(4)愛を取り戻せ

 結局私は、追わなかった。


 妻として、夫に寄り添いたい気持ちは勿論ある。

 けど、それを彼が望んでいるとは思えなかった。


 あんな憔悴した姿を見るのは初めてだった。

 それだけ真剣に、この一局と向き合っていたということなのだろう。


 羨ましかった。

 私には、そこまで打ち込めるものは無いから。


「ありがとうございました」


 彼が座っていた場所に向かって、少女は一礼する。


「ありがとうございました」


 そこに座って、彼の代わりにお礼を言った。

 彼女は少し、驚いたようだった。


「お疲れのところ悪いんだけど。私とも一局、指していただけないかしら?」

「……え?」


 私の言葉に、目を丸くする彼女。


 彼女と指してみたかった。

 そうすれば、彼の悔しさの万分の一でも味わうことができると思った。


「でも」


 困った顔で少女は大森さんの方を見上げる。


「この方は貴女方の将棋を見て、感じ入る所があるらしい。

 私からもお願いします。どうか、指してあげて下さい」


 大森さんは、微笑んでいた。

 はぁ、とため息をつく彼女。


「わかりました。でも時間がありません。一手10秒で指します」


 何だかよくわからないけどOK。

 良かった、指してくれるようだ。


「ありがとう」


 礼を言って、駒を並べ始める。

 並べ方は知っている。確か大橋流とかいう奴だ。


「あの。お姉さんの棋力は何級ですか?」


 並べながら、ふとそんなことを尋ねられた。


「ん? 10級だけど?」

「じゅっ、きゅう……?」


 彼女の手が止まる。

 何? 10級に問題でもあるのか?


「この方は今日初めて将棋を指すそうです」


 横から大森さんがフォローしてくれた。


「初めて……」


 少し考えて。

 彼女は、並べかけていた駒を片付け始めた。


「ちょっと、指してくれるんじゃなかったの?」

「ええ。指しますが、お姉さん相手には駒が多すぎます。十枚落ちで指します」


 そう言って、彼女の陣地には横一列に並んだ歩と、玉だけが残る。


 え、何これ?


「さあどうぞ」

「ちょっと、何それ! 私はさっきの人と同じ条件で指したかったのに!」


 私が抗議の声を上げると、彼女は冷ややかな目を向けて応える。


「棋力が違う時点で、同じ条件が成立するはずが無い。平手で指したって貴女には何もわからないし、やるだけ無意味です。

それに、私には時間がありません。駒が少ない分、悩まなくて済むでしょう? 貴女が」

「くっ……!」


 言い返せない。

 だって、何も知らないから。


「りんちゃん。あまり入門者を苛めないで下さい。

 最初は皆知らないのです。それが当たり前なのですから」


 その時、大森さんが横から助け舟を出してくれた。

 ありがたかった。


 りんちゃん、それが彼女の名前か。

 制服の胸には『鬼籠野』と書かれている。おにかごや?


 鬼籠野りん、か。

 強そうな名前だなあ。


 りんちゃんは不満そうに鼻を鳴らすも、それ以上は何も言わなかった。


 私も十枚落ちに文句を言える立場では無いと思い直す。

 確かに、彼女にとっては何の得にもならない勝負だろう。指してもらえるだけでもありがたいのだ。


「宜しくお願いします」


 駒を並べ終わると、早速彼女は歩を突き出して来た。

 駒を落とす側が先手になるんです、と大森さんが教えてくれた。なるほど。


 さて、記念すべき一手目。どうしようかな?


 夫の言葉を思い出す。

 そうだ、飛車先の歩を突け、だ。


 ばちん!


 気合を込めて、歩を叩き付ける。

 衝撃が指先から腕、身体へと伝わり、びりっと痺れた。

 ちょっとやり過ぎたかもしれない。


 対するりんちゃんは別の歩を突いて来た。

 ジグザグになるように。


 私は構わず飛車先の歩を突いて行く。

 猪突猛進、玉一枚で止められるものなら止めてみろ。


 またジグザグ。

 さては、他にすることが無いんだな?


 だったら遠慮なく、ぶつけちゃうぞ!

 飛車先の歩を、ぶつける!


 人生初の、歩交換だ!


 独りテンションが上がる私をよそに、りんちゃんは冷静に歩を取った。

 同飛と走る。よっしゃ、これで飛車成りが確定した!


 人生初の、成り駒誕生の瞬間である。

 しかも龍だ、勝ったも同然じゃない、これ?

 後はまあ、王手を掛け続ければ詰みそうな気がする。


 そういう訳で、龍に成りつつ王手をかける。


 玉が上がった。

 逃がすものか、更に王手。

 もう一つ上がった。

 あ、王手できない。


 なら歩を取りながら迫っていくぞ。形勢はどう考えても私が優勢、負ける訳ないじゃん。

 歩一枚を挟んで玉を睨む龍。知ってるよこれ、『一間龍(いっけんりゅう)』って言うんでしょ? 必勝形じゃん。


 ──って、あれ?

 ここから、どうするんだっけ?


 大森さんの顔を見ると、首を横に振られた。

 流石に教えてはくれないか。


 あ、いつの間にか角の頭に歩を打たれている。

 あ、角道開けるの、忘れてた。

 あ、角、取られちゃった……。


 その後の展開は、よく覚えていない。

 両取りとか王手飛車とか色々された気がするが、頭の中が真っ白になっていた。


 我に返った時には、綺麗に詰まされた後だった。


「……負けました」


 私が力なく首を垂れると、りんちゃんもお辞儀をした。

 何だかんだでこの娘、礼儀正しいよね。


「ありがとうございました。

 って、ああ! 塾に遅れちゃう!」


 慌てて立ち上がる彼女を、ぼうっとした頭で見送る。

 全身、脱力状態だった。


「お疲れ様でした。どうでしたか、初めての将棋は?」


 にこにこと朗らかに笑って、大森さんは声を掛けて来た。

 私はパタパタと手を振りながら、


「いやー、刺激的な体験でした。楽しかったけど、疲れましたぁ」


 正直な感想を口にした。うん、しんどい。

 ごめんしゅーくん、肉じゃが作る元気無いかも。


「それは何より。それだけ頭を使ったということです。

 できればこれからも、将棋を続けて下さい。席主として、一人の将棋指しとして、いつでも貴女をお待ちしております」

「ありがとうございます。前向きに検討します。

 あ、そうだ。まだお金払ってなかったですよね? おいくらですか?」

「いや、お代は結構です。今日は体験入門ですから。

 それに、面白い将棋を見させてもらいましたしね。入門者の将棋で一間龍が見られるとは思いませんでした。こちらこそ、良い刺激になりました」


 本気かどうかはわからないが、大森さんは笑ってそう応えた。



 伏竜将棋道場を後にする。

 外では、彼が待っていた。

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