(3)失神する程かっこいい

 可愛いのは認める。正直お似合いだとも思う。

 けど、その人は私の夫なんだ。彼は私を結婚相手として選んでくれたんだ。

 本当なら、彼と向かい合うのは貴女じゃなくて、私なんだ。


 私の視線に気づいたのか、少女と目が合った。

 不思議そうに小首を傾げている。何よ、そんなに面白い顔してる、私?

 だがそれも一瞬のことで、彼女はすぐに盤面へと視線を戻した。

 そうだよね、私なんて眼中に無いよね。恰好良いお兄さんが目の前に居るんだもんね。


「やあ、注目の一戦ですな」


 黒い感情が沸々と湧き上がって来たその時、背後から声を掛けられた。

 振り返らなくてもわかる、この優しい声は大森さんだ。


「若い人達の将棋は元気があって宜しい。お互いが全力をぶつけ合う、積極的に仕掛けていく姿勢が素晴らしい。我々年寄りはどうも、受け身になってしまっていけませんなあ」


 私の横に並んで立ち、眩しいものでも見るように、目を細める大森さん。

 不思議。この人と話していると、それまで苛立っていた心が落ち着いてくる。

 夫と少女の関係を疑わない訳じゃないけれど、ひとまずは観戦に集中しよう。


 しかし。盤面を見ても、私にはどんな将棋なのか理解できない。

 指して経験を積む内に、わかるようになるのだろうか?

 もしかしたらそこに、私の知らない将棋の魅力があるのかもしれない。


「あの。そんなに面白い勝負なんですか?」

「ええ。恐らく研究の成果でしょう、序盤は男性がリードしてたんです。ところが」


 私の質問に、大森さんは応える。


「中盤にかけて、徐々に女性が差を詰めて来ました。今は少し逆転していると思います。拮抗した、実に良い勝負です。最後まで、どちらが勝つかわかりませんな」


 へえ、そうなんだ。

 しゅーくん、頑張ってたんだ。

 眠たいだろうに、夜遅くまで本を読んでたもんな。


 私の位置からは、彼の背中しか見えない。

 彼はどんな表情をしているのだろう。

 歯を食いしばっているのだろうか。勝てるかどうかわからないこの一戦に、彼は研究の全てを注ぎ込んだんだ。

 そりゃあ、簡単には負けられないよね。


 さっきの言葉を撤回しよう。

 今夜は肉じゃがだ。

 肉じゃがパーティーだ。


 彼と彼女の駒音が交互に響く。

 彼は強く打ち込むように指す。

 彼女は静かに美しい音を奏でる。


 背筋を伸ばしていた彼は、だんだんと前のめりになっていく。

 彼女は変わらない。時々足の痺れを気にする余裕さえある。

 あ、お茶を一口含んだ。


「ねぇ大森さん。彼女の棋力って、何級なんですか?」

「初段です」


 大森さんは盤面から目を逸らさずに、一言そう告げた。


 初段。

 つまり、級位者ですらないということか。

 まだ学生さんなのに、凄いんだなあ。


 そんな相手に、夫は挑戦しているのか。

 私は改めて思った。

 頑張って、しゅーくん。勝っても負けても、今夜は肉じゃがパーティーだよ。


 少しずつ、二人の駒音のリズムが速くなっていく。

 駒がぶつかり合い、取って取られての攻防が続く。

 目まぐるしく変わる局面に、私はついていくことができない。


 正直、訳がわからなかった。


 でも、徐々に夫の陣地から駒が減っていくのはわかった。

 一方、少女の陣地は綺麗に整備されている。


 これはまずいんじゃないか?

 そう思いながらも、私に形勢判断はできない。

 隣に居る大森さんが頼りだった。


「大森さん。しゅーく──男の人、もしかして負けそうなんじゃないですか?」

「んー。確かに厳しい形勢ですが、将棋は最後までわかりませんよ。全くチャンスが無い訳ではありません。まあ、見ていて下さい」


 大森さんが言うには、少女はしゅーくんの攻めを利用して囲いを強化しているらしい、それによって手得しているとのことだった。


 ちょっと意味がわからないが、そういうことらしい。


 で、その分しゅーくん側が不利になっているが、その数手くらいの差は、アマチュアレベルでは十分逆転可能、なんだって。


 加えて言うなら、少女側はしゅーくんの攻めに対して、丁寧に相手し過ぎる傾向があるらしい。


 その分持ち駒を使うし、攻めが遅くなってしまう、とのこと。


 なるほど。わからないながらも感心する。

 大森さん、もしかして凄い人なのかな?


「……来た」


 大森さんがそう呟いた時。

 駒音が、止まった。


 夫の手が、ある駒を掴んで止まっている。

 いや、よく見ると、小刻みに震えていた。


 来たって、もしかして。

 チャンスってヤツ?


「優勢側はどうしても気が緩みがちになるものです。一方、劣勢側は付け入る隙を虎視眈々と狙っている。両者の心理状態の違いが、人間将棋にドラマを生むのです」


 やや興奮気味に大森さんは話す。


「先程の女性の手は緩手でした。今は攻め続けるべきだったのに、自陣の整備を一手入れてしまった。千載一遇の好機です」


 深呼吸するしゅーくん。

 掴んだ駒、歩を相手の金の頭に打ち込んだ。


「叩きの歩、それも三連打。凌ぎ切るのは容易ではありますまい」


 それってつまり、勝てるってこと?

 私が大森さんの顔を見ると、


「ただしこの局面、彼女にも有効な選択肢があります。これはもう、どちらが一手速いかの勝負でしょうな」


 と、苦笑混じりに応えられた。

 えー。何ですかそれー。


 打ち込まれた歩を前に、少女は少し、考え込む仕草を見せた。


 歩を取るか、取らずに逃げるか、放置するか。

 歩を取れば再度歩で叩かれる、逃げれば攻めの拠点が作られる、放置すれば金が取り込まれた上にと金を作られてしまう。


 この三択があると、大森さんは言う。

 この中で被害が一番少なくて済むのは、歩を取る選択。

 しかしそれでは面白く無い、らしい。

 すぐに負ける訳ではないが、形勢はやや傾いてしまう、とのこと。


 故にこの場合は、放置する一手。

 金を取らせて、かつと金を作らせても良い。自玉は危険に晒されることになるが、先に詰ませてしまえば良いだけ。

 取らずに稼いだ手を利用して、寄せ切ってしまえば良いのだ。


 ──ということらしいが、それってしゅーくんが負けるってことじゃ……?


 果たして少女は、金を動かすことは無かった。


 ぱちん。


 それから十数手の応酬の後。

 小気味良い音を立てて、その一手は放たれた。

 後には、静寂が訪れる。


 夫の身体が、崩れ落ちたように思えた。

 咄嗟に支えようとして、それが錯覚だったことに気付く。


 のろのろとした手つきで、彼は次の手を指そうとする。

 まだやれると信じたいのだろう。

 右手が虚空を彷徨う。


 やがて。

 その手は、止まった。


「……負けました」


 小さな声で、彼は敗北を認めた。

 普段から寡黙で、大声で喋ることの無い彼だが、こんなにもか細く、弱々しい声は聞いたことが無かった。


 よろよろと立ち上がる。

 私に気付いた様子は無く、放心状態のまま、道場を出て行った。

 その横顔に一筋、光るものがあった。


 後を追うべきか、悩んだ。

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