(12)刹那の二十年
前に、一度だけ観たことがある。十枚落ち。
大人の『私』が、初めて指した時のことだ。
中学生の女の子相手に十枚落ちで挑み──ボッコボコにやっつけられたのを覚えている。
あれは、ものすごいインパクトだった。
今度は、わたしがボコられるのかな?
全く自信は無いけど。平手で指すよりは、勝負になるかも。
「駒落ちは上手側が先手になる。駒が少ない分、不利な状況を少しでも改善する権利が与えられる。私からやらせてもらう」
「はい。よろしくお願いします!」
それまで濁っていた師匠の瞳が、強い輝きを放った。
刹那。数十手が、一気に駆け抜ける。
「……あ……!?」
「どうやら、見えたようね」
「ま……負けました」
今のは、何? よくわからないままに、負けを認める。
ものすごいスピードで、わたしと師匠は交互に指し合って。
最後には、わたしの王様は詰んでいた。
「ありがとうございました。さあ、もう一局。王手は追う手。闇雲に王手を続けるんじゃなくて、確実に逃げられない手を考えなさい」
ぽかんと口を開けるわたしに、師匠は淡々と言葉を紡ぐ。
えっと。今ので、一局終わったってこと?
人生初の対局、楽しむ暇も無かったなあ……。
「時間が無いのでしょう? 一局十秒で終わらせる」
無茶苦茶だけど。
話す合間に、二局目が終わっていた。またしてもわたしの負け。
うーん。逃げられない手、か。
師匠は逃げながら、わたしの駒を一つ一つ取っていく。そうして手に入れた持ち駒を使って、わたしの王様をしとめるんだ。
逃がさず、駒も渡さないことを心がけよう。できるだけ駒がバラバラにならないようにして。王手をかけずに、じわじわ取り囲んで。
「──負けました」
今度は師匠が頭を下げる。
勝った……!
「やったあ!」
「少しはできるようになったか。じゃあ次は八枚落ち」
「え?」
初勝利の喜びも束の間、再び対局が始まる。今度は王様の隣に金が居て、両脇をがっちり守っている。
これじゃ、王手がかからないよー。
負けた。負けた。また負けた。
龍と馬とでどんなに攻めても、王様に届かない。
「二枚だけじゃ、私の玉には届かない。他の駒も使いなさい」
他の駒? あ、そっか。
ついつい足の速い飛車と角だけで攻めたくなるけど、攻め駒は他にも居たんだった。
「攻めの基本は──飛車角銀桂!」
銀は千鳥に、桂馬は高跳びに気をつけて。飛車と角の応援に駆け付けさせる。
行っけぇー!
「負けました」
やった! 金をどかせて、王様を詰ませられた!
ばんざ──。
「はい。じゃあ次は六枚落ち」
……あ。やっぱり、喜ぶ暇を与えてはくれないんだね。
師匠の守り駒が更に増える。金の隣に、銀が並ぶ。
銀は攻めにも守りにも使える便利な駒だ。簡単には勝たせてくれない。
どうしたら良いんだろ?
「攻め駒を、連携させなさい」
バラバラに攻めても、守り駒の連結は崩せない。
だから攻め駒同士で力を合わせて、一点突破を図るのが良いんだって。
よーし、じゃあ攻める場所を決めよう。みんなでがんばるぞー!
……あ、負けちゃった。
「突破するのに手を掛け過ぎ。後、攻めてばかりじゃなくて、ちゃんと受けなさい」
わたしが一生懸命端っこを攻めてる間に、師匠は中央にででんと居座って攻めの拠点を作って来る。
うーん。端っこを狙うのは悪くないと思うんだけどなあ。
中央から攻めて来るのなら──そうだ。
端は桂馬と香車に任せて、飛車角と銀は真ん中を攻めてみよう。
「中飛車か」
師匠は表情を変えず、呟いた。
またしても、あっという間に勝負が着く。
「負けました」
そう言った時には、既に駒を並べ直している師匠。
だから、早いってば。
「次は四枚落ち。ここからは、本気で指す」
今度は桂馬が増えた。
あの駒、ぴょんぴょん飛び越えて来るから苦手なんだよなあ。
高跳びしてくれないかなあ?
負ける、負ける、負ける、負ける……。
ひーん、全然勝たせてくれない!
本当に本気になったんだ、師匠? 滅茶苦茶強い!
こんなの、勝てる訳無いよー。
「二十年」
「──え?」
「貴女の二十年分を、将棋で上書きする。覚悟しなさい、園瀬香織。ここからは、一局一秒」
はい? 今、何て言いました?
師匠の言葉は、本当だった。
一局一秒。
駒を並べ直した次の瞬間には、終局図が現れる。あっという間に一局が終わる。考える暇も、指した実感も無い。
けど、指先には駒の感触が確かに残っていて。頭の中では、棋譜を鮮明に再生することができた。
ひたすら負け続ける。
延々と指し続ける。
脳を、将棋に浸す。
途中から、何回負けたか数えるのが面倒になってきた。何百回? 何千回?
それくらい負け続けて、ようやく見えてきたものがある。
四枚落ちを、棒銀に端攻めを絡めて攻略する。
基本的な攻め筋はそれで問題ないはずだ。でも、師匠は当然棒銀の対策を知っている。
簡単には勝てない。
だからこそ、面白い。
「ねえ、あんた」
不意に、師匠が尋ねて来た。
何? 今は対局中なんだけど。
「少し背ぇ伸びたんじゃない?」
言われて、自分の体に起きた異変に気づく。本当だ。身長も伸びたし、ぺたんこだった胸も、心なしかふっくらしてきたような……。私、成長している?
「負けました」
それから、師匠は頭を下げた。
やっぱり、成長している。
棋力だけじゃない。体も、心も。
それに比例して、将棋を好きだという気持ちも、確かなものに変わっていた。
本当に、二十年分指すのかな?
今でも十分楽しいのに、この先一体どうなってしまうんだろう?
「ふむ。四枚落ちではもう勝てないか。なら、次は二枚落ちね」
「ねえ、師匠」
「何か?」
「師匠はどうして、そんなに強いんですか? そんなに強いのに、どうしてやめてしまったんですか? 盤駒の手入れも完璧だし、将棋を楽しいって気持ちは変わってませんよね」
「ふん。何だ、そんなことか」
私の質問に、つまらなさそうに鼻を鳴らす師匠。
飛車角以外の駒を並べる。
「私に勝てたら、教えてやる」
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