(6)真・愛振り飛車
先手は、ゆかりちゃん。
彼女も少し緊張しているのか。
数回深呼吸をした後、右手を天高く掲げた。
「数多の先人達は皆、この初手に一局を託して来ました。私も彼らに見習い、勝利への願いを込めて放とうと思います。
覚悟は良いですか、香織さん? いきますよ──」
宣言と共に振り下ろされる。
ばちん!
気合いのこもった駒音に、心が震えた。
盤上を斜めに火花が走る。
初手は予想通り、角道を開放する一手だった。
ならばこちらも。
角の右斜め上の歩を手にする。
持った瞬間、軽い違和感を感じた。ふわっと浮き上がるような、頼りない感触。
錯覚だとは思うけど、どうにも自信を持てない。
それでも、指す。
恐る恐る、歩を前進させる。
「ここで角交換する手もあるか」
ゆかりちゃんが呟く。
独り言のような、私に向けたもののような。わざわざ口に出さなくても良いのに。
角交換は自信が無い。銀で取り返した後、どう指したら良いかわからない。恐らく彼女は『その先』を知っているんだろうけど。
胸中で願う。お願い、取らないで。
「まあいいや。とりあえず飛車を振ります」
彼女は飛車を左に移動させた。角の真横にまで。
四間ではなく、三間飛車。前に戦った時と同じだ。彼女の得意戦法なのだろう、あえて変えて来たりはしない。
私とは違う。彼女には、同じ手を指しても勝てるという、確固たる自信があるんだ。
羨ましい。
次は私の番。いつもなら何も考えずに四間飛車にする所だけど。
角道を先に閉じるか、振り飛車自体をやめて居飛車を指すか、という迷いが生じていた。
二回戦で沼に沈んだおかげで、少し視野が広がったのだと思う。
それは進歩ではあるんだろうけど、残念ながら手の善し悪しを判断できる棋力が無い。
結果、持ち時間を余計に消費してしまうことになる。
うーん、居飛車は自信無いなあ……。
それにきっと、ゆかりちゃんは相振り飛車での再戦を望んでいる、はず。
うん、やっぱり飛車を振ろう。
角道を閉じてから振るか、先に振るかだけど。
角交換が怖いから、角道を閉じようかな?
歩を手にする。
「あら、閉じるんですか?」
彼女の瞳が妖しく光った。
──あ、そうだった。
前に指した時は角道を閉じるのが早過ぎたせいで、中央への角の進出を許し、一方的に攻められる展開になったんだった。
危ない危ない。うっかりしていた。
角交換は怖いけど、あの展開に比べたらマシだ。一度手にした歩を、元の位置に戻す。
あえて角道を閉じずに、飛車を振る。すっかり手に馴染んだ、四間飛車だ。
うーん。振ってはみたけど、どうもしっくり来ない。自信を持てずに指し続けるの、辛いなあ。
沼にはまる程じゃないけど、相振り飛車の感覚がわからない。
困ったなあ、どこから手を付けたら良いんだろう?
「四間飛車、良いと思いますよ。ただ、私の三間飛車の方が上だと思ってますけどねっ」
ゆかりちゃんの指し手は伸び伸びとしている。やはり彼女は金無双を目指しているようだ。
ならば、こちらも囲いを優先しよう。美濃囲いに組めれば、何とか勝負になるんじゃないかな?
少しでも、安全な形にしたい。
「香織さんとはじっくり指したかったので、速攻を仕掛けるのはやめておきますねー」
それはありがたい。とりあえず美濃囲いには組ませてもらえそうだ。
角道は通ったままだけど、交換して来る様子は無い。待ってくれているのか、美濃の完成を。
美濃囲いは横からの攻めに強い。
対する金無双は、縦の攻めに強い。
故に、縦の攻め合いになり易い相振りでは、金無双がよく用いられている。
だけど、相振りに美濃囲いが使われることもあると、しゅーくんが教えてくれた。
囲いの優劣は、指し方によって決まる。
何となくだけど。私には、美濃囲いが合っている気がしていた。
数手進み、互いの囲いが完成する。
宣言通り、その間にゆかりちゃんが仕掛けて来ることは無かった。良かった、一安心。
さあ。これでいよいよ、仕掛けて来るはずだ。
先手は彼女、容赦無い攻めが私の美濃を直撃する。その攻めを受けきれる自信は、今の私には、無い。
見慣れた美濃囲いの上部が、スカスカに見えた。
ああ駄目だ、隙だらけ。何て脆い囲いなんだ、こんなんじゃ──。
「ねえ香織さん。もっと囲い合いませんか?」
彼女は、穏やかな微笑を浮かべてそう提案して来た。
もっと、囲い合う?
