ。
彼女を、助けてあげたいと思った。
今、その偽りの仮面から解放してあげる。
正真正銘、人生初の一手を放つ。
できるだけ、駒音を高くしたかった。
右手の人差し指と中指で駒を挟み、大きく振り上げる。
所作については、師匠に叩き込まれている。練習なら、山程繰り返して来た。
それでも、全神経を集中させる。狙ったマスを凝視し、打ち下ろすまでは目を離さない。
右手を一気に、振り下ろす。
ぱちん!
解き放つ。
秋空に、甲高い駒音が響き渡る。
やった、上手く指せた。思わず声を上げそうになり、懸命に我慢する。
肌に感じる空気の振動が、世界が本物であることを実感させてくれた。
ああ、私は生きているんだ。生きていて、良いんだ。
ざわっ。
私の指し手に、どよめきが起こる。
あれ、変な手だった?
「バカな」
「いや、しかし」
「成立する、のか?」
口々に、皆が声を上げる。えっ、えっ、えっ?
もしかして悪手だった? やらかしちゃいました?
ごめん、全ての私。代表して指してみたけど、駄目だったかもしれない。
「な……んですか、その手は……!?」
しまいには、対局相手にまでダメ出しされてしまう。
ひぃっ、何かごめんなさい。
怖いから、そんな目で睨まないで欲しい。
こっちは初めて『現実世界(リアル)で』将棋を指すんだから。
悪手の一つや二つ、目を瞑ってよー。
えーでも、そんな変な手なのかな?
私には、一目これだと思ったんだけど。
私の大局観、もしかして歪んでいるのかな?
駄目なのかなあ──83金、って。
香車で金を取って王手をかけてくるか、香車の後ろに桂馬を打って王手をかけてくるか。
どちらを選択して来るにしろ、凌ぎきれると判断していた。
金は渡すことにはなるけど、玉は詰まない、はず。
そう思っていたんだけど、皆がこの手を予想していなかったのなら、やっぱり悪手だったのかも……。
「今の一手は、断じて直感で指せる手ではない」
紫色の少女が口を開く。
何だ? 少し、雰囲気が変わったような?
先程までとは打って変わった、落ち着いた口調だ。
「普通は85金と受ける。それをあえて83に打ったのは、83に腹銀を打たれるのを防ぐため。違う?」
「うん」
「やはり。深層と混じったか」
私の頷きで確信を得たのか、彼女は鋭い視線をこちらに送って来た。
憎悪と殺意が入り混じっているのがわかる。
どうして私、この子にここまで恨まれているんだろう? この子とは、今日初めて会ったばかりで──。
「どうやったか知らないけど、明鏡止水の状態に至る手段を取り戻せたようね。小癪な」
そう告げた、彼女の瞳が透き通っていく。
盤上の全てを、鮮明に映し出していく。
何よ。自分だってなってるじゃん、明鏡止水。
ただ、その明鏡止水は不完全。
無意識にフィルターを通してしまっている。紫色の。
それでは、見えないモノも生じる。
彼女は王手をかけず。飛車を引き、私の馬にぶつけて来た。
恐らく馬で桂馬を取られるのを面倒と思ったのだろう。
今の私の持ち駒はゼロ。攻めの取っ掛かりも無い。
ならば、無理に攻めるよりも、受けきった方が良いと判断したんだろう。
わかるよ。極めて合理的な判断だよね。
だから。馬を逃げず、先程打った金で香車を取る。
──だからこそ、読み易い。
「はあ? 馬と香車の交換? 馬鹿じゃないの?」
そう吐き捨てながらも、彼女の表情には焦りが浮かんでいた。私の指し手が読み切れず、困惑している。
その感情さえも、今の私には鮮明に読み取れる。
困惑の仮面の奥に潜む、わずかな怯えさえも。
これが、真なる明鏡止水。
今、やっと理解できた。
飛車を走らせ、馬を取る彼女。当然の一手。
だけどその手はぬるい。中央の金を使って歩を取りつつ、彼女の馬に圧迫をかける。
2筋に逃がした所で、4筋の相手金の頭に、今取ったばかりの歩を打ち込んだ。
金を下がらせた所で。
2筋の馬目掛けて、先程取った香車を打ち込む!
「く──そんな……!?」
驚愕の声を上げる少女。
私の持ち駒は常にゼロ。入手後に即座に使用し、徐々に彼女を追い詰めていく。
彼女は豊富に駒を持っているけど、使う暇を与えない。
合い駒を、効かさない。
馬が逃げると、すかさず金を進出させる。
このままではまずいと、打った香車を狙って、角を打つ彼女。それも読み筋。
飛車で受ける。
銀を飛車の頭に打ち込む彼女。逃げれば、せっかく打った香車が取られ、攻めは途切れてしまう。
いいよ。飛車、あげるよ。
飛車で銀を取る。同角成りに。
取ったばかりの銀を、即座に相手陣に打ち込む。
馬と玉とを、抑え込んでいく。
「そんな、馬鹿な。攻めを、逆に利用されている……!?」
呻く彼女。その顔に、微かな絶望の感情が混じるのを、私は見逃さなかった。
畳み掛ける。攻撃の手を緩めない。
攻めている暇は無いと、飛車を取って作った馬を引き、自陣に利かせる彼女。
粘る手だけど、果たして受けきれるかな?
香車を走らせ、王手を掛ける。
同馬同銀同玉に、更に金をぶつけた。
「こんな……こんなはずじゃなかった。右矢倉は作戦勝ちだったし、今だって優勢には変わりないはずなのに! どうしてそんな、ギリギリの攻めが通るの!?」
悲鳴に近い叫び声を上げて、紫色の少女は席を立った。
ぶつぶつと何かを呟きながら、対局席の周りを歩き始める。
懸命に思考を組み立てているようだ。
歩くという行為は、確かに頭の中を整理する時に役立つ。
対局中ではその分持ち時間を消費するから、やる人は少ないけど。
ぐるぐる歩きながら、考えをまとめている。次の一手は玉が逃げるしか選択肢は無いけど、どこに逃げるか。そして、その後どう指すか。
必死で導き出そうとしている。この局面の最善手を。
何周か歩いた後で、彼女はため息を一つついた。
「どうやら、認めるしか無いようですね」
着席し、私の目を見つめて来る。
「『結月ゆかり』では、貴女には勝てない。読みの精度で負けている。圧倒的に」
だから。もう演技をするのはやめます。
そう言った、次の瞬間。
彼女の瞳から、色が消えた。
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