(7)ワクチン
駄目だ。角の睨みが無い分、右四間程の攻撃力は発揮できそうにない。
足りない分は、他の筋への攻めで補う必要がある。
ここでまた私は、思い出していた。
相矢倉では、端攻めが有効だったことを。
端歩を伸ばす。ゆかりちゃんは突き返して来なかった。
その代わりに、4筋を左銀で補強される。金一枚、銀二枚での守りは、この上無く強固に見えた。
うーん、どうしようか。
「……お人好し」
その時、ぼそりと呟きが聞こえた。誰かな、燐ちゃんかな?
思わず苦笑する。
確かにそうだ。右矢倉に組ませて、自らを窮地に追い込んでいる。
だってしょうがないじゃん、頼まれたんだもん。
それに、じっくりした将棋を指したいのは私だって同じだ。
もっと深く、語り合いたい。
「本当にお人好しですね、貴女は」
今度ははっきりと、聞こえて来た。
違う、この声は燐ちゃんじゃない。
盤から顔を上げると。
ゆかりちゃんが、呆れたような表情でこちらを見つめていた。
「自分でもわかってる。何が何でも勝たなきゃいけない勝負だって、わかってるのにね」
本当、私は馬鹿だ。
彼女を見つめ返す。
やっと、片鱗が現れた気がする。
彼女の本当の姿、『結月ゆかり』の向こう側。
それはもしかしたら、知らない方が良い真実なのかもしれない。
けど、それでも私は知りたかった。ある一つの感情を、対局の中に感じていたから。
「右矢倉に組んだ以上、私の勝利は揺るぎませんよ」
組ませた時点で私の作戦負けなのかもしれない。
じっくりと囲い合いたいと言ってきたのは、右矢倉に組むための嘘に過ぎないのかもしれない。
それでも、私は信じたい。何度騙されても、信じ続けたい。
『結月ゆかり』の奥底に潜む、真っ直ぐな想いの部分を。
私は、底抜けのお人好しだからね。
「ゆかりちゃん、私は貴女と本音で話したいと思ってる。そのためなら、貴女の得意形にしてもらっても構わないよ」
「余裕ぶらないで下さい! 私は、前に指した時とは違う。
貴女のデータは、全てインプット済なんです。何度も何度も解析を繰り返し、確実に勝てる手を見つけたんだから……!」
いや、余裕がある訳じゃないんだけどな。
それどころか、一手一手がふわふわしていて自信が無い。
その場の思いつきで指してるようなものだから、攻めが繋がらないんだ。
そんな私のデータを解析しているというゆかりちゃん。
一体いつの間に──と考えて。
まさか、と思い当たる。二回戦の後半、彼女は。
「……睡眠学習って奴?」
私の問い掛けに、彼女は大真面目に頷いてみせた。え、本当に?
二回戦の後半、彼女はずっと眠り続けていた。至近距離で爆発が起きようとも、ピクリとも動かなかった。彼女は寝ながら、私のデータを解析していたというのか。
「夢の中で、私は貴女と対局していました」
彼女は真顔で答える。
睡眠の世界は深層に通じていて、そこでは私が待っていたこと。ひたすら二人で将棋を指し続けたこと。そして、最後には必勝法を見出したこと。
「名付けて、『園瀬香織ワクチン』です」
「ちょっと! 私はウイルスかっ」
「それ程までに効果てきめん、ということです!」
名前はともかくとして。
私も以前、似たような体験をしていたことを思い出した。
夢の世界で、見知らぬ誰かと延々と将棋を指し続けた記憶。あのヒトは、人間ではなかったけど。
そのおかげで、私はたくさんの実戦経験を積むことができた。似た効果が、彼女の夢にもあるのかもしれない。
だとしたら、まずいな。勝てないかも。
「照民。あんたが代わりに二回戦を戦ってくれたおかげで、より精度の高い解析結果が得られたわ。礼を言う」
「はっ。ありがたき幸せ」
照民さんの姿は、彼女の陰に隠れてこちらからは見えない。まるで忍者のような隠密ぶりだ。耳に届いた声は、心なしか弾んでいるように聞こえた。
「褒美に、後で痛めつけてあげる」
生足で踏み付けると悦ぶんですよ、と彼女は笑った。
その瞳に、嗜虐的な色が浮かぶ。
これもまた、彼女の本性、なのかな? それとも、真実を隠す偽りの仮面(キャラクター)?
