(9)見えない真実
光溢れる世界に、一歩を踏み出す。
本殿の内と外は、本当に別世界のようだった。
大きく息を吸い込む。今まで当たり前のように吸ってきた空気が、たまらなく美味い。
傍らのあゆむ君は、いそいそと狐面を装着した。
それ、まだ着けるんだ?
「燐ちゃん! あゆむ君、連れて来たよ!」
力一杯、叫んだ。
呆けた様子で虚空を見つめていた燐ちゃんが、ハッとして視線をこちらに向ける。
その両目に、みるみる涙が溢れていくのが見えた。
これが、演技だと言うのか?
「白々しい泣き真似ですね」
なのに。あゆむ君は冷めた口調でそう呟き、ため息をついた。
「あゆむ! 来てくれたのね!
ありがとう、香織さん!」
本当に、心の底から嬉しそうに。燐ちゃんは、頬を赤らめて礼を言ってくる。
とても演技には見えないんだけど。
あゆむ君はつかつかと燐ちゃんの前まで歩いて行き、
「勘違いしないで。私は貴方のために来たんじゃない。対局相手が可哀想だから、貴方を止めに来たの」
そう、きっぱりと言い放った。
あゆむ君、はっきり言い過ぎ! 燐ちゃん、傷付くぞ?
ほら、肩が震えてる。下を向いて、何かを懸命に堪えている。
「く……くくく」
可哀想に、泣いて──あれ?
笑って、る?
「姉さん。茶番はここまでよ」
「ぷっ……あはははははは!」
突然、爆笑を始める燐ちゃん。
両目から涙を流し、笑い転げた。
「笑い過ぎ。謝罪を要求します」
「くく……だって、皆の反応が面白くて。特に香織さん、まさか本殿に乗り込むなんてね! 予想外過ぎるでしょ……!」
呆気に取られる私を指さして、燐ちゃんは心底可笑しそうに笑う。
そうか、だから本殿に向かう時、彼女は泣きそうな顔をしていたのだと、妙に納得する。
泣く程に滑稽だったのだ、私の反応は。
まんまと彼女の演技に騙されて、乗せられて、危険を冒して本殿に単独で突入して、頑張ってあゆむ君を連れ出して──その全てが茶番だった、と。
そりゃあ、可笑しいでしょうね。
怒りは無かった。ただ、自分が情けなかった。
レン君の言った通り。確かに私は、表面しか見えていなかった。
「かおりん、大丈夫か?」
「う、うん。ちょっと、疲れた」
力が抜ける。立って居られない。
しゅーくんの隣に腰を下ろし、彼の肩に体を預ける。
「鬼籠野燐。どうやら奴には、まだ俺達の知らない秘密があるようだ」
うん。でももう、どうでもいいや。
もう、彼女のことを応援する気にはなれない。
パン!
その時、音が響いた。
それで、燐ちゃんの甲高い笑い声が、ようやく収まる。
あゆむ君が、彼女の頬を張ったのだ。
「……った……何すんの?」
「貴方には、他人の痛みがわからない。だからわからせてあげたの」
燐ちゃんは涙目になりながらも、「ふん」と鼻を鳴らす。
「弟のくせに、生意気」
「あれぇ? ひょっとして、妹君──いや、弟君と仲悪いのー?」
そこに割り込んで来る、対局相手の彩ちゃん。
ニヤニヤと、面白そうに燐ちゃん達の様子を眺めている。
「そんなこと無い。普段は大人しい、従順な犬なのよ、この子。今日は何故か反抗的な態度を取ってるけど……後で躾けておくわ」
そう言って、燐ちゃんはあゆむ君へと視線を移す。
「あゆむ。私の隣に座りなさい。仲の良い所を見せ付けるわよ。そうだ、手も繋ぎましょう。何ならハグしてあげようか?」
本気で、そんなことを言っているのだろうか?
この子、やっぱり普通じゃない。
あゆむ君は無言で、彼女の隣に腰掛ける。
手は繋いでくれなかったが、それでも燐ちゃんは満足したようだ。
満面の笑みを浮かべる。
「どうよ、水無月彩椰! 私達だって相思相愛の仲なんだからね!」
「はいはい。そういうことにしといてあげるわ」
茶番に付き合うのも飽きて来たのか、彩ちゃんは肩を竦めて応える。
「それで。次はどう指すの?」
示された局面は、異様だった。
燐ちゃんは依然として角道を開けず、端歩を突いて桂馬を跳ね、空いたマスに銀を滑り込ませていた。その隣には金をくっ付けている。
これだと桂頭と角頭を狙われそうだけど、それは飛車を浮かせて防いでいる。
何とも苦しい、頼りない陣形だ。
飛車を取られたら、終わる。
だけど、燐ちゃんは笑っていた。
まだ『鬼』を出していないのに、余裕さえ感じる。
……もしかして、形勢判断ができていないのかな? 入門者なら、十分ありえる。
「どう指すかって? 決まってる。満を持して、角道を開けるのよ!」
自信満々に角道を開ける彼女。
その様子を見て、あゆむ君が溜息をつく。
角道を開け、角を取って来れば銀で取り返すつもりか。
けど、他の手を指されたらどうするんだろう?
