(3)飛翔

 黒い沼の底へと降り立つ。

 悪戯に体力を消耗してはならない。

 その時をじっと待つ。


 果たして。水面から、手が差し伸べられた。

 底を蹴り、一気に浮上する。

 手を繋ぐ。強い力で引っ張られ、水上へと飛び出した。


 大きく息を吸い込む。

 そこにはもう沼は無い。地平線の彼方まで、青空が広がっている。


 私は、私自身に感謝する。

 ありがとう。貴女のおかげで、私はまだ指し続けることができる。

 もう迷わない。最後の一手まで、みっともなく足掻ききってみせよう。


 ぱちん。


 体が軽い。指し手が伸びる。

 先程まで感じていた重圧が、嘘のように消えていた。


 レイカさん。今度は貴女の番だよ。


「ねえ。貴女は、振り飛車党? それとも、居飛車党なのかな?」


 彼女ではなく、傍らの西洋人形に向かって語りかける。

 私の言葉に、人形はパクパクと口を開き。


「この子は、『羚加(れいか)』──文月羚加」


 人形ではなく、彼女自身の口から、美しい音色が聞こえた。

 音は耳を通り、脳に到達した時には文字へと変換されていた。羚加。

 初めて、彼女と向き合う。


 漆黒の双眼に見つめられる。

 最初は催眠術でも掛けられたかと思った。けど違った。

 彼女は何もしていない。ただ、見ていただけ。

 私の方が勝手に勘違いして、恐慌状態に陥っていただけだ。


「羚加は、振り飛車を好んで指していた。私の居飛車を受け止めるのが好きだった」


 彼女の顔に表情が生まれる。

 何て、哀しい顔をしているのだろう。

 どうやら、私の推測は当たってしまったようだ。


 文月羚加は、もう。


 レイカさんは端に角を上げた。

 勢い角頭を攻めたくなるけど、それが罠であることは明らかだった。

 逆にこちらの端が破られる手だ。その手には引っ掛からない。端歩は突かない。

 攻め時を、待つ。


 この先に何が待ち受けているのか、彼女の陣形を見れば大体予想できる。

 右の金はただの守備駒ではない。棒金が来る。


「……『伶架(れいか)』」

「はい?」

「私の、名前」


 文月伶架さん、か。

 同じ名前を持つ二人の女性の身に何が起こったのか。そこまでは、私にはわからない。

 盤面を見つめる。


 一人が振り飛車を指し、もう一人が居飛車を指す。

 そうして出来上がったのが、彼女の──いや、彼女達の右玉という訳だった。

 局面を鮮明に見ることができなかったのは、二つの棋譜(じんせい)が重なって見えたから。

 棋譜を二つに分解した現在では、彼女達の思考をある程度読み取ることができた。


 二対一なんてズルい、と少しだけ思った。

 けどすぐに首を横に振る。こっちだって、二人だ。

 そうだよね、私。


 思わず笑みを零した私を、伶架さんは不思議そうに眺めて来る。

 向き合えて良かった、本当に。


「ねえ伶架さん。復讐、やめる気は無い? 羚加さんが望んでいるとは、思えないんだけど」


 私の言葉に、伶架さんは小首を傾げる。

 それから彼女は、人形の方へ視線を向けた。


「復讐、やめて良い?」

「ダメデス」

「駄目、だって」


 うーん。駄目ならしょうがないか。

 じゃあ、力ずくで止めるまでだ。


 棒金の攻めが来る。こちらの飛車角を抑え込む狙いだ。

 だけど、そう来ることは予想済。


 そのために、予め飛車を7筋に振っておいたんだ。


 角を5筋に転回する。

 棒金は7筋に移動し、飛車先を開ける。

 こちらは6筋の歩を突き、角道を開ける。

 飛車先の歩を突いて来る。次にと金を作る狙いだ。同歩なら飛車が走り、龍を作ることができる。


 この時を、待っていた。

 飛車で、棒金の前の歩を取る。


「えっ……!」

「ヒシャキリ!?」


 口々に驚きの声を上げるレイカコンビ。

 このタイミングでの飛車金交換は想定していなかったのだろう。

 私だって、先刻までは思いつかなかった手だ。


 同金、同角。この角の位置が良い。

 なおかつ、6筋の歩が相手玉の真上に突き刺さっている。

 右玉の弱点を突いた。


 伶架さんの指し手が止まる。

 どうやら今度は、彼女の方が沼に嵌ったようだ。

 渡した飛車を打ち込まれても問題無い。こちらは虎の子の高美濃囲いだ。対する右玉側は、銀二枚で玉を守っている状態。囲いの差は、歴然としている。

 だから飛車は打たないはず。ならば、どうするか。


 彼女は、人形を見つめる。


「羚加なら、こんな時どうする?」

「ワカンナイ」

「そっか」


 溜息をつき、伶架さんは髪を撫でた。天を仰ぐ。

 すぅ、はぁ、すぅ、はぁ。深い呼吸を繰り返し、やがて彼女は、姿勢を正した。

 漆黒の瞳に、光が宿った気がした。


「よし。やる」


 ばちん!


 息を呑む私。

 強打と共に、端攻めの嵐が来る!


