(9)獄炎の決着
「ワイは──ワイは、最強の早石田使いや。お前みたいなヘタレに負ける訳が、ないんや!」
7筋の桂馬の頭に、歩を打ち込むロウ。
まだ目は死んでいない。そのガッツには賞賛の言葉を送りたい。
桂馬が逃げれば龍で6筋の歩を取り、次に銀を取る手がある。以下、同角には、もう一枚の飛車で桂馬を取る。
だけどそこで。
桂馬を逃げずに、金で受けられれば。
「くそったれ……!」
龍を逃がした所で、次の手が無い。
やむなく龍を見捨て、桂馬を取る手を選ぶロウ。
照民さんは金で龍を討ち取った。その金をロウはと金で取る。
形上は、飛車と桂馬・金の二枚替え。
通常は、二枚替えは得とされる。
だけど、この場合は。照民さんの攻めのスピードが加速する。
ここで、空恐ろしい一手が飛び出した。
88歩打。
まさかまさかの、ロウの左の桂馬を狙う一手である。
桂馬を取られてと金まで作られては、左辺を制圧されてしまう。当然の同銀に。
今度は、65香打。
ロウの最後の希望、残された一枚の飛車の頭を狙う手が炸裂する。
「ちっ……だったらワイも──!」
ロウは飛車を逃がさずに、56香と打ち込んだ。
中央で大威張りしている、照民さんの角を狙う手である。
「ここで角を逃がすようでは、サロン棋縁の一員としては失格だな」
穴熊さん、厳しいなあ……。
普通に考えたら逃げる一手と思ったんだけど、それでは緩いと。
もっと厳しい指し手があると言うのか。
照民さんは角には手を付けず。
右端に居た馬で、隣の桂馬を取った。
あ、そっか。同銀に、37角成りで、それが王手になってて、ええと。
「ワイが、負ける? いいや、まだや!」
先程手にした金を打ち、受けきろうとするロウ。
照民さんは構わず同馬とし、踏み込んで行く。同玉とさせた所で。
その時初めて、予め65に打ち込んでおいた香車を使い、飛車を取った。
「く……あ」
ロウの身体が崩れ落ちる。
なすがまま、いいように翻弄されているのだ。
絶望的な気分になっても致し方無いだろう。
それにしても、とんでもない棋力詐欺だよ照民さん。
何が6級だ、ふざけているとしか思えない。
のろのろとした手つきで、46に桂馬を打つロウ。
次に桂馬を跳ねれば王手がかかり、もしかしたらチャンスがあるかもしれない。
そんな淡い希望さえも打ち砕く、35金打。
次に46の桂馬を取られればいよいよ終わる。桂馬の下に歩を打ち、支えるロウだが。
そこで、先程取られた飛車を打ち込まれた。
銀をかわした所に、今度は桂打の王手が来る。
仕方なく、玉は横に逃げる。
すると35の金が移動し、46の桂馬を取った。
嫌な予感がしたのか、同歩とはせず。66の香車を取り、玉の逃げ場を確保するロウ。
すかさず左辺への桂打で、これが金銀両取りとなった。
何を指しても一向に良くならない。
それでもロウは、震える手で指す。46の金を歩で取る。
今度は桂馬が成り込んで来た。次に隣の銀が取られる。
受けきろうと、角を打って銀に紐を付けるロウ。
大駒には大駒、もう一枚の飛車打ち。
えげつない。照民さんの攻め、えげつないよ。
左辺の両取りを解消しようと、左銀を上げるロウ。構わず成桂で銀を取る照民さん。同角に。
そのタイミングで、左辺から桂成りの王手!
同銀に、飛車を切り、角を取る手が炸裂する!
