(5)夢は浮気に入りますか?
それは現か幻か。
盤を挟んだ向こう側に居るのは、しゅーくんだったはずなのに。
いつの間にか、別の誰かと指していた。
その人の指し手は力強く、大胆で、それでいて緻密に計算し尽くされたものだった。
私の四間飛車が、まるで意味を為さない。透過される。踏みにじられる。容易く突破される。
縦横無尽に、飛車角が暴れ回る。
止めようにも軌跡を掴めない。一体何が狙いなのか、全く読めない。
疾風怒濤の攻めを受けきるには、私はあまりに経験不足だった。
伏竜はやがて、昇竜と成る。
美濃囲いが、最短手数で崩された。
寄せられる。詰まされる。
なすすべもなく敗北する。
一方的に。
負けました。
口に出そうとして、喋れないことに気づく。
負けたのに、敗北を認められない。
つまり対局が終わらない。
そんな。
盤を見ると、全ての駒が初期配置に戻っていた。
もう一度指そうと言うのか。
どうせ一方的に潰されるだけなのに。
首を横に振る。
が、構わず相手は初手を指して来た。
仕方なく指す。
負けた。
もう一度。負けた。
何度やっても歯が立たない。
けれど、投了が許可されない。地獄だ。どうやら私は、知らない内に将棋地獄に堕とされてしまっていたらしい。
もう一度。やはり負けたが、一つ気づいたことがあった。
理由も無く負けているんじゃない。私の指し手が悪いんだ。
対局の条件は同じ、チートは無い。
つまり、理不尽な敗北ではない。
悪手を指すから、咎められるんだ。
悪手を無くす。疑問手も無くす。
相手は誘って来るけど、決して誘いに乗るな。
相手の手を無理に読もうとしなくて良い。できないことはやらない。
それよりも、自分にできる、最善を想像しろ。
大丈夫、これは夢だ。
なら、普段はできないこともできるはず。
何、失敗したって良い。
どうせ何回でもやり直せる。
こうなったら、この状況をとことん利用してやる。
「地獄の底まで、付き合ってもらうわよ」
部屋の中は暗く、対局相手の顔は見えない。
ただ、将棋盤だけが明るく照らされていた。
最善手を指すと言っても、簡単なことではない。何しろ何が最善なのか、正解がわからないのだから。
でも、色々試してみることはできる。
歩を突くタイミング一つで、全く違う将棋になる。
気づくと、だんだん面白くなってきた。
同じ負けるでも、試して負けるのは苦ではない。
まるでパズルゲームのようだ。
経験不足なら、経験を積めば良いだけのこと。
知識不足なら、知れば良いだけのことだ。
無限の時間を利用する。
同時に、最後まで諦めないことの大切さも学ぶ。足掻いた一手は決して無駄ではない。結果として敗北しても、そこに至るまでの思考に価値があると気づいた。
大体にして私はいつも、投了するのが早すぎた。
疾風怒濤の攻めが、徐々にではあるが、緩やかな流れに変わって来た。緩手はチャンス。今こそ攻めに転じる時。だが、どこを攻めるべきか。
考えろ。ここで間違えたら元も子も無い。
流れに無理に逆らうよりも、流れに乗って進む方が効率的だ。
相手の攻めの起点を潰し、そこを乗っ取り拠点へと変える。
そうして見えた、突破口。
私にできる、たった一つの冴えたやり方。
一瞬でも見えたなら攻めろ、徹底的にそこを突け。
己の直感を信じろ。
自分自身を信じられない者に、決して勝利は訪れない。
勝ち切るイメージを夢想する。
鉄壁の守りを力ずくで崩すのではなく、綻びを見つけて掘り進んでいくんだ。
勝てる。勝ちたい。
勝ってこの夢を終わらせる。
孔(あな)を穿つ。
遂に限界を突破する。
相手玉は間近に在った。七色に光り輝いて見える。『玉』とは即ち宝石。
それを手に入れるために、ここまで苦労してやって来たのだ。
そっと優しく、包み込むように。
私は、それを手に取った。
世界に、光が満ちた。
光の世界で、私達は対峙する。
銀髪の青年が、透き通るような羽衣を身に纏っている。
その蒼い瞳はまるで大海のように広く深く、私の心を映し出していた。
不覚にも、一瞬くらっとする。
私としたことが、しゅーくん以外の男性に惹かれるなんて。
そんなこと、絶対に無いと思っていたのに。
姿形は別物でも、どことなく雰囲気が彼に似ていた。
貴方は誰?