 端攻めを想定していなかった訳じゃない。ただ、このタイミングが意外だった。

 意表を突かれ、一瞬応手に悩む。だけど。


 ──負けられない。

 私の方が、速い。


 端には構わず、玉頭の銀に歩を突っ込んだ。

 同銀とせず、銀を斜め前に上げてくる。その手が、要の角に当たる。

 相手の飛車先の歩を掠め取りつつ、角をかわす。


 手番が彼女に渡った。

 歩を取り込み、端から迫ってくる。

 同香は駄目だ。角を2筋に転回され、相手の香車を取った所で、飛車が回って来る。

 そうなると、最悪の展開が待っている。


 下手に守ると相手の攻めが加速する。

 なら、他の手を考えた方が良い。


「香織。羚加に気付いてくれて、ありがとう」


 こんな時にお礼を言われるなんて。

 どういたしましてと、心の中で返事する。全神経を盤面に集中させる。


 うん、やっぱり受けない方が良い。

 攻める。相手の左の桂馬を狙う。そしてその後ろに控えている、左金を。

 歩を伸ばす。


 リスキーではある、が。

 付け入る隙を作るためだ、この際仕方ない。


 さあ、ここからは互いの攻めが同時に刺さる。忙しくなるぞ。


 私は高美濃囲いの防御力に全てを託し、桂頭と玉頭を徹底的に攻める。

 対する伶架さんは、端攻めに戦力を集中させてきた。

 お互い一歩も退かない。


「フタリトモ、ガンバッテ」


 横から声援が飛んで来る。

 無機質な声に、僅かに感情が宿る。


 端を突破されるのが、一手だけ速い。やっぱりこの人、強い。

 単純な棋力ならば、私を遥かに上回っている。

 終盤の一手差は、致命的な差となる。背筋を冷たい汗が流れ落ちた。


 が!

 まだ終わらない。

 まだ足掻けると、私の中の私が告げている。


 高美濃の隙間を泳ぐ。

 玉の早逃げで再起を図る。


 手番を取り戻したい。

 そのためには、一手分の猶予を貰う必要がある。

 どうにかして、彼女の攻めを遅らせなければ。

 しかし、この端攻めは止まるのか……?


 くしゅん。


 その時。秋風が障ったのか、伶架さんがくしゃみをした。

 あ、可愛い。なんだこの人、人間らしい所あるんじゃん。


 ふっと、思わず笑みが零れた。

 張り詰めていた緊張の糸がほぐれる。そうだ、私は機械や人形と指しているんじゃない。 生きた人間と対局してるんだ。

 完璧ではない。必ずどこかで、チャンスが発生するはず。


 見極めろ。

 どのタイミングで仕掛けるべきか。

 見極めろ。

 どれが必至で、どれが詰めろか。


 伶架さんは、復讐のためにこの大会に出場したのだという。

 私にはそこまで大層な理由は無い。結婚式の費用が浮くだけのことだ。

 一応、あゆむ君を連れて帰るという目的はあるけど、復讐に比べれば弱い動機だと思う。


 だけど、そんなの関係無しに、この一局には負けられない。

 いや、この一局だけじゃない。負けたくない、どんな対局にも。


 動機の大小なんてどうでもいい。

 勝つか負けるか、盤上ではそれが全てだ。


 だから楽しいんだ。

 どんな人間だって、盤上では平等だから。偉人も俗人も変わらない。

 老若男女問わず、皆が同じ条件で対局することができるから。

 だから、全力を出し切ることができる。


 将棋の楽しさを思い出す。


「ね。伶架さんは、将棋楽しい?」


 ふと、気になって尋ねると。

 彼女は、きょとんとした表情を浮かべた。


「楽しい? わからない」

「タノシイデスヨ」


 どうやら、人形の方が楽しんでいるらしい。いいよ、もう何でもいい。

 無意識にでも、将棋の面白さに気付いてくれていれば、それで構わない。


 だけどごめんね、勝つのは私だ。

 貴女の復讐劇は、ここで潰える。


 見極められた気がした。

 次の一手。

 きっと彼女は、先程取った飛車を打ち込んで来る。

 私の玉の、退路を断つために。

 なるほど、それは間違いではない。確実に勝とうという手だ。


 そう。一手の余裕があるならば、間違いではない。


 果たして、飛車が私の陣地に打ち込まれる。

 これで、挟撃の形になった。もはや私の玉に逃げ場は無い。

 しかしその代償として彼女は、手番を私に渡すことになった。


 昨日読んだ詰将棋の本を思い出す。

 良い本だった。実践的で、すぐに応用できそうな気がした。

 確か作者は──『みつか』さんと言ったか。


 ありがとう、みつかさん。

 貴方のことは、ペンネームしか知らないけど。

 貴方の魂のこもった詰将棋、私の心に刻み込まれているよ。


 この形は、既に詰んでいる。

 指す前から理解できた。

 みつかさんが自信を持って、私の背中を押してくれている。


 だけど。彼女が負けを認めるまで、この対局は終わらない。

 最後まで、指し続ける。


 飛車の代わりに得た金を、人差し指と中指で挟む。

 最後の一手位は、作法に則ったやり方で指したい。

 慣れないから、途中で落っことしそうになったけど。


 ぱ……ちん?


 わ、ちょっと変な音になった。

 やっぱ慣れないことはするもんじゃない。格好悪いなあ。


 指し終わって、顔を上げる。

 伶架さんと、目が合った。


 少しだけ、笑ったように見えた。

 しかしそれも一瞬のことで、すぐに元の無表情に戻る。

 笑った顔、可愛かったのになあ。


「負けました」


 そう告げて、頭を下げる伶架さん。


「ありがとうございました」


 私も一礼する。すると。


「アリガトウゴザイマシタ」


 と、彼女の代わりに、人形が挨拶した。

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