(4)クチナシとチダマリ

 対局席に座った時に、小さな違和感を感じた。

 ふわっとするような、地に足が着いていないような、奇妙な浮遊感。

 まるで芯の部分を抉られた林檎のよう。何とも言えない、居心地の悪さを覚える。


「大丈夫? 顔色が良くないみたいですけど」


 対面に着席したゆかりちゃんが、心配して訊いて来た。


「ん、立ちくらみしただけだから。まだ少し疲れが残っているのかな? 大丈夫、指せるよ」

「それは良かった! 凄く楽しみにしてたんですよ私! 今度こそ、私が勝ってみせますからねっ」

「はは、お手柔らかにね」


 ゆかりちゃんの期待に応えるためにも、しっかりしなきゃ。

 悔いの無い対局をしたい。


 気を取り直して、駒を並べ始める。


「かおりん、お茶要らないか? 水分補給はした方が良いぞ」

「ありがとう」


 途中で、しゅーくんから麦茶の入ったペットボトルを渡された。

 冷えた液体が喉を流れ落ちていく。ぼんやりとしていた頭が、少しだけ覚めた。


「相変わらず、仲良しさんなんですね。いいなあ」


 それを眺めていたゆかりちゃんが、口を尖らせて言って来た。

 う、そんな見せつけるつもりは無かったんだけど。


「ごめん、ゆかりちゃ──」

「ならばこちらも。照民」

「……はっ」


 ゆかりちゃんの一声に、彼女の背後から姿を現す青年、照民さん。


「喉が乾いた。お茶を飲ませて」

「かしこまりました」


 恐らく露店で買って来たものだろう。

 麦茶の入ったペットボトルを差し出す照民さん。

 それを見るや否や、ゆかりちゃんは平手で彼の頬を張った。


 ……え?

 今、叩いた?


「本当、気が利かないんだから。この寒い季節に、冷えたお茶なんて飲める訳ないでしょ? 温めて」

「申し訳ありません。しかし」


 麦茶って温めても美味しいのだろうか、という疑問が頭をよぎる。

 そもそもこの場に、加温設備は無いんだけど。

 無茶振りに、照民さんは困ったような顔をする。


「しかし、何? 私の命令が聞けない訳?」

「そ、そんなことはありませんっ」

「じゃあ、温めてよ。いつもやってることでしょう?」


 その一言に、照民さんはハッとした。

 見る見る顔が真っ赤になっていく。耳まで、茹蛸みたいに。

 何? 一体何が起ころうとしているの?


「ここで、ですか?」

「そうよ。恥ずかしがる必要は無いわ。やりなさい」

「わかり、ました」


 覚悟を決めた表情で、照民さんはお茶を口に含んだ。

 くちゅ……。


 一口含んだ麦茶を、飲み込むこと無く。

 照民さんはもごもごと、口の中で流動させた。

 それから、ゆかりちゃんの方に顔を近づけ──。


「ええっ……!?」


 思わず、声が出た。

 照民さん、ゆかりちゃんと唇を合わせてる。

 キス、しちゃってる──!

 あまりに突然のことに、目を見開く私。


「ぷはぁ……ん、美味し」


 つぅー、と唾液の糸を垂らし、二人は唇を離した。

 照民さんを見上げるゆかりちゃんは、今まで見てきたものとはまるで違う、蠱惑的な表情をしている。

 これが彼女の、真実の一端なのだろうか? それとも、これもまた仮面に過ぎないのだろうか。


「お粗末様でした」

「まだよ。次は肩を揉みなさい」


 顔を赤らめてゆかりちゃんから視線を逸らす照民さんに、彼女は更に命じる。


「──かしこまりました」

「ん……いいわ、上手よ……気持ち、いい」


 両肩を揉まれながら、甘い吐息を漏らすゆかりちゃん。

 その間にも、駒を並べていく。照民さんの愛撫に合わせて。


「なあ、俺達もやるか?」

「……やめとく」


 私の返答に、しゅーくんは少し残念そうな顔をした。

 や、あんなのされたら対局に集中できないって。

 それに、死ぬ程恥ずかしい。観てるだけで頬が熱くなるのを感じる。


 何とか駒を並べ終わる。

 次は振り駒、さて──。


「照民、振り駒を」

「御意」


 ……あ、やっぱりそうなるのか。

 別にいいけどね。


 照民さんは鮮やかな手付きで五枚の歩をシャッフルし、盤上に投擲した。

 おお、何かプロっぽい。

 私は感心したけど、ゆかりちゃんは鼻で笑った。


「相変わらず、振り駒だけは上手いのね。棋力が伴わないのが残念だけど」

「恐悦至極に存じます」

「私の対局を観て勉強することね?」

「御意」


 いや、本当はその人滅茶苦茶強いよ。二回戦で、初段相手に圧勝してたんだよ?

 ゆかりちゃんが寝ていたのが残念でならない。教えてあげたいけど、何か話しかけづらい雰囲気なんだよなあ。


 振り駒の結果は、ゆかりちゃんが先手番。

 照民さんの愛の力が、運を引き寄せたようだ。


「そうだ。賭けをしませんか?」


 急にこちらを見つめ、彼女は瞳を輝かせて提案してくる。

 まるで、たった今、良いアイディアを思い付いたかのように。


「か、賭け?」

「そうです。その方がただ指すよりも対局に身が入ると思いませんか?

 照民、将棋盤くんをひっくり返して」

「御意」


 言われるがままに、将棋盤くんが反転される。


 盤の裏側を見るのは初めてだ。

 四隅には脚が付いていて、中央には四角い窪みがある。

 正確には、正方形の凹みの中に四角錘が埋め込まれた、変わった形状。何だ、これ?


「真ん中が窪んでいるのわかりますよね? これは『音受け』と言って、駒を指した時の響きを良くするものですが──別の用途もあります」


 別の用途?

 小首を傾げる私に、ゆかりちゃんは悪戯っぽく頬笑む。


「別名『血だまり』。その昔、対局中に口を出した第三者の首をはね、その上に置いて晒したという」


 彼女の代わりに応えたのは、しゅーくんだった。


「正解! 旦那さんは博識ですね」


 正解、なんだ?

 血だまり。何て物騒な名前。


「それから、四隅の脚も特徴的な形をしているのがわかりますか? これは『クチナシ』の実を象っています。何故かわかります、旦那さん?」

「……『口無し』、つまり第三者が口を出すなという警告だ。血だまりと同様の意味だな」

「ふふ。流石ですね」


 しゅーくんの返事に、満足そうに頷く彼女。

 ふーん。今まで気にしてなかったけど、盤の裏側にもそんな意味が込められているんだなあ。

 けど、ゆかりちゃんは何故今、そんなことを言い出したのだろう?

 賭けとか言ってたけど。


「将棋において第三者の介入はご法度なんです。

 ところで旦那さん、貴方の言動は、介入行為に当たりませんか?」

「む。対局に関係無い内容だが。

 ……それでも、私語は慎むべきだったな。申し訳ない」


 潔く認めて謝ることのできるしゅーくんは偉いと思う。

 でも。何か、嫌な予感がする。


 第三者、口無し、血だまり、そして賭け。

 まさか。いや、流石にそれは。


「そうですね。対局中はお静かに。照民もね?」


 ゆかりちゃんの言葉に、照民さんはビクッと肩を震わせる。

 嫌な予感が、現実味を帯びて来た。


「二人とも、仲良く血だまりの上に首を晒されても仕方ないんですよ、本当はね?

 でもゆかりさんは優しいので、大チャンスを差し上げましょう!

 香織さん。お互い、大切な人の命を賭けてみませんか?」

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