例えば、飛車先の歩を突き越すような手を。
案の定、突き越して来た。
同歩で、たちまちは自分の飛車の横利きがあるから、突破はされない。
だけど、そこで角交換。
直後、飛車を狙う角打ちが来る。
そこまではほぼ一直線の変化で、彩ちゃん優勢だと思う。
んだけど、燐ちゃんの表情に焦りの色は見られない。
「あゆむ。今こそ愛の力で逆転よ!」
そう言って、手を伸ばす燐ちゃんを。
「却下」
あゆむ君は、無慈悲に払い除けた。
「ちょっ……何でよ!?」
「ピンチの演出がわざとらしい」
「はあ? せっかくのお膳立てを……!」
「貴方の棋譜(きゃくほん)は、三文芝居みたいに明け透けなの。こんなんじゃ、誰も姉弟愛に感動してくれないよ」
「え、そう? じゃあどうすりゃいいのよ?」
質問して来る燐ちゃんに、あゆむ君は親指を下に向けて応える。
「対局中に、観戦者に質問するな」
「え? これってペア対局じゃなかったの?」
「違う」「違う」「違う」
燐ちゃんの言葉に、即座に三方向からツッコミが入る。
しかしなるほど。ピンチの演出、か。妙な所で納得する私。
要するに、対局前に彩ちゃんと狂気さんの兄妹愛を見て、自分もやりたくなったんだ。
そのために、わざわざ局面を不利にした。
何という浅はかで幼稚な計画だろう。
それにまんまと乗せられた私も、馬鹿の極みだ。
結果、取り返しが付かない程に形勢差は開き、私は無駄に疲れた。
どうしようも無いな、私達。
「うーん、そっかあ。なら、私だけの力で挽回するしか無いかなあ。ねえあゆむ、応援くらいはしてよ」
「がんばれー」
心のこもっていない声援でも、燐ちゃんはやる気を出したようだ。
飛車を逃がす。
が、代償として馬を作られる。
対局相手の彩ちゃんという人も、中々にクレバーだ。
一見ただのブラコンだが、慣れない戦型でも問題無く適応している。
普通に指していれば、もっと強さを実感できたに違いない。
「あゆむ。ねぇ、あゆむってば!」
「……聞こえてるよ」
「何でそんなに怒ってるの? 私のこと、嫌いになった? 昔はお姉ちゃんお姉ちゃんって、いっつも私の後をついて来てたじゃない」
「覚えてない」
ガーンという音が、聞こえた気がした。フラフラとよろけながら指す燐ちゃん。
どこまでが演出かわからない。
もしかして、演出じゃないのかもな、とふと思った。
あゆむ君が思っている程、燐ちゃんは超然とした存在ではないのかもしれない。
現に今も、半泣きになりながら指し手を探している。
彼女の真実がわからない。
──いや、彼女だけじゃない。あゆむ君も、ゆかりちゃんも、私にはわからないことだらけ。
ああ、せめて燐ちゃんと指す機会があればな。
同じチームに居ながら、まだ一局も指したことが無いんだ。そりゃ、わからないよ。表面だけしか見えないよ。
だって、今日初めて会ったんだから。当然なんだ。
そこまで考えた所で、私は身を起こした。
「もう、大丈夫なのか?」
「うん。ありがとう」
一つ、思い付いたことがあった。
「しゅーくん。ちょっと協力して欲しいんだけど、良いかな?」
「ああ、構わない」
オーケー。『対局相手』は得た。
次に私は、ゆかりちゃんの方を見る。
すぴーすぴー。可愛い寝息を立ててうたた寝中だ。
起こさないよう気を付けながら、将棋盤くんを持ち出す。
よいしょ。
重たいなあ。よくこんなの持ち運んでたな、ゆかりちゃん。
ごめんね、少し借りるよ。
しゅーくんと、将棋盤くんを挟んで向き合う。
横手には、燐ちゃんと彩ちゃんの対局の様子が見える位置だ。
「さて、それじゃあ。初手から再現していこうか」
「成る程、『検討会』か。悪くない」
そう。一から順番に、燐ちゃん達の手を再現する。
そして一手一手の意味を考え、理解を深める。
検討会。将棋のもう一つの醍醐味である。観戦者達にとっての学びの機会。
これなら、実際に対局しなくても、彼女らの気持ちが少しはわかるかもしれない。燐ちゃんと、ついでに彩ちゃんの気持ちが。
中腰の姿勢はしんどいけど、この際我慢してみせよう。
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