(8)折れる心

 私が抱いた、淡い希望を打ち砕くかのように。

 彼女はついに、飛車先の歩を突いて来た。同歩に対し。

 飛車の頭に、先程取られた香車がセットされる。


「ろ、ロケット……!?」

「シンプルながら、意外と咎めにくいでしょう? さあどうしますか、香織さん?」


 息を呑む私に、自信満々に言って来る彼女。

 うん。困った。


 さあどうしましょう?

 逆に問い返したい気分だ。

 こんな時、いつもなら指し手の『感触』が応えてくれていたものだけど、本局に限っては全くの無反応。

 指してから「あっ」と誤りに気付くこともあったけど、今は、無い。何か、変だ。


 まさか。私の中の私に、何かあった……?

 自分自身に問い掛ける。おーい私、大丈夫?

 返事は、やはり無い。


 居なくなった訳じゃない。必ず盤上には存在しているはず。

 だけど、存在を感じない。やっぱり、何かあったんだ。

 所詮上っ面に過ぎない私には、『私』に何があったのかまでは感知できない。

 だけど、それでも。異変に気付くことはできた。


 ──なら。私が、頑張るしかないよね。

 いつも助けてもらってばかりだし。たまには、恩返ししないと。


 しっかりしろ、いつまでも浮ついている場合じゃない。

 パン! 両手で頬を張った。

 よし! 『私』の分まで、私が考えるぞ!

 手は見えない。のなら、強引に導き出す!

 最善手など、はなから見えないものには期待しない!


 馬ができて、間近に相手の飛車が居たのなら!

 狙いに行くでしょ、普通!?


 普通の手を指す。

 こうなったら、捻った手は考慮に入れない。

 ごく普通の、ありふれた手で攻める。

 誰でも考えつくような手で、ロケットを解除する!


 だからこそ、読み筋だったのだろう。

 ゆかりちゃんは、冷静に飛車を横に逃がす。

 うんうん、そりゃそうだよね。

 おかげで、局面が少し、わかり易くなった。


 今度は──そうだ、桂馬で両取りだ。

 何も考えずにパッとこの局面図を見せられたら、恐らく十中八九全ての人が思いつくであろう、俗手中の俗手。

 王手金取り。玉がかわせば、当然金をもぎ取る。


 なので、彼女は銀で取って来る。それを更に銀で取り返し、一歩前進!

 拠点の歩を活かして、一気に攻め潰す!


 やれる。やれてる。

 もう一人の私の力を借りなくたって、ほぼ互角、いやむしろ優勢に対局を進行できている。

 ここまでは何の不満も無い展開だ。よし、これで──。


 勝てる、と思った瞬間に負ける。

 それが将棋なのだと、ふと思い出した。


 馬が引かれ、拠点の歩を取られる。

 まずい、次に狙われる駒は。


 このままでは、せっかく相手玉の上にまで進出できていた銀が、取られてしまう。

 何とかして防がなければ。防ぐには、そうだ。

 さっき取ったばかりの銀を、斜め後ろに打ち下ろす。

 ちょっと勿体無い気もするけど、これで彼女だって馬を逃がすだろう。


「銀と交換するのは、少し惜しいですね」


 ほらね、逃がした。


 手番は私にある。まだ攻める。

 持ち駒は歩が一枚のみ。それを、金の頭目掛けて打ち込む。

 ここから、もし同金同銀同金と進めば、右矢倉は完全に崩壊し、金が持ち駒として手に入る。流石にその展開を彼女は望まないだろうと推測していた。

 恐らく、金は下に逃げるはず。

 さあ、逃げろ。もう一度、拠点を作るぞ。


「あらあら、どうしましょう?

 攻められっぱなしになって来ましたね。そろそろ投了を覚悟した方が宜しいのでしょうか」


 困ったようにそう言いながらも、彼女の顔には笑みが浮かんでいた。何だ? この状況を打開できる手があるとでも言うのか?

 疑問符が頭に浮かんだ瞬間。


 彼女の香車が、動いた。


「な──!?」


 悲鳴に近い声が出た。

 私の玉目掛けて、香車が突っ込んで来る。

 そんな、嘘でしょ? 何で今? 飛車が利いていないから、攻めて来る訳無いと思っていたのに!

 完全に、想定外だった。


 ああ、そうだった。

 歩切れなんだった。


 歩があれば、簡単に受けられたのに。

 攻めを継続するために、使ってしまった。


 受けるには、高美濃の銀を上げるしかない。

 けど、同香同玉と進んだ局面は、恐らく劣勢。彼女の攻めは、なおも続くのだろう。

 ……なら、もう一つの選択肢だ。

 玉を端に逃がし、香車を取りに行く。

 玉の可動範囲が狭くなって怖いけど、この際仕方ない。


「惜しいですね。金駒があれば、寄せられそうでしたのに」


 そうだ。幸いなことに、彼女の持ち駒は大量の歩と、桂馬が二枚。

 それだけでは、まだ詰まない。


 ──って。それって裏を返せば。

 金銀を渡したらまずいってことなんじゃ……?


 ハッと気づいた時には、手遅れだった。

 拠点にするべく打ち込んでいた歩を、金で取られる。

 銀で金を取るも、もう一枚の金で取られる。


 当初の目論見通り、右矢倉は崩壊した。

 けど、彼女の手には銀が渡った。こちらも金が手に入ったけど、彼女の玉はまだ寄りそうにない。

 加えて、浮き駒の銀が馬で取られそうなのも懸念点だ。

 取られたら、駄目だろう。


 はあ。思わずため息が漏れた。

 どう指しても良くなる気がしない。

 私なりに、頑張ったんだけどな。


 仕方なく、守る。

 高美濃の上の金を上げ、銀に紐を付ける。

 これで馬を切らない限り、銀を取られることは無くなったけど。


 そこで冷静に、香車を守るために桂馬を打たれる。


「あ──」


 もう、限界だ。ごめん、『私』。

 多分もうこれ、投了するしか無いよ。

 頑張ったけど、残念ながら届かなかった。


 ごめんね、しゅーくん。燐ちゃん。大森さん。

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