(2)沼の中

 飛車を振る。──何故四間なのか? 他の筋では駄目なのか?


 玉を移動させる。──何故玉からなのか? 右銀を上げては駄目なのか? 左の銀は、いつまで遊ばせておくつもりなのか?


 いちいち疑問符が浮かぶ。

 今まで当然と思っていたことが、実はそうでもないと気付かされる。

 なんて、息苦しい将棋なんだ。


 持ち時間が、刻一刻と消費されていく。

 そう言えば今までは、時間を気にしたことも無かった。

 ただ思うがままに、楽しく指して来た。それが私の対局スタイルなんだと、勝手に思い込んで来た。


 その全てが、根底から否定された気がした。

 強くなりたいのなら、この一局に勝ちたいのなら。

 ……時間を、使え。


 黒い沼の水位が上がって来る。

 混沌が、這い寄って来る。

 考えれば考える程、深みに嵌まっていく。

 足が底に着かない状態で、ただもがき続ける。何と、無様な姿だろうか。


 一方のレイカさんは、順調に駒組を続けている。

 飛車先の歩を突いているから、多分居飛車なんだろうけど。

 だけど、何かがおかしい。


 右銀よりも先んじて、桂馬を跳ねている。

 何だろう? いつもの急戦と、違う。

 それでも美濃に、囲おうと試みる。

 玉を納め、まずは片美濃に。

 ──する? うん、する。するでしょ、だって。

 こんな状態で、戦える訳が無い。


 銀が、桂馬の隣に並んだ。

 この時点で、相手は居玉。

 ……何で、囲わないの?


 違和感がますます大きくなる。

 気付け、気付けと、脳内で急かされる。

 そう言われても、気付きようが無い。相手は未知の戦法なんだから、対応できるはずが無い。


 ──できるはずが、無い?

 諦めるには、早過ぎる気がした。


 左金を右斜めに動かし、本美濃を完成させる。

 レイカさんは右金を飛車の横に。


 ……は? 飛車の横に、金を?

 意味がわからない。金は一番の守り駒だ。玉から遠ざかる方向に金を持って行くことは無い。普通は。

 普通じゃ、ない。やっぱり彼女は、何かを狙っている。

 だけど気付けない。狙いがさっぱりわからない。

 内心焦りながらも、大森さんの言葉を思い出す。

 指し手に困った時は、守れ。


 端歩を突く。この一手で、将来の逃げ場を確保できた。

 彼女も端歩を合わせて来た。これは当然と思えた。

 問題は次の一手だ。角交換に備えて、左の銀を上がっておこうか。

 ──うん、上がろう。


 その次の瞬間。

 私は、自らの目を疑った。


 レイカさんの玉が、遂に動いた。

 左にではなく、右方向に。


 何だ、どういうことだ?

 混乱する。その手は、完全に想定外だ。


 通常、玉は飛車から離れた位置に移動させる。飛車は攻め駒、当然戦場に近い。

 そこにわざわざ玉を持って行くことは、自殺行為に等しいのだ。

 王手飛車でも食らった日には、投了もやむを得ない。


 それなのに。

 彼女の玉は、飛車の方へ。


「ミギギョク、デス」


 ぞくり。突然、至近距離から聞こえた声に、背筋が震え上がった。

 悲鳴を上げなかったのは、奇跡に近い。

 いつの間にか、レイカさんの人形が、私の駒台の横にまで移動していた。何、嫌がらせのつもり?


 それにしても、みぎぎょく──右玉?

 なるほど確かに、玉は右に動いている。こんな戦法があったなんて。


 違和感の正体は、これだったのか?

 釈然としないながらも、一応の彼女の狙いはわかった。

 振り飛車でもないのに、あえて玉を右に囲う、右玉という戦法。

 玉飛接近のリスクをわざわざ冒すからには、相応の見返りがあるのだろう。

 問題は、それが何なのか、さっぱりわからないということだ。

 いよいよ対応に困る。


 そう言えば昔しゅーくんから、名前だけは聞いたことがある。その当時は将棋に興味が無かったから、聞き流してしまったけど。

 右玉をされると、何を指したら良いかわからず、戸惑うとのことだった。

 確かに、狙い筋がよくわからない。

 わからない時は守る。美濃から高美濃へと囲いを強化。


 ……強化して、良いんだよね?


