第五章・対局中はお静かにⅡ──妻は黙って居られない──

(1)煌めきの純文学

 朝霧が立ち込める中、夫と二人で墓地を歩く。


 お義父さんは、変わらない様子で私達を待ってくれていた。

 少し汚れているけど、傷んではいない。

 そっと、表面を撫でた。冷たく固い、墓石の感触。

 だけど、何故か懐かしさを感じる。


 私は思い出していた。

 あの日、病室を訪れた時のことを。


 優しい人だった。


 初対面でガチガチに緊張していた私に、穏やかな口調で声を掛けてくれた。

 親子だからか、雰囲気がしゅーくんに似ていた。

 話している内に、緊張が解けてきて、自然と色んなことを喋っていた。

 私の一言一言に、うんうんと頷きを返してくれていた。


 死んでいい人じゃなかった。


 もっと話したかった。


 ううん。


 できれば、将棋を指したかった。


 そうすればもっと深く、お互いのことを理解し合うことができたのに。


 あの病室で、しゅーくんはお義父さんと将棋を指したのだと言う。

 それを聞いた時、驚くと同時に、羨ましいと思った。


 ああ。お義父さんの将棋、見てみたかったなあ。


 墓前に手を合わせる夫。

 彼は何を思い、今日ここにやって来たのだろう。


「……親父に、力をもらいに来たんだ」


 やがて、彼は顔を上げた。

 穏やかな笑顔だった。あの時のお義父さんにそっくり。


 不意に、視界が滲んだ。


「俺だけの力じゃ、今日の大会には勝てない。だから、貸してもらう。園瀬流を」


 園瀬流。

 お義父さん、園瀬竜司の矢倉。


 それは、独特にして堅実。洗練されているようで不器用。

 そして、澄み渡る青空のように、どこまでも広く、全てを包み込む。

 あの大森さんですら、打ち破ることはできなかったという。


「勿論、一朝一夕で身に付くものじゃないことはわかっている」


 たとえ今日の大会で真価を発揮できなくても良い。

 大会を通して、その片鱗でも見出だせたなら上等だと、空に向かってしゅーくんは告げた。


 朝霧が、晴れていく。


「親父は昇竜に成った。俺も追い付かないとな」


 涙を拭う。

 夫の表情は希望に満ちている。

 ならば、私だって泣いていられない。


「成れるよ。しゅーくんだって、きっと」


 園瀬の将棋は受け継がれる。

 きっと、この先も。ずっと。


 そっと、お腹をさすった。

 今はまだ、その息吹は聞こえないけれど。

 いつかは私も、その礎になりたい。


「そろそろ行こう、かおりん。大森さん達が待ってる」


 朝日に照らされる、墓地を後にした。



 そして、現在に至る。


 二回戦を前にして、広場には机と将棋盤が一つだけ残される。

 ここからは、一試合ずつ順番に行われるらしい。

 神様にじっくり観て欲しいからという理由らしいが、時間掛かって仕方ないような気がしないでもない。


 対局者以外は、机の周りにぐるりと円陣を築いて着席する。

 さて、どこに座ろうか。


「香織さん、こっちこっち」


 迷っていると、声を掛けられた。

 紫色の女の子。

 ゆかりちゃんだ。


「ここなら盤がよく見えますよ」

「ありがとう」


 確かに、横から見える位置だ。

 礼を言って、ゆかりちゃんの右側に着席する。


 対局者は既に駒を並べ始めている。

 一人はしゅーくん。もう一人は。


 キラキラと、光っていた。


 勿論、実際に発光している訳じゃない──と思う。


 白いシャツに白いスラックス、そして水色のスニーカーを身に付けた爽やか系のお兄さんは、ふわさっと茶髪をなびかせる。

 香澄翔さん。しゅーくんの言う、陽の気の使い手だ。


 軽やかな手付きで、香澄さんは駒を並べていく。

 リズムに乗っている。


「フンフン、君と指すの楽しみだなあ~フンフン、僕の矢倉を魅せてあげるよ~」

「やめろ。鬱陶しい」


 苦手なタイプなのか、しゅーくんは苛ついている。


 これはちょっと、まずいかな?


 将棋はメンタルの要素が大きい。平常心をいかに保つかが大切だ。

 感情的になると、盤面に集中できなくなる。


「つれないなあ。将棋は楽しまなくちゃダメだよー?」

「あんたに言われなくても、わかってるさ」

「あはは。その仏頂面、お父上にそっくりだねぇ」


 ──え?

 今、この人何て言った?


 しゅーくんも驚いたように顔を上げる。香澄さんは変わらず爽やかに笑っている。

 だけど、目が笑っていなかった。


「何で僕が君との対局を楽しみにしていたと思う?

君が、あの園瀬竜司の息子さんだからだよ」

「親父を……知っている、のか?」

「うん。昔に一度だけ、指したことがあるんだ」


 香澄さんは静かに応えて。


「さ、振り駒するよー」


 自陣から、五枚の歩を手に取った。

 その所作さえ、輝いている。


 光の粒子が放物線を描き、盤上に零れ落ちた。


 なんて美しい軌跡。思わず見惚れてしまう。

 ……いけない、私にはしゅーくんという旦那様が居るのに。


「はあー、綺麗ですね」


 うっとりと、ゆかりちゃんが呟く。

 振り駒をしただけで魅了される。

 香澄さんの将棋は、既に始まっているようだった。


 相手の陣に触れること無く、ピタッと止まる五枚の歩兵達。

 三枚が表を向き、残る二枚が『と金』に成っていた。

 その全てが、尖った頭をしゅーくんの方へ向けている。

 まるで対局者への敬意を払っているかのように。


 その様子を、しゅーくんは無言で見つめていた。


「僕が先手だね。さあ、始めようか」


 穏やかに、対局開始を告げる香澄さん。


「宜しくお願いします」


 二人同時に一礼する。


 香澄さんが駒を手に取る。

 鮮やかな手付きで、予告通り矢倉に組んでいく。


 対するしゅーくんもまた、矢倉。

 後手番は先手の様子を見ながら組むため、少しやりにくそうな印象を受ける。


 やがて、互いに組み上がる。


 同じ囲い、のはずなのに。


 どうしてか、香澄さんの矢倉は光り輝いて見えた。

 まるで夜の空を彩る星座のように、 駒達が美しく連結されている。


 それに比べると、しゅーくんの矢倉は、いささか精彩を欠いているように見えた。

 荒削りで、不格好で。お世辞にも美しいとは言えない。


 でも。私はそんな、彼の矢倉が好きだ。


「矢倉は完成された囲い。だから世間では、『矢倉は終わった』なんて言われることもある。

 でも僕は好きだな。矢倉以外の囲いなんて考えられない。君もそうだろ、修司君」

「──ああ。その点については同感だ」

「嬉しいよ。君と指せて」


 微笑みを浮かべて、香澄さんは駒を進める。

 遂に仕掛けて来る。

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