そう訊きたい気持ちを抑えて、
「ありがとうございました」
感謝の気持ちを口にする。
将棋指しなら、対局後に当たり前のように言うその口癖を、私は万感の想いを込めて告げた。
ありがとう。
貴方と指したおかげで私、大切なことに気付けた気がする。
青年が、わずかに笑ったように見えた。
一陣の突風が吹いた。
彼の身体が、軽々と巻き上げられる。
光を連れて、どこかに飛んで行こうとしている。
私は咄嗟に手を伸ばした。
だけどその手は届かない。瞬く間に離れていく。
見つめ合ったまま、私達は暗闇に引き離された。
涙が一筋、頬を伝って流れ落ちた。
彼とは初対面で、ただ将棋を指しただけ。
なのに、私は泣いていた。
濃密な時間だった。
永遠を感じる暇(いとま)も無い程に、立て続けに指したから。
私は彼と、同じ時間を共有したんだ。
尋ねる必要は無かった。私には、彼の正体がわかっていた。
全ては、棋譜に刻み込まれている。
伏竜は天を仰いだ。
その瞳にはきっと、満天の星空が映ったことだろう。
目を覚ますと、そこはベッドの中だった。
しゅーくんが隣で、静かに寝息を立てている。
そうか、やはり夢だったんだ。
夜になるまで対局し続けたものだから、そのまま眠ってしまったんだ。
ベッドには、恐らくしゅーくんが運んでくれたのだろう。
ありがとう。彼の頬にキスをする。
素敵な夢だった。
夢ではあったけど、確かに得たものがあった。
心が温かくなった。
指先には『玉』を包み込んだ感触が残っている。
ありがたい。
これで私は、戦うことができる。
棋書を読んでもわからなかった。
戦法の解説はされていても、『将棋の指し方』は書かれていなかったから。
本の内容をなぞることしかできなかった。
大局観を養うことが大事なのだと、強い人は言う。
だけど私のような初級者には、そんな漠然とした単語をただ口にされても、理解できないのだ。
理解しようにも、将棋盤の中には深海のような世界が広がっていて、全容を把握できる訳が無かった。
気づきが必要だった。
自分が、何を間違えていたのか。
悪手を知ることが、最善手へと繋がる。
それは感想戦を通して理解していたつもりだったけど、もっと深く掘り下げる必要があったのだ。
悪手を減らせば、それだけで勝利が近づく。
強い人との差は、本質的にはその程度のものだ。
悪手を好手に変えていく。
地道に試行錯誤を繰り返し、改善していく。
一手一手に込められた意味を、今一度見つめ直す。
棋譜とは一つの連続した物語だ。
一手の改善が、終局へと繋がる。
全てを最善手へと改善できた時に初めて、大局観を得た、と言えるのではないだろうか。
ふう。息を吐く。
人生だって同じだ。一つの連続した物語。
私は未だその中盤で、最善手を模索中。
私もいつか、人生の大局観を得ることができるだろうか。
その時、しゅーくんが傍に居てくれたら、最高に嬉しい。
できれば、彼との子供も欲しい。私は一人っ子だから、沢山兄弟を作ってあげたい。
それには家も必要だ。ローンを払うのは大変だけど、二人で働けば何とかなるかな。
終局図を思い描いていく。
考えるだけなら自由だ。
私にはまだまだ時間がある。
きっと思い通りにいかないことも多いだろうけど、それもまた人生だ。
咎められたら、別の手を考えれば良い。
人生も将棋も、楽しまなきゃ、ね。
知らず、笑みが零れる。
まずは明日を、精一杯頑張ろう。
それが必ず、次の一手に繋がると信じて。
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