(8)伏竜稲荷神社・本殿
「お邪魔します」
襖を開け、本殿へと一歩足を踏み入れる。
途端、ほのかに甘い香りが鼻腔をくすぐった。お香を焚いている?
靴を脱ぎ、畳に上がる。
中は薄暗く、奥の様子は見えない。
甘い香りが強くなって来た。
一歩、また一歩、慎重に進む。
ここは言わば敵の本拠地だ。何をされるかわからない。
私は未だに、竜ヶ崎の全貌を知らないのだ。
ましてや、神の御座(みざ)である。
罰が当たらなければ良いんだけど。
神と言えば、結局この神社の神様は竜と狐、どちらなんだろう。
竜ヶ崎は名前に『竜』の文字が入っているけど、狐に与(くみ)している。
ひょっとして、それでバランスを取っているのかな?
そんなことを思いながら歩いていると。
闇の中に、赤く光る二つの点が見えた。
何だろう? 近付いてみようか。
近付くにつれ、周囲がぼうっと明るくなってきた。
どうやら蝋燭に火が灯されたようだ。
甘い香りに混じって、隠しきれない異臭が鼻をつく。
この匂い、どこかで嗅いだことがある。そうだ、実家の犬の──。
「やあ。お客さん」
そこには、全身真っ白の少年が居た。
狐面を着けた奥の瞳が、赤く輝いている。
白髪に、色白の肌に、白い着物。
なのに、眼だけは血のように赤い光を放っている。
燐ちゃんが『鬼』になった時も目が赤くなるけど、あれは炎のように熱い眼差しだ。
対するこちらは、目を合わせた者を凍り付かせる冷たい眼光。
一目で、この世の者ではない、と感じた。
総毛立つ。体が震える。
「君は何をしに来たのかな?
ああ、喋らなくても良いよ。なるほど、『彼女』を姉の元に連れて行くために。自分の身を顧みずに──仲間思いなんだね。
それとも、ただの馬鹿なのかな?」
少年は薄く笑っていた。
今になって後悔する。
ここは、安易に踏み込んで良い場所ではなかった。私は馬鹿だ。
お邪魔しましたと帰ろうかと思ったけど、体が動かない。
彼の視線に、射竦められてしまっている。
もう手遅れということか。
……だったら。
「あゆむ君に、会わせて」
だったら、引き返さない。やるだけのことはやってやる。
覚悟を決める。
すると。
「いいよ」
意外にも、彼はあっさり承諾した。
「え? いいの?」
拍子抜けする私に、彼は手を差し伸べる。
「お手」
犬じゃないっつの。
彼の視線が逸れたおかげか、体が動いた。
少し躊躇したけど、結局彼の指示に従った。この場は彼が支配している。
体温を感じない、死人のようなひんやりとした手に触れる。
軽く触っただけなのに、鳥肌が立った。
「会わせるのは良いけど、『彼女』が君についていくとは思えないな」
暗闇の中を、白い少年が手にする蝋燭の灯りを頼りに歩いて行く。
手を繋いでみて気付いた。異臭は彼から漂っている。犬のような、獣のような臭い。
「さっきから彼女、彼女って。あゆむ君は、男の子だよ?」
「──思慮が浅いな」
私の言葉に、少年は呆れたように応える。
「君は物事の表面しか見えていない。深層においては、見かけの性別など何の意味も無いんだ。彼女が鬼籠野りんで居たいのなら、その意思を尊重すべきだと僕は思うね」
ぐ。何か、正論ぽいこと言われた。
その辺りのことも、あゆむ君に訊いてみないとなあ。
「例えば、僕のことも。何に見えているかい?」
「……かろうじて人間の男の子に見えるけど」
「それは僕が、『化けの皮』を被っているからさ。竜ヶ崎漣(りゅうがさき れん)という名前だって、仮初(かりそめ)に過ぎない」
レンくん、か。
案外、可愛い名前してんじゃん。
「本当に君は、馬鹿だね」
完全に心を読まれている。
よし、安藤さん二号と名付けよう。
「やめてくれ」
そんなことを言いながら、歩いている内に。
部屋の隅に、蝋燭以外の光が見えた。
朧気な、青白い光を放つ──人魂?
