(2)今夜、君を抱きたい

 銀が上がり、桂馬が跳ねる。

 これまで何度も目にして来たオーソドックスな攻めだけど、それだけ咎めにくいということだ。


「研究が進んで、相矢倉は91手目まで定跡化されている。そこまで付いて来られるかい?」

「無理」


 即答するしゅーくん。

 無理とか言っちゃって、可愛いんだから。

 彼の言葉に、香澄さんは吹き出した。


「あはは、だよね。じゃあ、そろそろ定跡形から外れる頃合いかな?」


 しゅーくんは真剣な顔で、盤面を見つめている。


 良かった、もう怒ってないみたいだ。

 香澄さんの軽口も受け流せている。

 平常心、大切なのは平常心だよ、しゅーくん。


「外れるんじゃない、外すんだ」


 香澄さんの攻めを、真っ向から受け止める。


 矢倉は盤面全体で戦いが起こる。受けきるのは大変だ。

 大変なんだけど、それだけ反撃のチャンスも生まれ易い。

 相手は攻めるために自ら均衡を崩して来る。そこに隙が生まれる。


 しゅーくんは盤を乱し始める。

 より多くの好機を掴むために、そこかしこに罠を仕掛けていく。


「甘いな、修司君」


 それら全てを、香澄さんは涼しい顔で駆け抜けて行った。


 ばぢっ!


 閃光が爆ぜた。

 一筋、二筋、三筋。幾筋もの光が、香澄さんの指し手に合わせて、盤上を走り抜けていく。

 張り巡らされた罠を掻い潜る。

 その手が次の攻めに繋がり、最短経路で迫って来る。

 まるで稲妻のようだ。


「はっや!」


 感嘆の声を上げるゆかりちゃん。

 同感だ、並外れて攻めが速い。


 速い上に、多角的に攻めて来る。

 一点集中するタイプの攻め(例えば端攻め)なら比較的受け易いけど、香澄さんの攻めは盤全体に及んでいるのだ。

 しかも、そのどれもが致命傷となりうるレベル。受け流すことが許されない。

 受け続けるだけで消耗し、次第に陣形が縮小していく。


 盤面を広く深く読んでいる。

 この人、桁外れに強い。


 最初は姿勢を正していたしゅーくんが、だんだん前のめりになって来る。

 あ。これ、形勢が危ういと感じている時のサインだ。

 このままじゃ負けちゃう。


 そうだ、こんな時こそ応援を──!


「修司君。君のお父上の将棋は、こんなものじゃなかったよ。園瀬流を継承しているのなら、勿体ぶらずに見せて欲しいな」


 上げかけた声援を、香澄さんに遮られる。

 相変わらずキラキラオーラは絶やしていないが、その言葉には少し落胆の色が見られた。


 期待外れってことか。

 お義父さん、そんなに凄い人だったの?


「無い」

「……ん?」

「園瀬流、継承してない」


 額に汗を浮かべて、しゅーくんは応えた。

 消え入りそうな、小さな声で。


「え? どういうこと? 君、息子さんなんだよね?」


 驚きと困惑の声を上げる香澄さん。

 光の粒子が秋風に乗り、彼方へと飛んで行った。


「ああ。でも将棋を始めたの、最近で。親父が死ぬまで、ロクに指して来なかったんだ」

「なん、だって……?」


 しゅーくんの言葉に、香澄さんの態度が一変する。


「君は、あの園瀬竜司の将棋を絶やすつもりなのかい? そんなことが許されると、思っているのかい……?」


 わなわなと肩を震わせ、香澄さんは言って来る。

 さっきまでの爽やかな雰囲気はどこへやら。

 ──もしかして、怒っちゃった?


