第七章・本当の幸せって何ですか?
(1)望んだ結末(コウフク)
随分と、長い夢を見た。
色々と大変なこともあったけど、幸せな夢だったのを覚えている。
本当、目が覚めなければ良かったのに。
夫との新婚生活は、概ね順風満帆だった。
定時には必ず帰ってきてくれるし、二人で過ごす時間を大切にしてくれている。
何の不満も無い、ごく平凡な生活だった。
ただ、何かが足りない気がした。
夢の中とは、何かが違った。
それが何なのか、私にはわからない。些細な違いが、喉に引っ掛かっていた。
私は幸せなはずなのに、本当にそうなのかと、心のどこかで疑問に感じている。
「ねえ、あなた」
「何?」
「もう、将棋は指さないの?」
「ああ、やめたんだ」
勇気を出して訊いてみると、彼はさらりとそう答えた。
心底どうでも良さそうに。
「あ、ああ──そう、なんだ?」
「今からどんなに努力したって、ガキの頃から指してた奴らには敵わない。やるだけ時間の無駄なんだよ」
そう言いながら、彼の視線は、テレビ画面に注がれている。
新発売のゲームだ。
コントローラーを忙しそうに操る彼は、私の方を一度も見てくれない。
そんなに、そのゲームが面白いのだろうか。確かに最近話題になってるけど。
将棋よりも、面白いのだろうか。
以前は壁一面に棋士のポスターが貼られていたが、今は剥がされている。
本棚に詰め込まれていた棋書も、一冊も残っていない。
ぼんやりと、彼の隣に座ってテレビ画面を見つめる。
夫が操る勇者が、巨大な魔物を次々と討ち倒していく。
鮮やかなその動きは、いかに彼がやり込んでいるかを物語っていた。
「ねえ、あなた」
「何? 少し待っててくれないか」
定時に帰って来てくれても、これでは。
一人で居るのと、変わらない。
待っててと言われても、することが無い。
洗濯物は取り込んだし、ご飯の準備だって──そうだ、夕飯が冷めてしまう。
せっかく、手作りしたのにな。
彼は一向に、ゲームをやめない。
「夕ごはん、できたんだけど」
「先に食べててくれ」
「……うん」
独りで食べるご飯は、あまり味がしなかった。美味しくない。
これが幸せ?
夫と二人の新婚生活。
もう将棋に邪魔されることは無い。
私達の間には。もう、何も無い。
どう繋げたら良いのか、もうわからない。
将棋だったら、一緒にできたのに。
今度はあのゲームをやる?
それだって、彼が飽きたら終わりじゃないの?
最後には、私も捨てられるんじゃないか?
くすくすと、笑う声が聞こえた気がした。
夢の中では、私は夫と将棋を楽しんでいた。一緒に大会に出たりもしていた。
勝つと嬉しかったし、負けて悔しいと思っても、すぐにやる気に変わっていた。
楽しかった、あの日々は幻だったのか?
遠い昔のように感じる。
夢の中の出来事に過ぎないはずなのに。
指先は滑らかな駒の感触を覚えている。
勝負手を放つ際、パチンと小気味よい音を立てて指せた時の喜びと来たら、筆舌に尽くしがたいものがある。
そうだ私は、将棋を指したことがあるんだ。
絶対に、夢なんかじゃない。
思い出せ。
「将棋盤! どこ!?」
私の問い掛けに、夫の肩が震えた。
実際に将棋を指してみれば、思い出せると思った。
そんな私に、彼は「捨てた」と返答する。
「嘘。捨てられる訳ないじゃない」
「嘘じゃないさ。あんなものは、俺達には必要無い」
ゲームを中断し、ゆらりと立ち上がった彼の顔には、微笑みが浮かんでいた。
だけど、その目は笑っていない。
嘘じゃ、ない?
