(11)臨界点を超えて
攻め駒が足りない分を、玉で補充している。
それが燐ちゃんの強みなのだと、今気づいた。
守備駒さえも、玉に伴い、攻め駒と化す。
でも彩ちゃんは、入玉狙いだと思っている。
いや、普通はそう思う。
その認識のズレが、致命的な判断ミスを引き起こすことになる。
「わからない。理解不能」
彩ちゃんが呻く。
理解の範疇を超えている。
無理も無い。彼女は、一回戦を観ていないのだから。
彼女は正統派の居飛車党。
唯一の弱点は、定跡外の乱戦に慣れていない、ということか。
「彼女はまだ若く、経験不足は否めない。逆に言えば、まだまだ強くなれる可能性を秘めているということだよ」
香澄さんがフォローして来る。
なるほど、今でさえ二段なんだもんね。私が目指す初段より、更に一段上の存在なんだ。将来的には三段、四段……一体どこまで強くなるのか、見当もつかない。
その成長を、狂気さんは期待していると言うことか。
「お兄ちゃん、私負けちゃうの? どうしたら良いのかな?」
彩ちゃんは狂気さんを、縋るような目で見つめる。
そんな彼女に、狂気さんは温かい微笑みを返した。
「彩。相手の強さを認め、己の弱さを識(し)るんだ。その上で、もう一度盤面を見つめ直してごらん」
「盤面を?」
「盤上には嘘偽りの無い、真実のみが存在する。大丈夫、彩なら勝てる。兄ちゃんは信じているよ」
狂気さんの言葉に、彩ちゃんもまた笑みを浮かべる。
それから、ニット帽を外した。爽やかな秋風が、彼女の髪をなびかせる。
「わかったよ、お兄ちゃん。私、やってみる」
その瞳が、透き通っていく。
盤上の全てが、彼女の目の中に映し出される。
──まさか、これって。
「明鏡止水の境地」
香澄さんが呟く。
名前は知らなかったけど、私も似たようなことをした経験がある。
あの時は、クリアになった視界で、相手の指し手が手に取るように理解できた。
でも、私の場合は相手がしゅーくんだったから、元々よく知っている相手だったからこそ、できたのだと思う。
初対面で、あれができるなんて。
凄い。あの子、天才だ。
燐ちゃんも十分化け物じみているけど、あの彩ちゃんという子は、それに匹敵する才能を持っている。
「ホントだ。視えた」
嬉しそうに、彩ちゃんは微笑んだ。
そんな彼女に構わず、燐ちゃんは進撃を続ける。
守備駒を薙ぎ倒し、相手玉へと攻め込んでいく。
もう少しで、喉元に刃が届く。
だけど。
寸前で、刃先が止められた。
燐ちゃんはグイグイと押し込もうとするけど、それ以上は入っていかない。
「水無月彩椰。お前は」
驚いたように、燐ちゃんは顔を上げる。
炎のように紅い瞳と、空のように透き通った瞳が見つめ合う。
「お前は、何者だ?」
「鬼さんこちら、手の鳴る方へ」
目隠し鬼の歌を口ずさむ彩ちゃん。
彼女には恐らく、局面を通して真実が見えているのだろう。
燐ちゃんが鬼であることも理解している。
そして、局面を明確に見えていないことにも気づいている。
将棋において、情報量の差は圧倒的なアドバンテージとなる。
相手の指し手がわかれば、事前に対処できるからだ。
今度は燐ちゃんの方が戸惑っている。
会心の攻撃が、通らない。
穴熊のように堅牢な囲いでもないのに、いや囲いと呼べるかどうかも怪しい代物なのに。
数手先の攻めに対して、何故か既に守備駒が配置されている。
訳が分からない、よね。
「まさか、お前。私の指し手が、読めているのか?」
紅い瞳が、ぎらりと輝きを放つ。
まさかこの子、もうカラクリに気付いたの?
内心驚く私をよそに、燐ちゃんは大きく息を吸い込んだ。
吐くと同時に、次の一手を解き放つ。
ばちん!
強打が響く。
「……あれ?」
呆気に取られる彩ちゃん。
「どうやら、全ての手を読めている訳じゃないようだな」
「彼女の明鏡止水は不完全だ。全知には近くても、全能ではないんだよ。無意識に候補手から外してしまっている手が、少なからず存在している」
「なるほど。鬼籠野燐はその盲点を突いた訳だな」
しゅーくんと香澄さんは、将棋盤くんを使っての手の検討を続けている。
ええと、つまり。相手の読みを上回る読みを入れたってこと?
それにしても、全知だけでもチート級なのに、全能まで加わるとは。
一体、極めた先には何があるんだろう?
