(4)伶架と羚加

 対局が終わってもなお、伶架さんはじっと盤を見つめている。

 心ここに在らずといった様子だ。

 無理もない。この敗北は曼六夜チームとしての負けでもあり、大会敗退が決定したのだから。

 そして彼女はもう、復讐を遂行できない。


「ねえ。良かったら教えてくれないかな? 羚加さんに何があったのか」


 酷な気もしたけど、訊かない訳にはいかなかった。

 勝者には、敗者の想いを受け止める責任がある。少なくとも私はそう思う。


 漆黒の瞳が、まっすぐ私を見つめて来た。

 吸い込まれそうに深い、憂いをたたえた瞳が。

 彼女は、重い口を開く。


「あの子は、去年の大会に出場した。そして、決勝まで勝ち残った」


 そうか、去年の大会に。

 ……って、待てよ。じゃあ、あの袖の人と同じチームだったってことか。

 安藤さんの言葉を思い出す。


「去年の大会で、彼のチームは決勝戦まで勝ち残りました。そして決勝で竜ヶ崎と対戦し──チームは、跡形もなく崩壊したそうです」


 崩壊したその中に、羚加さんも居たってことになる。


 それで、竜ヶ崎への復讐を?

 袖の人は今回も大会に出場できたけど、羚加さんは出場していない。

 ……いや、出場できなかったのか。


 やっぱり彼女は、もう。

 傍らの西洋人形に目を遣る。

 この子がここに居て、文月羚加を演じているのは、やはりそういうことなのだろう。


「羚加さん、きっと参加したかった、よね」


 私の言葉に、伶架さんは驚いたようだった。

 それから、再び視線を盤に落とす。


「わからない。大会が終わった後、あの子はまるで別人のようになっていたから。将棋を指す気力が無くなって、生きているのが辛そうだった」


 そうか。だから自ら、死を選んで──。


「そんな時に、あの男が現れた」


 彼女の言葉に、僅かに怒気を感じた。

 風向きが変わった気がする。


「あの男は羚加の心の隙間に入り込み、すっかり虜にしてしまった。結婚して子供を作ろうと、汚らわしい手であの子に触れるようになった。あの子を幸せにできるのは、私だけのはずだったのに」


 ……って、あれ?

 何か、想像してたのと違う。


「えっと。羚加さん、もしかしてご生存されてる?」

「……何を言ってるの?」

「や、だって、話の流れ的に亡くなっているパターンかと」

「勝手に殺すな。羚加なら、ハネムーンの真っ最中よ。ほら、もうすぐ『いい夫婦の日』でしょ?」


 ああ、新婚旅行中だから参加できなかったのか。

 これは失礼しました。


 となると。

 復讐の相手は、竜ヶ崎ではないのか?


「私は、私から羚加を奪ったあの男を許さない。この大会に出場したのは、羚加と一緒に優勝するため。

 私達は今でも一つなんだって証明して、あの男に羚加を諦めさせるつもりだった」


 伶架さんは怒りに顔を歪ませる。

 なるほど、よくわからない。


 よくわからないけど、彼女が羚加さんのことを心から大切に想っているのは理解できた。

 私だって、しゅーくんの身にもし何かあったら。正気で居られる自信が無い。


 だからこそ、尚更に思う。

 その復讐に、意味なんて無いんだってことを。


「感想戦をしよう、伶架さん」


 まだ決着はついてない。


 感想戦は、対局後に一局を振り返り、今後の糧とするために行われる。

 その意味は大きい。

 お互いにとってプラスになることが多いため、通常、感想戦を断られることはほぼ無い。


「香織がしたいならいいけど」


 渋々といった様子で、伶架さんは了承した。

 彼女にとっては復讐のための、どうでも良い一局に過ぎなかったのだろうか。


 いや、そんなはずは無い。

 どうでも良いなら、終盤あんなに躍起になることは無かったはずだ。

 伶架さんは手強かった。純粋に対局を楽しんでいるのがわかった。

 そこに、復讐なんて余計な要素が入る隙間は無かった。


 そのことを証明してみせる。


「それじゃ、駒組の段階から振り返ろうか。右玉、凄かったね」


 右玉は組まれると厄介な戦法だということがわかった。

 では、組まれる前に何とかできなかったのか?

 私が尋ねると、伶架さんはしばらく考え込んだ後で、


「例えば、三間飛車なら飛車先の歩を早めに突くとか。四間飛車でも、65歩を早めに突くのは悪くなかったと思う」


 と答えて来た。

 なるほど、確かに。


 歩を突く具体的なタイミングは──しばらく二人で検討し合う。

 早すぎると、右玉ではなく、通常の急戦に切り替えられて不利か?

