(5)再生
「香織さん。君は心の底から将棋を好きなんだね。指しているとわかるよ」
「えへ、わかります? よく言われるんです」
「ああ。指していて気持ちの良い将棋だ。嫌味が無い。こんな爽やかな気分になったのは、久方振りだよ」
「ありがとうございます! 私、褒められると伸びるタイプなんで、宜しくお願いしますね」
準備は整った。そろそろ仕掛ける。
65歩を、突く!
「お、来たね」
嬉しそうに頬笑む男性。
必殺の仕掛けに対し、彼は冷静に銀を退いた。
矢倉の場合、角の位置が違うから、即角交換にはならない。
けど、予め玉を睨んでおけば、将来の桂跳ねの時に役に立つはずだ。
「飛車交換しましょう!」
「んー。ちょっと早いかな?」
「あー、逃げないでー!」
この人、強い。
そして、優しい。
私の将棋を、咎めようと思えば咎められるはずなのに。
やろうと思えば、何もさせずに完封することだって可能なはずなのに。
受け入れてくれる。温かく迎え入れてくれる。
私との対局を、心から楽しんでくれている。
彼の真心を感じ、胸が熱くなった。
ありがとう。
「君の将棋は荒削りだが、光るものがある。言わば原石。あらゆる可能性に満ちている。
羨ましいよ。君はまだまだ、如何様にも強くなれるのだから」
攻撃が来る。
優しいながらも、鋭い攻め。
受ける、けど、受けきれない!
受けたつもりが、弾き飛ばされる。
何これ。
受けが、受けになってない。
「正しく受けようとするな。受けきろうとするな。川の流れに逆らう者は、水の重さに足を取られる。持ち駒を悪戯に消耗し、窮地に追いやられるだけだ」
じゃあ、どうすれば良いのか。
弾かれながらも、考える。
受けきるのが無理なら。そうだ。
今こそ、攻めに転じる時だ。
高美濃の、桂馬を跳ねる。
矢倉の銀を避ければ、角の利きを通せる。
だから、彼は避けなかった。
桂馬で銀を取る。成桂の王手。
同桂に、歩を突き刺す。
彼は受けなかった。手抜いて、飛車先突破を図って来る。
私は構わず、と金を作って王手をかける。
今度は同金。
そこに、歩を叩き込んだ。
「叩きの歩。面白い」
男性は笑った。
その隣では、少年が目を輝かせている。可愛い。その期待に応えたい。
角を取られ、その上龍を作られる。
こちらはと金を作り、再度王手をかける。同金に、もう一度歩で叩く。
今度は金で取られた。
「さて、継続手はあるかな?」
残念、歩切れだ。
取られそうな飛車を逃がす。
ここまで気持ちよく攻めさせて貰ったけど、実の所何も考えてなかった。
ただ、魂の赴くままにポンポンポンと、リズム良く指してみただけなのだ。
当然継続手なんてものは無く、駒を使い切ってしまえば手は止まる。
「香織さん。君はどうして、将棋を指すのかね?」
その時、不意に尋ねられた。
まるで、この瞬間を見計らっていたかのような質問だった。
将棋を指す理由? そんなの、考えるまでも無い。
えーと……何だっけ?
元々は誰かのために始めた気がするけど、思い出せない。
「んー、そうですね。楽しいからかな?」
「楽しい? それは何故?」
「えっと。あれ、何でだっけ?」
考えるまでもないと思って、今まで考えて来なかった。
将棋を楽しいと感じる理由、か。
もしその問いに明確な答を出せたなら。何か、気づくことがあるのだろうか?