美濃からの派生と言えば『高美濃』だけど。
金無双の場合は、何なんだろう?
「先程も言った通り、私は貴女との対局をじっくり楽しみたい。簡単に攻めが通るような戦いはしたくないんです。わかります、この気持ち? 愛振り飛車ですよ」
相振りであり、愛振り。
前に聞いた時には、単なる冗談と思っていたけど。
どうやら彼女は、本気でそう考えているようだった。
笑顔の中に、真剣な眼差しを感じる。
賭けで私の本気を引き出し、じっくり囲い合う将棋で、私との対局を心ゆくまで楽しもうとしている。
その気持ちは、嘘じゃないと信じたい。
「わかったよ、ゆかりちゃん。この一局を、とことんまで楽しもう」
「……はい!」
私の返答に、彼女は力強く頷いた。
よし、それなら高美濃だ。ひとまず攻めを考えず、囲いの構築に神経を集中する。
彼女もまた、金無双から右銀を左斜めに上げ、別の囲いを目指していた。高美濃とは別の、何か。
何だろう。見覚えがあるような、無いような。
彼女が目指す囲いは、未知のものであるはずなのに。不思議な感じ。
心の中で首を捻りながらも、高美濃を完成させる──と。
飛車先の歩を突かれ、桂馬を上げられなくされてしまった。
う。何て中途半端な高美濃。
じっくり囲い合うんじゃなかったの?
「ふふ。このくらいの牽制はさせてもらいますよ。油断大敵ですっ」
「もう! 言うの遅いよー」
苦笑しながらも、美濃囲いよりはまだ指せそうな気がしていた。勝てる自信は全く無いけど。
銀冠に組み換えるのは難しそうだし、そろそろ仕掛けていこうかな?
そう思った矢先に。
彼女の囲いが、ついに完成する。
──って。矢倉?
満を持して盤上に現れたのは、しゅーくん達が使う矢倉にそっくりな囲いだった。
違うのは、通常左側に囲う所を、右側に囲っている点。まるで鏡に映したみたいに、綺麗に反転している。流石に、角の位置は違うけど。
「なるほど、『右矢倉(みぎやぐら)』か。これは厄介だぞ」
しゅーくんの呟きが聞こえて来た。右側に囲うから、右矢倉って言うのかな?
「旦那さんは博識ですね。振り飛車党でもないのに、よくご存知で。そうです、これは右矢倉。相振り限定ですが、最強の囲いだと思いますよ」
自信満々にゆかりちゃんは言い放つ。
相振り飛車最強の囲い、か。
確かにそうかもしれない。上からの攻めに強い矢倉の特性を、もし右矢倉も持っているのなら。
こちらは高美濃だけど、歪な形にされてしまって、これ以上の発展は見込めない。
なら、そろそろ攻めようかと思うけど。
一体、どこから攻めたら良いんだろう?
……あ、そうだ。
こちらは四間飛車、反転したら右四間になる。右四間は矢倉に対し、極めて有効。
それなら。四間飛車だって、右矢倉に効果があるんじゃないかな?
それはただの思いつきだけど、あながち的外れでもない気がした。
四間飛車のままで、最強の囲いに挑む。
左の銀を繰り出し、飛車先の歩を突く。
同歩同銀に歩を打たれ、追い返されたが、持ち駒に歩を加えることができた。
ここまでは悪くない感触、のはずなんだけど。
どうしてか、心がざわめいていた。
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