「あー……!」
呆然と呻くロウ。恐らく彼には、自玉の詰みが見えているのだろう。
私にはさっぱりわからないけど。
「以下、同金に49角打ち、48玉に38角成り、同玉に49銀打ち、47玉に37金、同玉に39飛車成り、38合駒に同龍、26玉に35龍、16玉に25金打までの詰み」
穴熊さんが解説してくれた。
なるほど、確かに詰んでる。
けど、まさかここまで一方的な試合になるなんて思わなかった。
「ワイが、負けた……? そんな、アホな」
負けましたの言葉すら出て来ないのか。
盤を見つめて、呆然と呟くロウ。
「負けを認められないのなら」
照民さんが、ようやく盤から顔を上げる。
ロウをじっと見つめるその眼差しは、氷のように凍てついていた。
先程までの熱い指し回しが嘘のようだ。
「将棋指し、やめれば?」
「な、んや、と?」
その視線に射竦められたのか、ロウはのけ反り、全身を恐怖に震わせる。
「言えよ。あんたが言わないと終わらない」
「わ、ワイは、ワイは」
完全に立場が逆転している。
終始威圧的だったロウは言葉に詰まり、今まで沈黙していた照民さんが、彼を追い詰めていく。
「ま、負けま──」
「声が小さい」
「負けまし……う、ううううう」
涙が、ロウの双眼から零れ落ちる。
彼がやったことは悪ふざけで許されるレベルじゃない。
それはわかってるけど。少し、可哀想になって来た。
何も、泣かさなくても。
「ねえ、穴熊さん。もうこのくらいで勘弁してあげられないのかな」
「ふむ。しかしな、まだ対局中なのだよ。奴が敗北を認めぬ限り、対局は終わらない。それが将棋の掟だ」
「で、でも」
「可哀想に思ったとしても。観戦者に過ぎない我々が、彼らの対局に介入することは許されない。絶対にだ」
穴熊さんは告げる。無情なる正論を。
しゅーくんの方を見ると、彼は無言で首を横に振った。
同じ意見てことか。でも私は、観ていられない。
「わ、ワイの早石田が、負けるはず」
「早石田が中飛車に負けたんじゃない。あんたが、僕に負けたんだ」
「く、くそったれが……!」
ロウは叫び、怒りを露わに照民さんを睨み付ける。
涙で目を腫らしながら、彼は花火の筒を手に取った。
「爆破したる! ワレの両手を爆破したる! ワレが二度と将棋を指せん体にしたるっ……!」
それが嫌なら「負けました」と言えと。
半狂乱になりながら、ロウは筒の先端を突き付けた。
駄目だ、完全に理性を失っている。止めないと。
慌てて立ち上がろうとするも、しゅーくんに制止される。
「駄目だ。対局中だ」
「何でよ。このままじゃ、取り返しがつかないことに」
「それでも、駄目だ」
いつになく真剣な表情で、彼は言う。
「そんなことをあいつが望んでいると思うか? 彼も将棋指しなら、覚悟はできているはずだ」
「でも──!」
男の人の気持ちは、私にはわからない。
プライドや覚悟なんかで、失って良いものじゃないと思う。
一生将棋ができなくなるなんて、そんなの嫌だ。
「やってみろよ」
秋空の中、まるで極寒の冬のように冷え切った声が響いたのは、その時だった。
場内に居る全ての人が、その一言に動きを止めた。全身に鳥肌が立つ。
「な、に?」
「爆破してみろ。両手が無くなったって、僕は」
突然、盤に顔を埋める照民さん。困惑するロウ。
「な、何してん?」
がばっ。
顔を上げた時には、照民さんの口には一個の駒が咥えられていた。
「僕は指す。心が折れない限り、指し続ける。何度負けたって、傷付いたって構うものか。僕は、将棋と共に生きる」
「くぅっ……!」
まっすぐな眼差しを向けられ、ロウは怯む。
「盤外の暴力など、盤上の一敗に比べれば些末事」
穴熊さんはそう呟いて、溜息をついた。
「どうやら照民は、二度と引き返せない道を歩み始めたようだな。覚悟を決めた者と、そうでない者の差が、この一局に現れたようだ」
私は女だからか、その辺りの気持ちは正直よくわからない。
覚悟よりもっと他に大事なモノはあると思う。
だけど。凄いなと思った。
もし。もし私の命と将棋の一勝を天秤に掛けられた時、しゅーくんは私を選んでくれるだろうか?
ふとそんな想いが頭をよぎり、私は首を振った。
よそう、今そんなことを考えるのは。
照民さんとロウは睨み合う。沈黙が訪れる。
照民さんは恐ろしいまでに冷静で、ロウは滝のような汗をかいていた。
やがて。
沈黙を破ったのは、ロウの方だった。
花火の筒が、力なくぶら下がった右手から地面へと落ちる。
「負けました」
短くも、一局の勝敗を決定する一言が、彼の口から放たれた。
「ありがとうございました」
照民さんは頭を下げる。ようやく決着がついた。
良かった、何とか無事に終わって。
毎度のように、拍手が──起こらない。
あ、そっか。穴熊さん、ゆかりちゃんをお姫様抱っこしてるんだもんね。
結局最後まで起きなかったなあ、彼女。照民さん、あんなに頑張ったのに。
なら、代わりに私が拍手しよう。
お弁当を食べさせてもらったおかげか、少しは回復したしね。
おめでとう、照民さん。
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