「ひっ!」
思わず、悲鳴を上げそうになったその時。
「……香織さん?」
懐かしい声が、聞こえて来た。
人魂、じゃない。
隅に座ったあゆむ君の全身から、蒼い炎のようなものが立ち昇っているんだ。
何故か上半身裸で、身体中に細かい文字が書かれている。
まるで、耳なし芳一みたいだ。
彼の平らな胸を見て、胸中で嘆息する。やっぱり男の子だったんだ。
わかっていたつもりだったけど、実物を見るとショックだ。
私の視線に気付いたのか、彼は慌てて両手で胸元を隠す。
「……見ないで下さい」
消え入りそうな、小さな声だった。
罪悪感を感じて、私は目を逸らす。
「どうして、来たんですか? 私は貴女に、酷いことを言ったのに。それに、嘘も付いていました」
風も無いのに、炎が揺らめいた。
「嘘って、燐ちゃんのフリしてたこと? それなら私だって、しゅーくんと結婚してたの黙っててごめん。
もういいよ。気にしてないから、一緒に帰ろう?」
私の言葉に、あゆむ君は首を横に振る。
「それは、できません」
「どうして?」
「今戻った所で、私には何もありません。何も変わりません」
うーん?
彼の気持ちがわからず、困惑する。
何も無い? 何も変わらない?
「私は、レン君と共に生きます。お願いですから、私のことは放っておいて下さい」
わからない、けど。
このまま置いて行くのは、駄目だと思った。
「あゆむ君! ううん、りんちゃんで良いよ!
私の話を聞いて!」
何ならこの場で一局指しても良い。
勇気を振り絞って、彼の全身を覆う蒼い炎に触れる。
熱は無い。感触も無い。ただ、そこに在るだけ。
なら。私達を隔てるものは、何も無い。
そのまま手を伸ばし、彼の右手を掴んだ。
「聞いて。貴方のお姉さんがピンチなの。さっきの声、聞こえたでしょう?」
「聞こえました。早く来いだの何だの、怒鳴ってましたよね。相変わらずの、不遜な態度でした」
う。やっぱり良いイメージは無いか。けど!
「燐ちゃん、泣きそうな顔してたよ? あゆむ君に来て欲しいんだよ。何だかんだ言ってあの子、君のことが好きなんだよ」
「あの姉が? 信じられませんね」
あゆむ君と目が合った。よし、少しは食いついたか。
「ほんとだよ。頭の中が君のことで一杯になって、心ここに在らずって感じで。いきなり変な手を指したしさー」
「──変な手?」
ピクッと、彼の耳が動いた。
「香織さん。宜しければ、その手について教えていただけませんか?」
「え? いいけど」
何故彼がそんなことを訊いて来るのか、訝しく思いながらも。私は説明した。
彼は真剣な表情で考え込んでいる。
「そうですか。……銀を上げた、か」
何? あの出鱈目な一手に、何か意味でもあると言うの?
「香織さん。姉は定跡を一切知りません。駒の動かし方と基本的なルールのみ知っている、入門者同然です」
「え? そんなこと」
ある訳無い、と言い掛けて。
一回戦で感じた、違和感を思い出す。
あの矢倉もどきは、狙って作ったものではないのだとしたら?
「本当に、何も知らないんです。戦法も、囲い方も。なのに、なまじ強いものだから、誰もが勘違いするんです。オリジナルの戦法を使ってるって」
駒の動きを覚えたばかりの入門者が、上位の棋士に勝つことはありえない。
いくら才能のある人だって、最初から強い訳じゃない。
だから定跡を勉強する。
でも、燐ちゃんは最初からあの強さだったのだと言う。
もしそうなら、確かに定跡を学ぶ必要は無いのかも知れない。
いや。学ぼうという発想すら、無い。
けど、そんなことってありえる?