「絶やすつもりは無い。だが、まだ継承できていない」

「同じことだ!」


 あ、やっぱ怒ってる。

 物凄い形相で、両目からは大粒の涙を流し、悔しそうに机に拳を打ち付ける香澄さん。

 ああ、そんなに揺らしたら、駒が崩れちゃいますよー。


「あの矢倉は、人類の遺産に残すべき芸術作品だった。僕は心底惚れ込んだんだ。何度弟子にして欲しいと頼み込んだことか。だけど叶わなかった。竜司さんは僕に、何て言ったと思う?」


 弟子は取らない。

 園瀬の将棋は、息子にのみ継承させる。


 お義父さんはそう告げたらしい。

 ……多分、断る理由が他に見つからなかったんだろうな。


「それで、僕は身を引いたんだ。それなのに君は! よくも僕の夢を絶ってくれたな! 許さない、絶対に許さないぞ、園瀬修司──!」


 勝手に怒る香澄さん。理不尽だ。

 しゅーくんは、溜息を一つついた。


「そいつは悪かったな。お詫びの印に、あんたには違うものを見せてやるよ」

「……何だ?」

「名付けて園瀬流・弐式。俺の矢倉だ」


 その一言で、香澄さんの顔にヒビが入った気がした。

 ピシッと亀裂が走り、爽やか笑顔の仮面が崩れ落ちる。

 光無き今、闇が顕現する。


「お前はどこまで、僕を失望させれば気が済むんだ……!」


 怒りと憎しみの感情を露にする香澄さんに対し。

 しゅーくんは背筋を伸ばし、目を閉じた。


「一回戦で、俺は将棋を楽しむことを学んだ。

 香澄さん。あんたとの対局では、別のものを学べそうな気がするよ」

「何も得られるものか。潰れろ!」


 バギッ!


 香澄さんが叫びと共に打ち付けた駒が、嫌な音を立てた。


 ──割れた?

 真ん中から縦に裂け、各々が反対方向へと弾け飛ぶ。


「なっ……!」


 その片割れが、こちらに向かって飛んで来た!

 危ない! 咄嗟に身を屈めてやり過ごす。

 頭上を飛び越え、いずこへと飛び去る、さっきまで駒だったモノ。


 あー。

 びっくりしたなあ、もう。


「かおりん、大丈夫か!?」


 慌てて訊いて来るしゅーくんに、手を振って応える。


 あれ? そういえば、もう片割れはどこに?

 盤の向こう側に目を遣ると。


「ぬう。痛い」


 穴熊さんの眉間に、割れた駒がめり込んでいるのが見えた。


「我に手傷を負わせるとは小癪なり。相応の罰を与えてくれよう」


 彼は駒の欠片を抜き取り、ぐしゃりと握り潰す。


「はい、ストップー。駒を交換しますので、しばらくお待ち下さーい」


 巫女さんの一人が、駒箱を手に走ってきた。

 別の巫女さんが穴熊さんの手当てをしている。


 狐面さえ着けていなければ、微笑ましい光景なんだろうなあ。


 とにかく今がチャンスだ。

 私はいそいそと、しゅーくんの所に向かう。れっつ応援。


「やほー。大丈夫、疲れてない? はい、コーヒー」

「サンキュ。つっても、今一応対局中なんだけどな。ま、いいか」


 私が差し出した缶コーヒーを苦笑混じりに受け取り、一気に中身をあおるしゅーくん。

 それから、ふう、と息を吐いた。


「助かった。あのまま指し続けてたら、多分負けてたわ」

「やっぱり強い?」

「ああ。弾丸の雨を浴びせられている気分だった。序盤から心がへし折られそうだった」

「よく持ちこたえたね。えらいぞ」


 よしよしと頭を撫でると、しゅーくんは「やめてくれ」と笑い出す。


「まだ勝負は終わっちゃいない。気を引き締めていかないとな」

「……応援、要らない?」

「要る」


 即答だった。


「とはいえ、対局はすぐに再開される。ドカンと一発、どでかいのを頼む」


 え? 一体、何をしたら……?

 思う間も無く、抱き寄せられた。


「今夜、君を抱きたい」


 耳元で囁かれる。

 え……えええええっ!?


「──なんてな。そのカオが見たかった」


 ちゅ。頬にキスをされた。


 え、何? 今の、冗談てこと?

 一瞬期待してしまった自分を思い返し、耳まで熱くなる。


「ありがとうかおりん。これで戦える」


 私は戦えそうにないです。腰が抜けそう。


「ん、どうした?」

「ごめん、足に力が入らなくて」

「そうか。だったら」


 一緒に、戦ってくれ。

 そう言って、彼は微笑んだ。

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