 けど、桂馬を跳ねる前でなければならないから……。


 結構、シビアだなあ。


「それでも一局の将棋と思うけど」

「ちょっと自信無いけどね。まあでも、本局よりはマシかな」


 本局は酷かった。

 途中で投了を決意する程、完璧に作戦負けを食らってしまった。

 戦法を知らなかったとはいえ、もうちょい何とかならなかったのか。


 感想戦は第二段階に移る。

 右玉が組まれた後の対応について。


「高美濃に組む前に、右玉の左辺に手を付けておきたかったかも」

「だよね」


 例えば。これも二人で検討する。

 例えば、こんな手はどうだろう。高美濃を省略して銀冠にするとか、片美濃の段階で飛車を振り戻すとか。

 右玉側よりも先に桂馬を使える状態にしておきたいよね、とか。

 それから、角を引いて転回する手もあるかな。

 その場合は、先に向かい飛車にしておく。等々。


 二人で一緒に考えると、今まで気が付かなかったことにも気付く。

 特に、伶架さん側の意図がわかって面白かった。あの時あの場面で、何をされたら嫌だったのか、何を期待していたのか。

 彼女の方が棋力が高いこともあり、私の想像を超えた手を示される。なるほどと頷きながら、でもこれは? と切り返す私。


 そうやって、より精度の高い棋譜を構築していく。互いに高め合う。

 感想戦は正に、対局者同士の共同作業だ。

 どちらかが怠れば、棋譜の精度は落ちてしまう。


 伶架さんは、私が思っていた以上に熱心に考えてくれた。


 ほら、やっぱり。

 貴女は将棋が好きなんじゃん。

 心の底から、骨の髄まで。


「伶架さん、どう? 将棋、楽しい?」


 頃合いを見て、もう一度、尋ねてみると。


「香織と指す将棋は、楽しいかも」


 そう答えた、伶架さんは微笑みを浮かべていた。

 対局中は「わからない」と言っていたのだから、上々の成果だ。


「ね? もっと色々検討しようよ。私、もっと貴女のことを知りたい」


 感想戦を続けながら、様々な話をした。

 その多くは将棋に関係の無い話題で、私自身のことも結構赤裸々に語った。

 伶架さんは驚き、相槌を打ち、それから笑った。


 私も彼女の口から聞いた。

 双子の妹、羚加さんをいかに大事に想って来たか。

 男に取られたと知った時、半身を失ったと感じたことも。


 それは辛かったよね、と私が駒を動かしながら言うと。

 理解してくれて嬉しいと応えながら、伶架さんはその駒を取った。


 でもその気持ちは、胸にしまっておいた方が良い。

 羚加さん、貴女の本心を知ったら苦しむと思う。

 ほら、貴女が飛車を取ったおかげで、私の手には金将が入った。

 貴女自身も、苦しくなるよ。


 伶架さんの指し手が止まる。

 でも、でも。彼女の心に迷いが生じる。


 私は待つ。

 彼女が自身の気持ちを整理するのを、黙ってひたすら待つ。


 何度目かの『でも』の後、伶架さんはようやく着手した。

 本譜とは異なり、端攻めに入る前に、溜めの一手を入れる。

 より確実に勝利するための、攻めの布陣を築く一手を。


「今の、すっごく善い手だと思う! 攻め始めは一手遅くなるけど、数手後の緩手が解消されて、かえって速くなるもん。伶架さん、そっちの方が絶対良いよ」


 もう一度、じっくり考え直してみた方が良い。

 復讐以外にもきっと、最善手が隠されているはずだ。


「ん……そう、かもね」


 伶架さんの目から、一滴の涙が零れ落ちた。


 一生懸命考え抜いて指した一手は、成否関係無く価値のあるものだと思う。

 私だって偉そうに言える立場じゃない。時には間違えることもあるけれど。

 その時こそ、今一度自分の指し手を振り返ってみようと思う。


 後悔しない生き方をしたい。

 彼女にも皆にも、悲しい想いをして欲しくない。


 私の気持ち、伶架さんに届いたかな?

 感想戦を通して、彼女に寄り添うことができたかな?

 彼女の心の苦しみを、少しでも和らげてあげられたかな?


「負けました。大したものね、貴女」


 涙を拭って、伶架さんは笑った。

 すっきりしたような、屈託の無い笑顔だった。

 胸を撫で下ろす。良かった。

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