「ちなみに、プロの棋士は全知が標準装備。彼らは皆、限りなく全能に近いと言われているよ」
はあ。プロってやっぱ、凄いんだなあ。
アマチュアとは次元が違うんだ。
彼女達は、その領域に近づこうとしているのか。
彼女達はまだ若い。
もっともっと強くなる。
私は初段を目指すので精一杯だけど。もしかしたら……。
ふと、遠い未来を夢想する。
私としゅーくんとの間に子供が産まれて、その子が将棋を指すようになって。
いずれ、成長した彼女達と指してくれたら、嬉しいな。
その時は、お手柔らかにお願いします。
彩ちゃんの明鏡止水により、燐ちゃんは力任せの強引な攻めができない。
それでも搦め手を交えて、着実に攻めの起点を構築しようとする。
対する彩ちゃんも、燐ちゃんの玉を仕留めようと虎視眈々と狙っている。
互いの玉が近い。どこで戦いが勃発してもおかしくない。
一触即発。緊張の糸が張りつめる。
「ねえ、お兄ちゃん。私、まだ頑張れるかなあ?」
「ああ。俺はいつだって、彩の勝利を信じているよ」
「ありがとっ」
広く深く、あらゆる可能性を視ようとする彩ちゃん。
少しずつ、読み抜けが減ってきた気がする。
対局中に、更に進化しようとしているのか。凄い。
燐ちゃんの顔が険しくなる。
「あゆむ。私が負けたら帰らないって、本当?」
「姉さん。帰ってきて欲しいの?」
「うん。本当はもっと、仲良くしたい。一緒に買い物行ったり、映画を観に行ったりしたい」
だから、負けたくない。
燐ちゃんの指し手が鋭さを増す。
それは、読まれることを前提とした、鬼手だ。
一気に勝負を決める気か。
その判断は恐らく正しい。
長期戦になれば、彩ちゃんの明鏡止水はますます精度を増し、付け入る隙が無くなってしまうだろう。
また、『鬼』で居られる時間にも限度がある。
短期決戦に懸け、読まれようとも構わない、絶対の勝負手を放つ燐ちゃん。
それを、真っ向から受け止める彩ちゃん。
駒音が、高らかに響いた。
『熱花万浄』
紅蓮の業火が、盤上を灼き尽くす。
自駒を道連れに、敵駒を灰塵に帰す。その火の手は、相手玉へと及んだ。
『鏡花水月』
焼け野原となった将棋盤が、対局者の人生を映し出す鏡となる。
互いに死力を尽くした者同士だからこそ、真に理解し合うことができた。
『無彩』
──そして、決着。
「ありがとうございました」
同時に頭を下げる、二人の少女。
それから、片方が「負けました」と敗北を認めた。
燐ちゃんだった。
肩を震わせ、ぽろぽろと、枯れ果てたはずの涙をこぼしながら。
彼女は、投了した局面を見つめていた。
どちらが勝ってもおかしくない、ギリギリの勝負だった。
「お兄ちゃん、私勝ったよ!」
「ああ、おめでとう」
「お兄ちゃんの応援のおかげだよ! ありがとっ」
感謝を告げて、狂気さんに抱き着く彩ちゃん。
彼女の頭を撫でてやる青年の表情は穏やかで、少し嬉しそうに見えた。
手塩にかけて育てた弟子が勝ったんだ。師匠としては、この上ない喜びだろう。
彼らと対照的なのが、燐ちゃんサイドだ。
溢れ出る涙を拭おうともせず、彼女は嗚咽を漏らしていた。
単に試合に負けて悔しいだけではない。
彼女にとっては、愛する弟との離別を意味する敗北だった。
「ごめ……ん。あゆ、む。わ、私、負け……て」
「姉さん。みっともないから、人前で泣かないで」
「う。ごめん」
「言っとくけど、怒ってないから」
「……え?」
ハッとして、燐ちゃんが振り向くと。
そこには、狐面を外した、あゆむ君の微笑があった。
「お疲れ、姉さん。惜しかったね」
「え、じゃあ」
「家に帰る件は、保留にしといてあげる。
決勝戦で、逢おう」
そう応えて、彼は席を立つ。
ぽかんとする燐ちゃんを残し、あゆむ君はこちらに歩いて来た。
「香織さん。姉がお世話になりました」
「やっぱり、竜ヶ崎に戻るの?」
私の言葉に、彼は苦笑混じりに応える。
「はい。まだ中途半端な状態なので、一旦は戻ります。
けど──大会が終わったら、道場に遊びに行って良いですか?」
「ん。勿論!」
途端に、花が咲いたように明るくなるあゆむ君。
「ありがとうございます! それでは、決勝戦で待っています」
そう言って、彼は私達の横を通り過ぎて行った。
その背中に向かって、
「首を洗って待ってなさい! 決勝で、ギタギタにノシてやるわ!」
燐ちゃんが叫んだ。
物騒な発言、だけど。
涙を拭った、彼女の表情は晴れやかだった。
こちらを振り返ることなく、あゆむ君は右手を上げる。
そのまま、彼は本殿へと歩き去って行った。
またね、あゆむ君。
「実に見事な一局であった」
頃合いを見計らっていたのか、穴熊さんが拍手で称えて来る。
両眼から、感動の涙を流しながら。
「若い頃のことを思い出したよ。青春だな! 諸君らのどちらが準決勝に上がって来るかまだわからんが、是非とも立ち会ってみたくなった」
準決勝、か。
勝ち上がるためには、次の大将戦で勝利しなければならない。
ここに居る、超美人のお姉さん相手に。
果たして私は、勝てるだろうか?
「ごめんなさい、負けちゃいました」
そこへ、燐ちゃんが満面の笑顔で戻って来た。
言葉とは裏腹に、滅茶苦茶嬉しそうだ。
舌なんか出して、テヘペロって。可愛いんだから。
「いいよいいよ、次に私が勝てば良いんだから」
「すみません、お任せします」
「ん。まあ、大船に乗ったつもりで居てよ」
本当は、自信なんて無いけど。
大将はどんと構えていなくちゃ、駄目だよね。
傍らに居る、レイカさんの方に視線を遣ると。
彼女は変わらず無表情で、私達をぼうっと眺めていた。
胸に抱いた西洋人形が、再び口を開く。
「カツノハ、ワタシデス」
……やってやろうじゃないか。
後が無いのは、お互い様なんだ。
「しゅーくん。この人に勝てたら、ご褒美が欲しい」
「ああいいぞ。何でも言ってくれ」
「じゃあ。キス大盛、汁だくで」
そう言って、ニッと笑う。
せっかくしゅーくんが掴んでくれた一勝、絶対に無駄には終わらせない。
負けられない戦いが今、始まろうとしていた。
第五章・完
第六章に、続く
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