(2)ウェディング対局
永遠に続くかと思われた時間は、すぐに終わった。
チャペルに到着する。
「大丈夫ですか?」
待っていたカメラマンが心配そうに訊いてきた。
私は笑顔で頷く。
にやけたままで、しゅーくんの腕から解放される。
随分久し振りに、自分の足で大地に立った気がした。
私達を待っていてくれたのは、年配のカメラマンと、その助手の女の人。
それから、もう一人。
「……馬子にも衣装」
ぼそっと呟かれたその言葉を、私は聞き逃さなかった。
く。負けるもんか。
遠くを見つめたまま、その女性は言ってきた。小さな声だったから、きっと他の皆には聞こえてない。私だって、できれば聞きたくなかった。
お義母さん。
もしかしなくても私のこと、嫌いですか?
ま、まあ。今の一言のおかげで、頭の中がスッキリしたから良しとしよう。
気持ちを切り替える。
すぐに撮影準備に入る。
その間母はお義母さんと何やら話し込んでいた。
もとい。一方的に喋って、一人で爆笑していた。
私としゅーくんはというと、カメラマンに言われるがままにポーズの練習をしたり、撮影場所の確認をしたりしていた。
「笑顔でお願いしますね」
そう言われると逆に緊張する。
だって、しゅーくんと手を繋ぐだけでも胸の鼓動が高まるんだよ?
それ以上のコトをしながら、しかも撮影されながら笑顔を見せることなんて。私には到底無理。
今日のしゅーくん、めっちゃカッコいいし。直視するのも憚られる。こういうのを尊い、っていうんだろうな。
悩む。
笑顔が遠退いていく。
「ねぇどうしよう。私、無理かも」
小声でしゅーくんに耳打ちする。
すると彼は、ぱちんと指を鳴らした。
「例のモノ、お願いします」
彼の言葉に、助手の女性が頷き、何やら鞄から取り出した。
──え?
これって。
滅茶苦茶見覚えあるんだけど、何でここに?
それは、折り畳み式の将棋盤だった。
毎日使っている、手垢の付いたものだ。
「プランBに変更。やっぱり俺達にはこれが必要だよな」
礼拝堂に、机と椅子が用意される。
目を丸くする私をよそに、しゅーくんは盤上に駒を並べ始めた。
「終わったら、じゃなく。今指そう、かおりん」
「えっ!? ……いいの?」
ちらっと母達の方を見る。
母も私と同様、ポカンと口を開けていた。その口を手で塞ぎ、お義母さんが何やら耳打ちする。
すると合点がいったのか、母はOKサインを出して来た。
いや、私には何のことかさっぱりわからないんだけど。
「実は内緒で相談してたんだ。自然な笑顔を引き出すには、将棋を指すのが一番だって」
少し得意げに説明して来るしゅーくん。
あ、今の表情、レア物かも。心のアルバムに綴じておこう。
それはともかく。要はサプライズで企画されてたってことか。多分発案者はしゅーくんではないな?
カメラマンから緊張をほぐす要素を入れたいと提案されて、じゃあ将棋を指そうと答えたって所か。
「でも、ウェディングドレス着て将棋指すのってシュールじゃない? 聞いたこと無いんだけど」
「だからこそ、個性的で良いと思いますよ。ご主人は貴女のことをよく理解されているようです」
私の言葉に、今度はカメラマンのおっちゃんが応える。
うーん、そうなのかな?
確かにちょっと、面白そうだけど。
でも、出来上がった写真を父が見たら。と少しだけ考える。
やっぱり怒るだろうか。
「俺はかおりんと指したい。駄目か?」
ああそんな、上目遣いで見られたら。
断れる訳、ないじゃない。
父さんに何か言われたら、母さんのせいにしよう。
しゅーくんの対面に座る。
こうなったら、やってやる。
磔になったキリスト像に見下ろされながら。
母とお義母さんに見守られながら。
写真をバシャバシャ撮られながら。
窮屈なウェディングドレスを着て指す将棋は、普段とは全く異なる内容に──ならなかった。
盤上だけは、いつも通り。
私と彼の、二人だけ。
自然と、頬が緩んでいた。
やっぱり、楽しいな。
大会に向けて練習していた四間飛車を試す。
しゅーくんは相変わらず居飛車だけど、矢倉には組まない。
振り飛車相手だと横からの攻め合いになり易い。矢倉は縦の攻めには強いけど、横からは滅法弱い。だから舟囲いにしといて、稼いだ手数で攻めて来る。急戦て言うんだって。
かもん、しゅーくん。
美濃囲いは優秀な囲いだ。
駒を捌ければ十分勝てると、大森さんは言っていた。
『さばく』とは一体どういうことか、最初はわからなかったけど。大森さんは丁寧に教えてくれた。
「自陣の左辺と、相手陣の右辺の駒を全て取っ払ってみて下さい。すると囲いだけが残ります。これが、理想的な捌きです」
つまり、お互いが全く同じ数の持ち駒を手にしたなら、純粋な囲いの差が活きて来る。
勿論美濃囲いにも弱点はあって、崩し方はあるんだけど。
舟囲いの方が余程脆弱なため、先に潰すことができる。
なるほど、捌く意味はわかった。
問題は、いかにして捌くかだ。
歩だよね。
あの歩を突くんだよね。
一旦閉じた角道を開けるのと、飛車先を突くのを同時に行う、一挙両得の一手。65歩。
上手く決まれば、それだけで優勢を築くことができる。
間違えれば、駒を捌けず、相手に飛車先を突破されてしまう。
歩を突くタイミングの見極めが重要だった。
まだ早いか?
いや、そろそろか?
胸が高鳴る。
「しゅーくん、そろそろ良いかなー?」
「対局相手に聞くか、普通?」
振り飛車を指す上で重要なのは、柔軟性だ。
相手が角頭を攻めて来たら、銀で受ける。
四間飛車と言っても、ずっと左から四番目の筋に居て良い訳ではない。
相手の攻めに応じて、三番目、二番目の筋にも移動させる。
それでもやっぱり、決め手となるのは65歩の突き出しだ。
角交換し、飛車交換に持ち込む。
そこで大事なのは、相手の銀を進出させないことらしい。
銀で飛車角を抑え込まれたら、捌くどころではなくなってしまう、とのことだ。
「ふふ。それじゃ、いくよっ」
カウンターを決める。
イメージを、描く。
「ありがとうございました!」
二人同時に頭を下げる。
あー、楽しかった。
対局後はへろへろになるけど、充実感で一杯になる。
今日もしゅーくんと同じ時間を共有できた。大満足。
同じ盤面に向き合い、真剣にお互いのことを想い合うことができた。
こんな幸福、他では得られないと思う。
私にとって、将棋の勝ち負けは二の次だ。楽しめればそれで良いと思っている。
でも、しゅーくんにとっては重要なのだろう。
対局が終わってもなお、盤を睨んでいる。勝ったのに、不満なんだろうか?
「お疲れ様でした! いやあ、おかげで素晴らしい写真が撮れましたよ」
カメラマンは満面の笑みを浮かべている。
「お世話になりました」
少し照れ臭くなって、私も笑う。
母は椅子に寄りかかって寝ていた。
お義母さんは相変わらず、虚空を見つめている。
助手さんは「あ! ヴェールとブーケ忘れてた!」と慌てて取りに走った。
そんな中で、しゅーくんは黙って駒を動かしていた。
あれ? 撮影のこと、忘れてる?
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