(9)奈落の邂逅

 ごめんなさいと、遠くから声が聞こえた気がした。

 何を謝るのかと、疑問に感じた時には。


 奈落へと、堕とされていた。


 全身の骨が砕け、声にならない悲鳴を上げる。

 深層の、更なる底。

 先程まで走っていた見慣れた並木道は消え失せ、周囲には闇だけが広がっている。


 どうやら、心が折れたらしい。


 表層の私が、今正に投了を告げようとしているのだと気づいた。

 こうしては居られない。身を起こす。痛むけど、問題ない。体を動かせない訳じゃない。 元より深層の私には、傷つく肉体は存在しない。


 傷ついたのは、それより大切なもの。芯に宿る、魂だ。


 立ち上がった瞬間、今度は突風に飛ばされる。


 見えない何かが、私の前に立ち塞がっている。

 それは、この世界の支配者だとのたまう『結月ゆかり』などよりも、余程恐ろしいものだ。


 全身を、刃に切り裂かれる。

 それでも、起き上がる。

 傷が深さを増していく。

 それでも、前に進む。


 私を屈服させようとするものは、私自身の内より出でしモノ。

 負けられない。


『諦めろ』


 不意に、耳元で囁かれた。

 身体中を、悪寒が走る。

 今一番聞きたくない言葉を、自分の声で聞かされた。


 反射的に振り返ろうとして、懸命に堪える。駄目だ。今、後ろを向いてしまっては。


 前を向く。

 方向が合っているかどうかなんて、暗闇の中ではわからないけど。

 道なんて、無いけど。


『諦めれば、楽になるのに』


 そんなことはわかっている。

 私は、私自身のことをよくわかっている。楽になりたいよね? 逃げ出したいよね? 苦しいのは、嫌だから。

 暗中模索。それでも私は足掻き続ける。


『諦めないのなら──死ね』


 遠慮の無い殺意が、刃となって体を貫く。

 私が、私に殺される。


 それでも立ち上がる。

 殺そうとしたって、無駄だ。

 どんなに諦めさせようとしたって、この私の心は決して折れない。


 お前は弱い。私は強い。

 お前なんかに、負けるものか。


 背後から腕を掴まれ、強引に前進を止められる。何かが背中にのし掛かって来る。

 あまりの重圧に、地面に倒れ込んだ。


 敵は一人や二人ではなかった。

 全員に押さえ込まれる。身動きが取れなくなる。抗えない。


『もう諦めろ』


 再び声が聞こえて来た。

 諦めろ、敗北を受け入れろ、楽になれ。

 それは私自身が望んでいることだ。その望みは、受け入れるべきなのだろうか。


 嫌だ。

 そんなのは嫌だ。


 諦めた先に、未来は無い。


 私にとっての最悪の未来。

 夫が居ても、将棋が居ない世界。

 そこに、愛は存在していなかった。


 あれに比べたら、この程度──いや。あれを見せられた後だからこそ、私は今、耐えられているのだろう。

 ありがとう、『結月ゆかり』。そのことに関してだけは、貴女に感謝する。


 炎に包まれた、道場を思い出す。


 伏竜よ。種火を頂戴。

 魂に、火を点ける。


 どのみち動けない体に用は無い。

 『芯』さえ残れば、後は要らない。

 燃え上がれ。私を今正に食らい尽くそうとしている、弱い心と諸共に。


『や……やめろ……!』


 諦めろとは、もう言わせない。

 今度は私が、お前を灼き尽くす番だ。燃料は、我が魂そのもの。


 不意に体が軽くなる。

 『敵』が逃げようとしているのだと気付いた。

 駄目、逃がさない。貴女は私なのだから、逝く時は一緒だ。

 力の限りしがみつき、絶対に離さない。


『ヤメロ……ヤメロオオオオオッッ……!!!』


 叫びは虚空へと消え。

 身に纏う炎は勢いを増し、やがて旋風となりて、天へと上る。

 昇竜の如く。


 魂が、こんなにも激しく燃えるなんて知らなかった。

 痛みは無い。ただ、熱気を感じた。

 全ての迷いが消える。全ての弱さが消える。

 身を焼き尽くした炎は、いずこかへと去って行った。


 闇の中に、一筋の道が浮かび上がる。

 その先には、一軒の古びた民家が建っていた。

 あれが終点。目指していた場所。


 大丈夫、歩ける。

 意を決して、民家へと向かう。一人で行くのは、今回が初めてだ。緊張しない訳じゃないけど。

 表層の私が待っている。一刻も早く、助けに行かなければ。


 ──なのに、また。

 背後から、腕を掴まれた。


 先程までとは違って、引き留める力は無い。

 置いて行かないで、と消え入りそうな声が、聞こえた気がした。


 たまらず振り返ると、そこには小さな女の子が居た。

 今にも泣き出しそうな、心細そうな顔で、こちらを見上げている。

 全てを焼き尽くしたつもりでいたけど……焼け残りが、居たんだ。

 それは私。私自身の弱さ。幼い頃の、私の姿。

 厳格な父に叱られ、奔放な母に振り回されて育った、一番思い出したくない時代の私。


 当時の私は、無力だった。

 周囲に流されるがまま、自分がやりたいことも見つけられず、ただ生きているだけの人生。世界には色が無く、どんよりとした雲に覆われていた。

 今まで、記憶の底に閉じ込めて来た。

 できれば、無かったことにしたかった。


 だけど。彼女は確かに、そこに存在していた。

 消せない。


 突き放すことは簡単だった。

 か弱い彼女は、この冷たい闇の世界で、一生を怯えて暮らすことだろう。

 誰の目に留まることも無く、誰に愛されることも無く。たった独りで。

 そして私は、彼女のことなど見なかったことにして。今までと同じように、楽しく生きていくのだ。


 そう。楽しく──。


「できるか」

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