(3)本心
状況的に、他に考えられなかった。
今が対局中なら、私の精神に干渉できるのは、対局相手である彼女だけだ。
ゆかりちゃん。
いや。正確には、『結月ゆかり』というキャラクターを演じている、私の知らない別の誰か。
彼女の方から接触して来てくれたおかげで、ようやく尻尾を掴むことができた。
驚きは困惑に変わり、やがて夫の顔からは表情が消えた。
『そう。気づいたのね』
氷のように冷たい視線に、全身を射ぬかれる。
咄嗟に目を逸らしそうになるも、懸命に堪える。
今、逃げちゃ駄目だ。私はずっと、この時を待っていたのだから。
「何で、こんなことを?」
『幸せそうだったから』
名前も知らない少女は、夫の身体を介して返答して来る。
そう、こちらは彼女のことを何も知らない。
けれど、彼女は私のことをよく知っているようだった。
『最初に指した時にわかった。ああ、この人の人生は平凡でつまらないなって。それなのに、どうしてか幸せそうに見えたから。無性に、壊したくなったんだ』
棋譜には、対局者の人生が表れる。
あの時──大会開始直前にゆかりちゃんと指した時。彼女は、私の人生を読み取っていたようだ。
『貴女とは是非もう一度対局したいと思っていた。私のこの手で、その幸せを終わらせたかったから。
ごめんね、香織さん。私、貴女が幸せの絶頂から転落する姿を観たいの』
人の不幸は蜜の味、という奴だろうか。
私には理解できないけど、どうやら彼女は願っているようだ。
私の、破滅を。
「そんなことのために、貴女は私に近付いたの? 私達、今日初めて逢ったばかりじゃない。どうして、そこまでして」
『さあ、どうしてかな? それより質問に答えてあげる。ここがどこか』
ここは、将棋盤の底。
深層意識の交わる場所だと、彼女は答えた。
『察しの通り、私と貴女は現在対局中。こうしている間にも、対局は進行しているんだよ。
表層意識の私達は、和気あいあいと指しているんじゃないかな? 貴女は私のことを、友達と思っているようだから』
もし、この子の言う通りなら。
私はきっと、勝てない。
彼女の言ってる表層意識とやらが、いつもの私のことなら。
不利な局面に出くわした時、投げる可能性が高い。
文月伶架さんと対局した時のことを思い出す。
初めて目にした戦法・右玉に翻弄され、打開策が思いつかず、投了の文字が私の脳裏をよぎった。
諦めかけたその時、引き留めたのが、もう一人の──深層意識の私だった。
つまりは、この私だ。
私が助けてあげないと、表層の私は簡単に心が折れてしまう。
だけど、私には今の対局状況がわからない。
どうやら繋がりを断たれてしまっているみたいだ。
恐らくは、目の前の『支配者さん』の仕業。
『貴女にはもっと苦しんで欲しかったけど、まあ良いわ。投了の瞬間まで、ここに閉じ込めてあげる』
表層の私には、『結月ゆかり』としての姿しか見えていない。そんな状態では、局面から最善手を探し出すことなど、到底不可能だ。
何とかして教えてやらなければ、彼女の真実。
何とかして見つけなければ、ここから表層に昇る手段。
何とかして──ああ、いや違う。
手段はある、既に気付いている。
この世界に無いもの。
頑なに排除されているもの。
焼け落ちた道場が、私に教えてくれている。
世界に繋がりをもたらすもの。
表層意識と深層意識を同調させ、明鏡止水の境地に至る扉を開く鍵。
最初から、わかっていた。
「閉じ込めておくなんて、できないよ」
『え……?』
「私は絶対に、将棋を指すから」
私の言葉に、夫の顔が歪む。
それで確信した。
深層の私が将棋を指せば、表層と繋がる。
そのために必要な物は、将棋盤だ。
『させない。貴女の情報は既に入手済。この町に存在していた将棋盤は、全て処分した』
そう。彼女はそう思っている。
だけど、見落としがある。
彼女の持っている情報は、古いんだ。
『結月ゆかり』と対局したのは、大会が始まる直前。
彼女はそこで、私に関する情報を得た。
だけど。
私は大会を通して、情報を更新していたんだ。
その時『ゆかりちゃん』は観戦していた、けど。
見えていなかったはずだ。
彼女には、私がしゅーくんの隣に腰掛けていた姿しか、見えていなかったはずだ。
二回戦先鋒戦。
しゅーくん 対 香澄翔さん。
相矢倉の激闘が繰り広げられた、名試合だった。
その時、試合の裏で私は、ある人物と対局していた。
そこは、しゅーくんの心象世界。
招かれた者しか入ることを許されない、記憶の断片。
だから、彼女が知っているはずが無かった。
この町にはまだ、将棋盤が存在している。
一人で行くには勇気が要るけど、躊躇している場合じゃない。
勿論、既に捨てられている可能性も零ではない。
それでも、賭けてみる価値はあると思った。
「負けました」
なすべきことは決まった。それならば。
将棋指しとして、一番言いたくない台詞を口にする。
『え?』
「もはや打つ手無し、完敗だわ」
驚きの声を上げる彼女に、肩を竦めて答える。
『つまり。諦める、ってこと?』
「そうよ、私の負け。何回も言わせないでよ、恥ずかしい」
『は、ははは』
驚きは歓喜へと変わる。
彼女は笑顔で、空を仰いだ。
その様子を、私は絶望にうちひしがれた顔で見つめていた。
演技だとバレない内に、早く行って欲しい。
『後は、表層と融合するだけ』
それで勝てると、彼女は考えているようだった。
深層と表層の融合?
もしそれが、あの明鏡止水の状態を指すのであれば、確かに私に勝ち目は無い。
『さよなら、香織さん。私は一足先に表層に行きます。
心配せずとも、試合が終われば解放してあげます。
……私が覚えていればね』
あ。絶対忘れる奴だ、これ。
「待って! お願い、私を置いて行かないで……!」
『ふふっ。最後に、その顔が見られて良かった』
彼女の──いや、夫の姿が透けていく。
私はできるだけ悔しそうに、涙目で見送った。
やがて、完全に消えてなくなる。気配すら感じない。
よし、これで良い。
これでやっと、行動に移すことができる。
「う、ううう。ううううう」
はやる気持ちを抑えて、その後しばらくの間、泣き真似をしてみる。
彼女は演技のプロだ。私の嘘を見破っていないとも限らない。
念には念を入れておこう。
幸いなことに、一向に嘲笑う声は聞こえて来なかった。
「……オーケー」
跡形もなく焼け落ちた道場を一瞥した後、夜空を見上げる。
いよいよ時間が無い。
彼女が表層意識と融合した時、私の敗北は決定する。
一刻も早く、将棋盤を見つけ出し、指さなければならない。
「数分間で良い。何とか持ちこたえてよ。ヘタレの私」
万感の願いを込めて空に呟き、私は走り出した。
今は自分を信じよう。
負けるな、私。諦めるな、自分。
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