もしそんなことができるなら、それは将棋の神様か、あるいは。
──鬼、か。
「姉は鬼籠野の血が特別濃い、正真正銘の鬼です。あれが指す手は全て定跡外にして、最後には必ず自らの勝利へと繋がる鬼手。動揺などありません。全ては計算され尽くされているんです」
計算、って。
燐ちゃんのうろたえた様子を思い出す。あれが演技だとは、思えないんだけどな。
「行きましょうか、香織さん」
「……え? 行ってくれるの?」
「姉の謀略に掛かって訳も分からず負けるなんて、お相手の方が気の毒でなりません。化けの皮を剥がしに参りましょう」
酷い言われようだなあ。
これで良いのかという気もするけど、とりあえず当初の目的は達成した、のかな?
蒼い炎が消える。
身支度を整えるあゆむ君に、それまで静観していたレン君が声を掛ける。
「墨入れの儀はまだ途中だ。四十禍津日の力は使えないから、くれぐれも気を付けるんだよ」
「はい。お世話になりました」
私に対する態度とはまるで違う、優しい声だった。
レン君、まさかあゆむ君のことが……?
それに、墨入れの儀って、まさか。あゆむ君の体に文字を書いたのって、レン君?
あらぬ妄想が頭をよぎる。
や、そんな。レン君の筆が、あゆむ君の身体を──いやいや、そんな所まで。
「えっろ!」
私の叫びに、二人の少年が同時に振り向いた。
しまった、思わず口に出してしまった。
「どうしたんですか?」
「殺すよ?」
「え、いや、ははは……ごめんなさい」
そういやレン君は心が読めるんだった。
イケない妄想をしてしまってゴメン。
「と、とにかく! こうしている間にも対局が進んでる。急ごう!」
闇の中を、三人で歩く。
レン君曰く、ここは神域であり、無限の時空間が広がっている。
人の身では、決して入り口に到達できないらしい。
道を違えば、お香の匂いに惑わされ、深淵へと堕とされる。
導くは、神木から精製した蝋燭の灯りのみ。
なるほど、ここが危険な場所だということはわかった。
わかったけど、三人並んでお手々繋いで歩く姿は、ちょっと間抜けだ。
「ねえあゆむく──りんちゃん。私達のチームに戻るつもりは、無い?」
「先程も言ったでしょう。私はまだ、何も得ていません。今戻る訳にはいかないんです」
「んー。じゃあ、決勝戦が終わったら。一緒に帰ると約束して欲しい」
私の言葉に、あゆむ君は少し考え込む素振りを見せた後、
「考えておきます」
とだけ応えた。
むう、一筋縄ではいかないなあ。
ていうか君、受験どうするつもりなのよ?
「四十禍津日は森羅万象に精通する。学問の心配は無用だよ」
今度はレン君が応える。
またしても心を読んだな、安藤さん二号。
前方に光が見えてきた。
どうやら入り口に着いたようだ。
「ここまで来れば、もう大丈夫だ」
レン君が手を離す。
「待って。君も一緒に来ない?」
咄嗟に声を掛けたのは、狐面の奥に一抹の寂しさを感じたから、だろうか。
しかし彼は、首を横に振った。
「僕は夜に生きる者。日の光は似合わないさ」
蝋燭の火が消える。
「決勝戦で、また会おう」
闇に溶けていく、白の少年。
幻想への扉が閉じられる。現実へと強制的に引き戻される。
後には、静寂だけが残された。
「ありがとうございました」
誰も居なくなった空間に、頭を下げるあゆむ君。
そういえば、初めて彼と指した時もそうだった。
初めて彼と対局した時。
彼は、直前までしゅーくんと指していた。
しゅーくんが立ち去った後、あゆむ君は誰も居ない空間に向かって一礼したんだ。
思い出すと、何だか懐かしくなった。
ついこの間のことなのに、遥か遠い過去のように思えてしまう。
それだけ、濃密な時間を過ごして来たということだ。
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