ぶれるくらいでちょうどいい

榎坂 祥

ぶれるくらいでちょうどいい

 この部屋には後悔が閉じこもっていた。

後悔と言っても大小色々なものがあるけど、今この部屋を占拠しているのは暖房の点け忘れだった。出勤時、帰宅時刻に合わせて暖房のタイマーを入れ忘れたことに気づき、出かける前のぼくを恨んだ。冷え切った部屋を想像する。朝からうんざりだった。

 仕事中、そんなどこへもやれない後悔の念をぽいぽいと気づいた時にこの部屋へ送っていた。冷え切った風とともに室内から負のオーラがぼくの頬を掠める。

 部屋はやはり冷えていた。早足で玄関からリビングへと向かい、暖房をつける。起動音がし、重い音を立てて動き始めた。しばらくはこの寒さと付き合わないといけないだろう、と思うと溜息がこぼれる。

 スーツは脱がずにそのままソファに座る。冷えた手で鞄の中からデジタルカメラを取り出した。シルバーで手のひらサイズのそれは大学の頃から使っているものだ。少し傷が付いているが、まだ使える。

 電源を入れる。何か撮るためじゃない。ギャラリーをちらりと見て、すぐに電源を消す。慣れたのか前のような驚きはもう無い。驚きはないが、どうしてだろうという気持ちはあった。

 カメラをソファに置き、カーテンを閉めるため窓際に行く。外を見ると駅前の町並みがちらりと見えた。先ほど撮られていた、これから出来るらしい高層マンションの工事現場が見える。

 ぼくが大学に入った頃――五、六年ほど前だろうか、あそこには畑があった。駅前の賑やかさと郊外の静かさのハイブリッドな感じがとても好みだった。大学を決める際、勿論そこで学びたいこともあったが、町並みという面でもここを選んでいた。それぐらいにこの場所が好きだった。

 窓ガラスが若干、息で曇る。ぼくはカーテンを閉めた。

 カレンダーをちらりと見る。十六時・診療所・鮎川さん、と明日の所に書かれている。カウンセリングに行ったほうがいいのかというのは正直今でも悩んでいる所だった。けど、誰に話せることでもないので、専門の所にお願いしようと思った。

 それにしても、自覚していないのに診てもらうとはおかしな話だ。出来れば機械の誤作動だった、というオチでいてほしい。

 カメラを一瞥して苦く笑う。どうなんだよお前、とカメラへ語りかける。だがカメラは何も言わず、知らんぷりをしているようだった。


「どうもどうも、折角の休日にすいませんね」鮎川さんがにこにこと頭を何度か下げる。

 第一印象は名前の割に鮎っぽくないな、ということだった。白衣を着て座っているので大雑把にしかわからないが、体つきはすらっとしている。だが、鮎のようなクールさが皆無だった。鮎のようなクールさとはなんだ、と問われるとこちらも詰まってしまう。ぼくの中では鮎はクールというイメージがあるのだ。それに加え、彼の髪の毛がもしゃもしゃとしている所も鮎のスラっとしたイメージと似つかない。

「ああ、はあ」やけに軽妙なノリで少し面食らってしまう。もっと年老いた人が重々しい空気を背負って出てくると思っていた。

 部屋は診察室にしては広く、人が住む分には狭いくらいの大きさだった。病院の狭苦しい診察室が苦手だったので、ゆとりのあるこの部屋は少し嬉しかった。

 鮎川さんとぼくの距離は三、四歩ほど離れている。ちょっとした面接みたいだ、とふと思う。壁際の本棚には鮎川さんの趣味なのか小説や参考書などが多数置いてある。

「うちのこと、どこで知ったんですか?」突然、そんなことを聞かれて思わず怪訝な顔をしてしまう。普通、ぼくの悩みについて聞き始めるんじゃないのか。美容院じゃあるまいし。「あ、なんかご友人の紹介かなあと思っただけで」

「いえ、近所だったからで」

「まあそうだよね」うんうん、と鮎川さんは一人頷いた。「むしろ、僕目当てで来る人がいたら逆に怖い。そんな有名でもないのに」

 よくわからない人だな、と思うも口には出さない。愛想笑いをしながら、診察はいつから始まるのだろうと考える。

「すみません」唐突に、クールというより無機質な声がしてぼくはびくっとした。声の方を見ると、そこにはナースが居た。肌と服の色が似たような白色で、どこか冷たそうな雰囲気を感じる。

