(2)幻想の支配者

「どうした、香織?」


 怪訝そうに尋ねて来る彼を、真正面から見つめる。

 先程まで感じていた恐怖は、不思議と消えていた。


「ごめん。やっぱり無理」


 わがままなのは、自分でもわかっている。

 彼からすれば、理不尽な要求だろう。

 それでも、無理なものは無理だ。


「私、将棋をやめられない。やっとわかったんだ、自分の気持ちに。ありがとうね、気付かせてくれて。

 失くして初めて、大切さに気付くことってあるんだね」

「……俺は、失いたくない」


 そう呟いて。

 彼は、燃え盛る道場を振り返った。


「言っただろ。お前が将棋を指すなら、俺はお前を取り戻すために何でもやるって」

「だったら、あなたも将棋を指そうよ。私と一緒に、もう一度やり直そう?」

「できる訳ないだろ? 俺は、取り返しのつかない罪を犯したんだぞ」


 力なく、彼は笑う。


 確かに、彼のやったことは許されることじゃない。

 道場はもう、元には戻らない。

 罪は、一生をかけて償わなければならない。


 だけど、いや、だからこそ。

 彼には、将棋を指して欲しいと思った。

 きっとわかり合える。今度こそ、私達は本当の意味での夫婦になれる。


「ごめんね、あなたを追い詰めて」


 彼にここまでさせてしまったのは、私が願ったからだ。

 彼の罪は、私の罪でもある。

 だから、私達は一緒に罪を償う必要があるんだ。

 一生を共にし、心の底からお互いのことを理解して。

 その上で、背負った十字架を分かち合おう。


 今度は、私の方から手を差し伸べる。


「一緒に行こう。しゅーくん」

「どう、して」


 私の言葉に、彼は驚いたようだった。


「何でだ? 俺は、お前から将棋を奪った張本人なんだぞ? どうしてそこまで、俺のことを」

「決まってるじゃない。あなたを、愛しているからよ」

「俺を、愛して……?」


 手を繋ぐ。

 もうこの手は、二度と離さない。

 地獄の底まで、ずっと一緒だ。


 彼の目から、一滴の涙が零れ落ちた。

 私だって泣きたい気持ちだ。

 こんなにも心を揺さぶられたのは久し振り。人目を憚らず、大声で泣き叫びたい気分だった。


 だけど私は、泣く代わりに笑うことを選んだ。

 きっと彼は、笑顔の方が好きだと思うから。


「香織。ごめんな、本当は俺」

『つまんない』


 言い掛けた、夫の言葉を遮ったのは。

 不満そうな、少女の声だった。

 その声は、彼の中から聞こえて来る。


『せっかく面白い所だったのに、もう立ち直ったの? 追い詰め方が足りなかったかな?』


 彼の瞳に、妖しい光が宿る。

 あっと気付いた時には、背中から地面に叩き付けられていた。


 そうだ、この声は。


 先程からくすくすと笑っていた、あの声と同じだ。

 てっきり幻聴だと思っていたけど、まさか彼の中に居るなんて。

 ……いや。居てくれて、良かった。


 起き上がる。

 背中の痛みなど、湧き上がる感情に比べたら些細なものだ。


「貴女は誰?」

『私が誰かなんてどうでも良いでしょ。そんなことよりさあ』


 もっと愉しませてよ。

 彼の拳が、私の腹に突き刺さる。

 本来それは、悶絶する程の痛みを伴うものなのだろう。


 どうでもいい。

 そんなこと、どうでもいい。

 痛みを、精神(こころ)が凌駕する。


「質問を繰り返す。貴女は誰? どうして、こんなことをするの?」

『な、そんなバカな──!?』

「返答次第では、ただじゃ済まさないからね」


 抑えきれない、ともすれば爆発しそうになる感情。

 その感情の正体を、きっと私は知っている。


 よくも、やってくれたな。


『わ、私は、この世界の支配者! お前は、私には抗えないはず』

「ふぅん? 随分と可愛らしい支配者が居たものね」


 おでこを軽く小突くと、夫の身体はへなへなと崩れ落ちた。


『い、痛い。何で?』

「私だって痛い。おあいこでしょ?」

『違う。痛いのはこの男のはず。私が痛みを感じるなんて、絶対おかしい!』


 よくわからないことを言って、涙目で睨み付けて来るしゅーくん──の中に居る、知らない女の子。そんなこと、私だって知るか。


「ねえ、ここはどこなの? 私は将棋大会に出場していたはずだよね?」


 その頃には、思い出していた。


 あれは夢じゃなかった。

 私は確かに伏竜稲荷神社の将棋大会に、しゅーくん、燐ちゃんとチームを組んで参加したんだ。

 一回戦で低将チーム、二回戦で曼六夜チームに勝ち、続く準決勝で──。


 先鋒戦の記憶が無い。

 つまり、まだ終わっていないんだ。

 これは、その途中の。


『信じられない。そこまで思い出せるなんて』


 心底驚いた表情で、『彼女』はこちらを見つめて来る。

 そうだ。私はきっと、その正体にも気づいている。

 気づいていながら、認めたくなかったんだ。まさか、あの子がこんなことをするだなんて。信じたくなかった。


「貴女、ゆかりちゃんね?」

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