(14)師匠

 角を切り、飛車を切り。

 獲得した金銀を、惜しみなく攻めに投入する。

 王手されることを、恐れない。

 詰まされなければ問題無い。過剰に守らない。

 ギリギリを見極める。詰むや詰まざるや。


 最高に楽しい。

 ああ、そうか。これが将棋なんだ。


 師匠の玉が、初めて後退する。

 私が押している証拠だ。

 逃がさない。絶対に仕留める。脱出ルートは、既に封鎖した。後は、速度の勝負だ。

 詰まされる前に、詰ませる。


 ぞくぞくっ! 全身が震えた。

 見えた。勝利への道筋。明鏡止水。その、更なる高み。最果ての境地。

 棋譜を通して、対局相手の真実(じんせい)をも見極める。


 若い頃の師匠が見えた。

 将棋が大好きだった彼女は、来る日も来る日も盤と向かい合っていた。

 彼女はやがて成長し、女流棋士になった。


 ある日、指導対局に訪れた道場で、一人の青年と出逢った。

 彼は道場破りにやって来たのだと言う。

 無礼極まり無い青年はしかし、道場の人間を次々と打ち破っていった。

 誰も彼を止めることができない。席主さえも。

 このままでは本当に、道場破りを完遂されてしまう。

 見かねた彼女は、指導対局という名目の下、青年に対局を申し込んだ。


「女と指すのは、好きじゃないんだが」


 渋々と言った様子で引き受ける青年。その一言に、彼女はカチンと来た。

 対局が始まり、青年は矢倉を選んだ。


 それは、純文学と形容するに相応しい、美しさと力強さを兼ね備えた矢倉だった。

 彼との相矢倉戦は、彼女にとっては大層心地よく。

 ふてくされていた心が、徐々に癒されていくのを感じた。

 対局を終える頃には、すっかり魅了されてしまっていた。


 有り体に言えば。

 彼女は、恋に落ちていたのだった。


 対局自体は何とか勝ったが、敗北した気分だった。

 道場を去って行く青年に、彼女は自分から声を掛ける。

 もう一度貴方と指したい、と。


 それが、青年・園瀬竜司との出逢いだった。


 二人は逢瀬を重ね、やがて結ばれた。

 時代は、激動の昭和末期。

 竜司を全面的に支えるため、彼女は女流引退を決意する。


「──負けました」


 師匠は、頭を下げた。

 ハッと我に返り、私も慌ててお礼を言う。ありがとうございましたっ。


 いやあ、それにしても。まさか。

 あんな熱いのを見せられるなんて、思わなかった。

 いいなあ青春。私もしたかったなあ、燃え上がる恋。


「その顔。見たわね?」

「え? あははは……つい」


 私の反応に、師匠は盛大なため息をついた。


「貴女には知られたくなかったんだけど。

 そうよ。私は昔、女流棋士だった。

 と言っても、竜司さんと出逢ってすぐに辞めたから、知ってる人は少ないでしょうけどね」

「もしかして、しゅーくんも知らないの?」

「もちろん。家庭に入ってからは、一切指さなかった」


 夫を陰ながら支える存在でありたい。

 彼より目立つようなことはしたくない。

 目指すは、良妻賢母。

 その信念の下に、彼女は将棋を断ったのだという。


 私とはだいぶ異なる価値観。

 そんな時代だったんだろうか、昭和って。

 その決断の是非は、私にはわからない。


 だけど、これだけは言える。

 師匠の決断があってこそ、今の関係があるのだと。


「さ。私の話はもういいでしょ。急がなければ、試合が終わってしまうわよ?」

「ああっ! そうでした」

「今こそ、扉を開くわ」


 将棋盤から、白い光が広がっていく。

 師匠の姿が見えなくなる。

 闇の世界が、光に満たされていく。


「棋力は申し分無し。自信を持ちなさい。

 今の貴女なら、絶対に勝てる」


 園瀬の嫁として、恥じない将棋を指しなさい。

 最後に先輩から、ありがたいプレッシャーを戴いた。


 本当に、ありがとうございました。

 良かったらまた今度、私と指して下さい。

 その時は是非、平手でお願いします。

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