 何か気持ち悪いなあ。

 指し手に自信が持てない。相手が右玉なんて得体の知れない戦法だから、余計にだ。


 高美濃に組むのに費やした手数で、彼女は左辺に手を加えて来た。

 左桂を跳ね、左銀は右銀の隣に並ぶ。

 左金は真上に上げ、銀と桂馬に紐を付ける。

 そして、飛車を下段に下げた。


 首まで、沼に浸かる。


 何を指しても良くなる気がしない。

 手詰まり感が半端無い。

 できることなら一手パスしたいけど、将棋にそんなルールは無い。


 こうなったら、囲いを更に強化する? 銀冠?

 端攻め──は、相手玉が遠すぎて効果が無い。下手すれば反撃で自玉が危なくなる。

 飛車先も、二枚の銀でがっちり守られているし……。


 この感じ、初めてしゅーくんと本気で指した時に似ている。

 何を指したら良いかわからなくて、未知への恐怖にただ怯えて、踏み込む勇気が無くて。

 あの時は、情報量(あい)の差で勝ったんだっけ。


 だけど今度は、初対面のレイカさんが相手だ。

 私は彼女のことを何も知らない。同じ手は使えない。


 ……何も知らない、か。


 本当にそうか? と頭の中でもう一人の私が尋ねて来る。

 本当に、何も知らないのか?


 疑問に対する答えは無く、ずぶずぶと沼に沈んでいく。

 もうすっかり、頭まで浸かってしまった。

 なのに、未だに底は見えず。地に足が着いていない状態で、息ができずにもがき苦しむ。


 駄目だ、これ以上は指し続けても苦しいだけ。好転の兆しすら見えない。

 黒い沼の中は、一寸先も闇に包まれていた。


 投了、しよう。

 しゅーくん、ごめん。せっかく勝ってくれたのに、ごめんなさい。本当にごめんなさい。

 だけど、もう無理なの。息がもう続かないの。

 このままじゃ私、きっと死んでしまう。


 負けました。


 たった一言で楽になれる。窒息の苦しみから解放される。試合には敗北するけど、死ぬよりはマシだ。もう、認めてしまおう。


 私は、レイカさんに敵いませんでした。


「負けま──」

『認められるか!』


 言い掛けた言葉が、脳内で遮られる。

 雷に打たれたような衝撃が、全身に走った。


 私は今、何を言おうとしていたんだ?

 負けました、だと?

 まだ負けてもいないのに? 玉が詰んだ訳でも、全駒された訳でもないのに?

 劣勢に立たされて、まるで手が見えなくて、敗北する予感しかしなくて。


 たったそれだけのことで、投了しようとしていたのか?


 早すぎる。

 全力を尽くしていない。


 気付け!

 もう一人の私が叱咤する。

 気付け! 戦え!

 まだやれると、まだ勝てると。

 気付け! 戦え! 死ぬまで足掻け!


 全力を、尽くしていない。

 私はまだ、スタート地点にすら立っていなかった。


 彼女のことを何も知らない?

 否。私は知っている。

 この盤上に、この一局に、彼女の真実が存在する。


 私は今まで、自分の指し手にしか注目できていなかった。

 レイカさんの指して来た手を、噛み砕く余裕が無かった。


 余裕が無い?

 違う、目を背けていただけだ。

 不利になっていく局面を直視する勇気が、私には無かったんだ。

 それは、とんでもない間違いだった。自覚する。私は愚かだった。


 気付いた。


 そして。

 やっと、気付いた。

 違和感の正体に。

 何故彼女が右玉を選んだのか。

 何故今まで局面が鮮明に見えなかったのか。

 何故彼女が、人形を連れて来たのか。

 一体誰のための復讐なのか。


 脳内で、局面を二つに分解する。

 一つは目の前のレイカさんとの対局。そしてもう一つは──。



 盤上に、もう一人居る。

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