第三章・千里の愛も一手から

(1)王子様は突然に

 人生における一大イベントを結婚式とするならば。

 その前座的な前撮りもまた、相応の覚悟で臨むべきものである。


 ──と、私は今になって思う。


 ウェディングドレスのファスナーが、上がらない。


「あんた、太った?」


 見守る母さんの、遠慮の無い一言が突き刺さる。

 もう、少しは手伝ってよ!


「一週間前に試着した時は入ったもん! ぎりぎり」


 ドレスというのはどうしてこうも、腰回りが細く設計されているのだろう。

 悪戦苦闘しながら、私はこの一週間を回想する。


 あー、将棋しかしてないや。


 一局指すとお腹が空いて、その度にお菓子を食べていた気がする。そりゃ太るか……。


 だって脳が糖分を欲しているんだもん、しょうがないじゃん。

 だって大会間際なんだから、将棋の練習しないと駄目じゃん。


 言い訳をぐっと飲み込み、私は深呼吸する。

 息を吐ききったところでお腹を引っ込め、一気にファスナーを上げた。


「──ぷはぁ!」


 こ、これは苦しい。

 何とか着られたけど、色々と限界だ。


 顔を上げると、ニヤニヤ笑みを浮かべている母と目が合った。

 スマホがこちらに向けて掲げられている。


「今の面白かったから動画録っちゃった。お父さんに送ってやろー」

「ちょっ! やめてよ!?」


 慌てて制止する私。

 父にこんな姿を見られたら、何て言われることか。

 想像しただけで恐ろしい。


「冗談よ。私まで怒られちゃう」


 そう応えて、母さんは肩を竦めた。

 お、わかって来たじゃん。


「胸を張ってしゃんとしなさい。あんたの晴れ姿、お婆ちゃんに送ってあげるから」

「……うん」

「それに、修司さんもね」


 母はそう言って、視線を更衣室の外に向ける。

 そうだ、しゅーくんが待ってる。



 前撮りの場所は、教会にしようと思っていた。


 ウェディングドレスはどうしても着たかったし、しゅーくんのタキシード姿も見てみたかった。

 でも式を神社で、披露宴を道場でするとなると、流石に和装でないとおかしい。

 ならせめて、ドレスの似合う場所で写真を撮ってもらいたかったのだ。


 町外れの教会は、大森さんが紹介してくれた。

 古いが、綺麗な建物だ。


 カトリック系というから、信徒でなければ撮影させてもらえないのかと思っていたが、そんなことは無く、神父様は快く私達を迎え入れてくれた。

 恐らく大森さんの口利きというのも大きかったのだろう。

 ホント、顔が広いわあの方。


 更衣室を出て、チャペルへと向かう。


 ドレスの裾を踏んでしまいそうになるから気を付けないと。

 ヒールだって普段履き慣れてないから歩きにくい。

 それでもしゅーくんが待っていてくれると思うと、然して苦には感じなかった。


 色とりどりのステンドグラスから、柔らかな日の光が差し込んでいる。


 赤いヴァージンロードを歩く。

 これが式なら、父さんと一緒に歩く訳か。それはちょっと、緊張するなあ。


 母さんは私の少し後ろを、珍しく神妙な面持ちで黙ってついて来ている。

 何か思う所でもあるのだろうか。


 やがて、彼方に礼拝堂が見えて来た。

 誰かがこちらに向かって手を振っている。


 あれは。

 ──白馬の、王子様?


 物語に出て来る王子様は何故か決まって、白馬に乗って颯爽と現れる。

 でも今、私の目の前に居る彼は、馬に乗る必要も無く凛々しくて格好良かった。

 どんな王子様だって、彼の前では霞んでしまう。


 白銀のタキシードを身に纏った園瀬修司は、直視できない程に眩しく、私の目に映った。 凄い、キラキラしてる。


 うわやばい、これは思った以上の破壊力。


「おーい、かおりん」


 私の名前を呼ばないで。

 今呼ばれたら私、とろとろに溶けてなくなってしまいそう。全身の血が沸騰している。熱い。溶けるのか燃えるのかもう全く何もかもわからなくなる。

 思考回路がショート寸前だ。

 へなへなと、力なく崩れ落ちる。


 私の様子がおかしいことに気付いたのか、しゅーくんが駆け寄って来る。


 ああそんな、近づかないで。

 駄目よあなた、このままじゃ、私が私で居られなくなる。


「どうした? 顔真っ赤だぞ。熱があるんじゃないか?」


 助け起こされ、額と額がくっついた。

 超至近距離! こ、こここここ、これはもう。


 彼の息遣いを感じる。

 走って来たから少し乱れている。私のために、私を心配してくれて。

 彼の視線を感じる。

 鋭いけど、優しい瞳。ああ、もっと私を見て。やっぱり駄目、今は見ないで。

 彼の体温を感じる。

 一体誰のせいで、熱が出たと思ってるの?


 ぷしゅー。

 脳がオーバーヒートを起こす。


 綺麗だよ。可愛いよ。

 好きだよ。愛しているよ。


 頭の中が彼の言葉で一杯になる。

 ああもう私、このまま死んでも良いや。


 そう、心から思っていた、のに。


「香織! しっかりしろ!」


 頬を叩かれ、我に返らされた。

 痛みと悲しみで、涙が出そうになる。


「……しゅーくん?」

「大丈夫か?」

「大丈夫、だけど」

「どうした?」

「立てない」


 足に力が入らない。

 正直に私が応えると、しゅーくんは「わかった」と頷いて。

 ひょい、と。

 軽々と、私の体を抱え上げた。


「え? しゅーくん?」

「このまま行くぞ」


 ヴァージンロードを、お姫様抱っこされて進んで行くなんて。

 良いのか、これ?


 見上げる彼の顔は、いつもより更に頼もしく見えた。


 一生あなたについていきます。


 胸中で呟く。

 メルトダウンしかけていた私の心は、何とか冷静さを取り戻していた。ドキドキは止まらないけど。

 だってウェディングドレスでお姫様抱っこだよ?

 あまりにも出来すぎていて、信じられなかった。


 キス、したいな。


 思ったけど、恥ずかしくてとても口にはできない。

 その代わりに、


「ねえ、あなた。終わったら、私と将棋指してくれる?」


 と尋ねていた。


「勿論だ」


 即答するしゅーくん。

 なんて優しい笑顔。


 将棋は今や私達にとって、スキンシップ以上に互いを繋げるものとなっていた。


 しゅーくんの了解を得たことが嬉しくて、私は彼に抱きついた。


 やった。これでもっと、彼と繋がることができる。

 それは私にとって、至福の一時だ。


「まあこの子ったら、こんな時まで将棋、将棋。修司さん、ごめんなさいね。重いでしょう?」


 ……隣に母さんさえ居なければ、最高なのになあ。


「いえ、全然重たくないですよ。それに俺、香織さんと将棋指すの、楽しいんです」


 笑って応えるしゅーくんは、世界一の旦那様だった。

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