「香織。俺はお前が望んだ夫になった。『将棋に夢中の夫』が嫌だったんだろう? だから、お前のために将棋を捨てたんだよ。満足だろう?」
彼が近づいて来る。
私は言い返す言葉を持たない。確かに、その通りだったから。将棋に夢中で、振り向いてくれない彼が嫌だった。
そうだ、だから私は──。
「今の俺達には将棋なんて必要ない。さあ、存分に愛し合おう」
そう言って、下腹部に手を伸ばす彼。
ぞわっ。総毛だつ。
「……やめて!」
その時抱いたのは、嫌悪感だった。
気付いた時には、愛する夫を、私は──あろうことか、突き飛ばしていた。
彼は尻餅をつき、そのまま仰向けに倒れる。
冷たい眼差しが、私を捉えた。
「何をするんだ。お前は、俺を愛していないのか?」
「違う、けど。今は……ごめん」
部屋着のままで、私は外に駆け出した。
彼の視線が、耐えられなかった。
自分勝手な女だと思う。
せっかく望み通りになったというのに、今度は彼よりも将棋を懐かしんでいるだなんて。
もちろん、彼を愛していない訳じゃない。
彼を愛しているからこそ──彼が夢中になっていた、将棋というボードゲームに惹かれたんだ。
実際に目の当たりにして、彼の敗北を見て、自分も指したくなって。
それで、指し始めたんだ。
やっぱり私は、将棋を指したことがある。
そうだ、道場。
伏竜将棋道場、まだ開いてるかな?
あそこなら確実に、将棋を指せる。
以前は、夫の方が私を置いて、道場に入り浸りになっていたものだった。それが今ではまるで逆だ。
苦笑しながら、私は道場への道を急いだ。
通い慣れた並木道。孤独に泣いたことのある公園を通り過ぎる。
はやる気持ちを抑えて、路地へと曲がり──。
次の瞬間、私は言葉を失った。
炎に包まれた、伏竜将棋道場を目にして。
夜空を照らす、業火の光。
不謹慎にも、綺麗だなと思ってしまう。信じられなかった。
木造の日本家屋が、容赦なく焼き尽くされていく。
その様を、呆然と眺めることしかできない私。
「これで、お前は将棋を指せない」
道場から、誰かがこちらに向かって歩いて来る。
シルエットで、彼だとわかった。
「どう、して」
どうしてこんなことを?
震える声で尋ねると、夫は一瞬きょとんとした表情を浮かべたが。
その後すぐに、「ああ」と頷いた。
「だって、俺がやめたのにお前が指したら意味無いだろ? 将棋にお前を取られる訳にはいかないからさ」
「──私の、せい?」
「香織は、俺だけを見てれば良い」
至極当然のように、彼はそう続ける。
笑顔のままで、恐ろしい宣言をして来る。
「私が、将棋を指すのを許さない?」
「ああ。俺から香織を奪おうとする奴らは全員、排除する」
排除。
そのために、伏竜将棋道場が犠牲になった。大森さんや、道場の人達は無事だろうか。
後ずさる。
彼が、怖い。
「そんなに怖がらなくて良い。お前が将棋さえ指さなければ、俺は何もしないよ。さあ、一緒に帰ろう」
私が願ったから?
彼がこんな風になってしまったのは、私のせい?
望んだ結末が、これだと言うのなら。私には、拒否する権利は無いのかも知れない。
自業自得とは、正にこのことだ。
……受け入れよう。
罪と罰は表裏一体。
私が犯した過ちに対する罰は、自ら受け入れなければならない。
彼の言葉が真実なら、私が将棋を指しさえしなければ、誰も傷付かないはずだ。
何、少し我慢すれば良いだけのこと。
以前までのような、彼との新婚生活に戻る。ただ、それだけのことだ。
将棋の無い生活を、受け入れよう。
くすくすと、また笑い声が聞こえて来た。
彼に手を掴まれる。
もはや、抵抗するつもりは無い。帰ろう。
帰って、色の無い世界に戻るんだ。味気ないご飯を食べて、彼がゲームをする様子を、ぼんやりと眺めて。
そんな毎日がただ繰り返されるだけの、人生に。
「──嫌だ」
掴まれた手を、振りほどく。
自分の声に、自分自身が驚いた。
嫌だ? 今、確かに私は、そう言ったのか?
嫌だと。このまま帰るのは嫌だと。将棋の無い人生なんて、嫌だと。
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