「私はね、香織さん。将棋の辛さを骨の髄まで思い知って、それでも将棋をやめることができなかったんだ。将棋指しに共通する、これは一種の『呪い』だよ」
呪い。
そこまで言わしめる将棋の魔力を、私は実感できていない。
恐らく、私はまだ、その領域まで到達できていないのだ。
将棋を辛いと思ったことなんて一度も無かったし、ただ流されるままに夢中で指して来たから。
「あまつさえ、息子に将棋を教えようとさえ思った。身勝手な親だよ。父親失格だ」
言われて、『息子さん』の方へ視線を移すと。
少年はきょとんとした表情で、私達を見つめていた。
突然自分のことを言われて、戸惑っているようだ。
「結果、拒絶された。彼の、あり得たかも知れない将棋人生。その第一歩を挫いてしまった。出遅れは大きく、彼の棋力は現在伸び悩んでいる。私の責任だ」
そんなこと無い、そう応えるのは無責任な気がした。
私には、男性の苦悩はわからない。
その代わりに、私は次の一手を指す。
攻めが切れた。なら、駒を補充する。
「──きっと、将棋が楽し過ぎたんですね」
「ふむ?」
「楽し過ぎて、やめられなかった。息子さんにも、その楽しさを経験して欲しかった」
駒を手に取り、しげしげと眺める。
この駒は捕虜だ。持ち駒として保管し、然るべき時が来れば、盤上に投入する。
その時、駒は再生するのだ。
「貴方は父親失格なんかじゃない。貴方の想いが今、息子さんの原動力になっているのだと、私は思います」
想いもまた、再生する。
次代へと、受け継がれていく。
「……そうか。ありがとう」
もう、十分だ。
そんな声が、聞こえた気がした。
私が打った駒を前に、男性の指し手が止まる。
「これは。良い手だね」
「自分でも会心の一手だと思ってます」
「はは。見事に私の心に突き刺さったよ。名残惜しいが、どうやら終局らしい」
微笑む男性の姿が、透き通っていく。
待って、まだ勝負はついてない。
声を掛ける間も無く、
「香織さん。修司を、宜しく頼みます」
その一言を残して、男性──お義父さんは、消えた。
周囲の景色も、瞬く間に変化する。縁側も、古民家も、将棋盤さえも消えてなくなり。
後には。白い世界と、少年だけが残された。
ここは、彼の心象世界。
ようやく理解した。
私がどうして、ここに来たのか。
そして、少年が何者なのか。
「しゅーくん、なのね?」
「うん。ぼくは園瀬修司。その、記憶の一欠片」
私の言葉に、彼は頷く。
やっぱりそうなんだ。ここは盤上に形成された、しゅーくんの想いの世界。
私は、彼の願いによって呼ばれた。
「彼の願いは叶った。だからこの世界は、役割を終えるんだ。
ありがとう、かおりん。ぼくの声に、応えてくれて」
「ふふ。妻として当然だよ。あなたのためなら、私はどこへだって行けるよ。何だってやれるよ」
「ぼくは彼の、一部分に過ぎないのに?」
透き通り始めた少年の身体を、そっと抱き締める。
「あなたはしゅーくん。私の大切な人だよ」
「ああ、そうか。君は、ぼくの全てを受け入れてくれるんだね。光も、闇も」
「ん。余す所無く、ね」
彼の頬を、一滴の涙が零れ落ちた。
私だって泣きたい。子供しゅーくんとお別れだなんて、辛過ぎる。
だけど。精一杯、笑っていようと思った。
『またね』
抱き締めていた感触が消える。
代わりに、繋いだ手の感覚が蘇った。
白い世界は、闇に変わる。
両目を閉じていたことに気付き、瞼を上げた。
そこは将棋大会会場。
しゅーくんと、香澄さんの姿が見える。
二人とも盤を睨み付け、私の様子には気づいていない。
一体、勝負はどうなったのだろう?
「負けました」
やがて口を開いたのは、香澄さんだった。
力無く首を垂れる。そこには光も闇も無く、ただ哀愁が漂っていた。
園瀬竜司という呪縛から解き放たれた今、彼は何を思うのだろう。
「ありがとうございました」
しゅーくんも頭を下げる。
顔を上げた時には、晴れ晴れとした表情を浮かべていた。
凄い。しゅーくん、勝ったんだ。
「かおりんも応援ありがとな。おかげで、何とか勝つことができた」
「お礼なんていいよ。妻として、当然のことをしたまでです」
「……最後の最後で、心が軽くなったんだ。多分きっと、かおりんが一緒に居てくれたからだと思う」
「私だけじゃない。お義父さんも、だよ」
私がそう応えると、しゅーくんは少し驚いた顔をした後で、
「そう、だな」
ふっ、と表情を和らげた。
彼の将棋には、お義父さんとの思い出が詰まっている。
何年経っても、根っこの部分は変わらない。
「修司君。僕の完敗だ」
盤面から顔を上げ、香澄さんがこちらを見つめて来た。
泣いている。
「僕は矢倉を極めたつもりでいた。相矢倉では園瀬流にもひけを取らないと、そう思い込んでいた。
だけど、今日対局してみてわかったよ。僕の矢倉は、未だに園瀬流の域を出ていなかったんだな。
ありがとう修司君。君と指せて、良かった」
「俺もだよ、香澄さん」
しゅーくんが、手を差し伸べる。
対局前、握手を求めてきた香澄さんを、しゅーくんは拒絶した。
その彼が、今度は自分から。
固い握手を交わす二人。
この一局を通して、お互いの事情を理解して、最後には認め合えた。
陰も陽も、棋力も関係ない。
皆、同じ将棋指しだ。
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