「さて。そろそろ再開しませんか? 持ち時間をだいぶ使ってしまいましたし」
「う、うん」
そう言われても困ってしまう。
指し手が思いつかない。
思い付かない時は、無理に攻めるよりも守りを固めた方が良い。
けど、既に高美濃まで組んでしまっているしなあ。これ以上は難しい。
端歩を突き返して来ないのなら、更に前に進めて押さえ込もうかな?
端攻めを視野に入れるなら、その方が良さそうな気がする。
……うん。
自信は無いけど、やってみるか。
「勿論、そう来ますよね」
端歩を突いた瞬間に、彼女の手が動いた。読み筋だったか、決断が早い。
角が取られる。
しまった、このタイミングで角交換か──!
やむなく桂馬で取り返す。と。
間髪入れず、飛車を8筋に移動させて来た。相振りの場合も、『向かい飛車』って言うのかな?
仕掛けて来る。
ぞわり。
玉頭を直接狙う戦型を前にして、背筋に鳥肌が立った。
飛車と玉の間に銀でもあれば、まだ持ちこたえられそうな気がするけど。
残念ながら、歩一枚しか無い。
歪な高美濃から銀冠に組み換えることは不可能ではないけど、彼女の攻めの方が速い。
銀を上げた瞬間、下の金が離れ駒になるリスクもある。
かといって、彼女のように右矢倉に組み換えることもできない。
なら、高美濃のままやるしかない。交換した角を打ち込まれる危険性もあるけど、それは向こうだって同じはず。向こうの方が、自陣に隙は大きい。やれないことは無い──はず。
うん、全く自信が無い。
数手先には、投了級の局面になりそう。
ええい、ままよ。
飛車先にもう一度歩を打ち込む。同歩なら桂馬が跳ねて銀の両取り。当然取って来ずに。
その桂馬を狙って、角を打たれた。
だ、大丈夫。形は悪いけど、飛車を上げて、桂馬を守る。
彼女は打った角を自陣まで引き、桂馬で紐を付けた。
く、こっちだって。がら空きの相手陣に角を打ち込む。
狙いは、左の金。
取れれば矢倉は半壊し、防御力は大幅に低下する。
「流石にそれは困りますねぇ」
彼女は金を引いてかわす。
すかさず今度は、右銀を狙って歩を突き出す。同歩とさせて、角成りを実現する。
うん。私にしては、攻めが続いている方だ。
どうよ! と彼女の顔を睨む。
あ、笑ってる。
「ではそろそろ、右矢倉の本領を発揮させて貰いますよっ」
せっかく作った馬目掛けて、右銀をぶつけられる。金ならともかく、銀と交換では損だ。馬を逃がすと。
今度は、桂馬を狙って歩を突き出された。
わっ、まずい。桂馬を跳ねて逃がす。と。
そこに、角が突っ込んで来た。ヤバい、香車を取られた。
香車を取られた上に、馬まで作られてしまった。何て味の良い手。
くそう。だったらこっちは、4筋の歩を取り込んで、拠点を──。
「甘いですよ、香織さん」
飛車の頭に、歩を打ち込まれた。
同飛は馬で取られるだけ。でも逃げても拠点の歩を銀で取られちゃうしなあ。うーん。
逃げる前に、何かできる手はないか。
攻めの基本は、相手の守備駒を剥がすこと。
特に金将を取ることができれば、大抵の囲いは崩壊する。
金は要の駒なんだ。終盤においては、角よりも価値が高い。
だったら。飛車を逃げる前に、矢倉の下の金を狙って歩を打ち込む。
同桂とさせて形を乱した後、飛車を下段まで引いて、相手の馬に当てた。
流石に馬を取られる訳にはいかないと、退くゆかりちゃん。
なら、こちらは馬を相手陣に再度潜り込ませて活用しよう。桂馬も捌いておくか。
形勢判断が難しい、一進一退の攻防が続く。
データ解析したと言うだけあって、彼女の指し回しは見事だ。
少しでも悪手を指せば、たちまち形勢は傾いてしまうことだろう。
必死に食らいつく。まだいける、まだやれると自身を懸命に鼓舞し続ける。
押されている。攻めきれない。そう心の底では思いながらも、自分を騙し続ける。
攻めの銀が進出できたし! 高美濃も健在だし! 私にしては頑張れている。まだ戦える──。
「さて、適度に囲いがほぐれた所で。仕掛けますか」
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