(5)夜明け
翌朝。
俺が将棋を指したいと言うと、香織は一瞬きょとんとした。
「将棋って、あの日曜日にテレビでやってる奴でしょ? しゅーくん、テレビに出るの?」
「違う違う。道場で指すんだよ。近所にあるから、行ってみたいんだ。駄目か?」
「ふぅん。いいけど、なるべく早く帰って来てね?」
わかったと約束する。
元より長居するつもりは無かった。
俺には将棋よりも、妻との時間の方が大切だ。
伏竜将棋道場には、並木道をしばらく歩くと辿り着くことができた。
想像していた道場とは大分違う。時代劇に出てくる武家屋敷のようだ。
これは、入るのに勇気が要る。
深呼吸。
看板を前に、覚悟を決める。
呼び鈴を鳴らす。
すると数秒程経って、引き戸が開いた。
「いらっしゃいませ」
小柄な老人が顔を出す。
人の良さそうな笑顔を浮かべた、お爺さんだった。
「初めての方ですね。席主の大森と申します。どうか、以後お見知りおきを」
「園瀬です。宜しくお願いします」
大森さんに釣られて、俺も名乗る。
すると大森さんは目を丸くして、
「園瀬? もしや、園瀬竜司さんの息子さんですか?」
などと訊いて来た。
園瀬竜司(そのせ りゅうじ)。
それは紛れもなく、俺の親父の名前だ。
俺が頷くと、大森さんは「どうりで、面影がある訳です」と感慨深そうに応えた。
「親父を知っているんですか?」
「この近辺で、園瀬さんを知らない将棋指しは居ませんよ。そうですか、息子さんがいらっしゃったんですなあ。ささ、どうぞお入り下さい」
どうやら俺が思っていた以上に、親父は有名人だったらしい。
内心驚きながらも、大森さんに促されて道場に上がる。
午前中の室内には、対局者は3組しか居なかった。
大森さんと同じくらいのお年寄りばかり。少し緊張する。
「肩の力を抜いて下さい。一局指す前に、お話をしましょう」
そう言って、温かいお茶を出された。
ありがたく頂戴する。
「園瀬さんとは、大会で何度かお会いしたことがあります。強い方でした。そして、将棋に対して真摯に取り組んでおられる方でした」
「大森さんは、父と対局したことがあるのですか?」
俺の質問に、大森さんは「一度だけ」と頷いた。
「気持ちの良い一局でした。今でも覚えていますよ」
「失礼ですが、どちらが勝ったんですか?」
「園瀬さんですよ。矢倉であそこまで完敗したのは、園瀬さんが最初で最後です。実に見事でした」
大森さんは懐かしそうに言って、笑った。
「そうなんですか」
俺もつい、笑ってしまった。
失礼だと思ったが、笑いが止まらなかった。
嬉しかった。
そうか。親父は強かったんだ。
頑張ったんだな。凄いな。
だったら俺は、もっと頑張らないとな。
親父のようには指せないけど、目指す場所は同じなんだから。
高みへ、更なる高みへと。
「矢倉といっても、園瀬さんのはどこか人とは違うんです。
園瀬流、とでも言いましょうか。独特な指し回しをする方でした」
園瀬流、か。
何だかこそばゆい響きだ。
誇らしい気持ちで胸が一杯になっていた。
親父のように、俺も強くなれるだろうか。
その域に到達するのに、何年かかるかわからないが。
それでも、やってみようと思った。
「大森さん。一局お願いします」
「わかりました。年老いた私で良ければ、喜んでお相手致しましょう。
──園瀬さんの息子さんである貴方なら、もしかしたら」
「どうしました?」
「い、いえ。何でもありません」
言い掛けた言葉を飲み込み、大森さんは頭を下げる。
それに合わせて、俺も一礼する。
対局はいつも、その一言から始まる。
「宜しくお願いします」
戦型は決まっている。矢倉だ。
俺にとって唯一無二の理想形。
俺の意図を、大森さんは理解してくれた。定跡通りに、24手が組まれる。
今は勝てなくても良い。
いつか必ず、追い越してみせる。
約束する。
だから。
どうか、それまで。
見守っていてくれ。
父さん。
第零章・完
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