「ごめんなさいね、やりますって」鮎川さんがなだめるかのような仕草をしながら彼女へそう言う。「いつもこんな風に怒られちゃうんですよ」

 ぼくはそれに苦笑いで答える。話すことが好きな人なんだな、と思った。

 二、三度軽い咳をして、鮎川さんが話を始める。

「えー、では始めます」途端に真面目な顔つきになった。先ほどのおちゃらけた雰囲気はどこへやらという感じだ。「佐野さん、お手数だけど今回のことについて詳しくお願いできますか」

「は、はい」このことはまだ誰にも話したことがないので緊張してくる。頭の中で話すべき場面の写真を時系列順に整理し、一つのスライドを作る。「気づいたのは三ヶ月ほど前でした。ぼくは趣味で写真を撮っているんですけど、たまたま撮った写真を見ていたら見覚えのない写真があったんです」

 その写真は、駅前からの夜景だった。夜の十時過ぎなのに街灯が少なからず点いているものだ。駅前からの夜景というのが辛うじてわかるくらいにぶれていて、撮ったというよりカメラが誤作動したようなものだった。

「勿論ぼくはそんな写真撮った記憶が無いんです。なのでその時は、忘れてるだけかと思い気にしませんでした」

 ぱら、と頭の中のスライドを捲る。次はあの高層マンションの工事現場の写真だった。

「ほんの一ヶ月前からその見知らぬ写真の枚数が急に増えてきました。さすがに三度も四度もこんなことが起こると、疑わざるをえないというか。けど、立ち止まって写真を撮った記憶は以前と同じく一切無いんです」

 こう話してみると一種の記憶障害みたいだな、と思った。ぼくの頭の中でそれが波紋のように広がり様々なことを考えてしまう。

 この前の会社でのちょっとしたミスはこの記憶障害が原因じゃないのか、ぼくはこのまま突然記憶が途切れるようなこのことと付き合っていかなくてはならないのか、今は一瞬で済んでいるがこれが広がっていきいつかは記憶喪失になってしまうんじゃないか。今後の不安に、ぐわんぐわんと頭が揺らぐ。

「なるほど」鮎川さんのその言葉で考えが止まる。「写真を撮った記憶が無いのに何故か見知らぬ写真がある、と」

「はい」

 鮎川さんはカルテを書いているようで、ペンの進む音だけが室内に響く。

 ナースさんの方から視線を感じた。ぼくはそちらをちらと見る。ぼうっとこちらを見ていてなんだか不気味だ。視線を合わせて挨拶する勇気もなく、ぼくは目をそらした。

「カメラはいつも持ち歩いているの?」

「は、はい。趣味が写真撮影で」そう言ってから、さっきも同じようなこと言ったことを思い出して恥ずかしくなる。緊張しています、と言っているようなものだった。

 ほう、と鮎川さんはまたペンを動かす。

「えーと、カメラの方に異常はあったりする?」

「いや、わからないです」最近は写真を撮っていなかった。仕事の忙しさとか、この勝手に写真が撮られていることがあって電源すら点けていない。電源を入れるともれなく新たな写真があるのが少し怖く、あまり点けないようにしている。だからカメラになにか異常があるかはわからなかった。「けど、カメラの異常でこの問題が解決するんですかね?」

「いや、今この瞬間に隕石が地球に落ちてくるくらいありえないね」

 つまり殆どその可能性はない、ということだろう。遠回しな口調に苦笑する。

「カメラの方に異常がなければ間違いなく佐野さんに何かしらの問題があるということになるから、それをちゃんと証明してもらいたいんだよ」

 確かにカメラのことも考慮しながらカウンセリングとなると、適切なアドバイスが出来なさそうではある。ぼくは鮎川さんのその言葉に納得する。

「ということで、次のカウンセリングはカメラの確認が終わり次第ということで大丈夫?」

「はい、わかりました」

「じゃあ、お願いします」

 椅子から立ち上がる。ナースさんの視線が相変わらずぼくに向いていた。


 カウンセリングを受け、その足でカメラをカメラの専門店へ持って行き、自宅の最寄駅へ着くともう夜だった。せっかくの休日を無駄にしてしまったような気がする。ぐだぐだと寝たかったというのが本音だ。

 二十時前ということもあり、街はまだ騒がしい。街灯が街路樹を照らし、店の照明が駅前を賑やかにさせる。ここ数日よりぐっと気温が低かったこともあり、明るい街並みが冬の訪れを感じさせた。

 視線がふっと街路樹に向かう。そこで初めて写真を撮ったのだ。他の人にとってはあまり意味のない街路樹かもしれないけど、ぼくにとってはかけがえのないものだった。幾度の台風や雪を耐えてきたにも関わらず、その姿に老いは感じない。

街路樹を見ていると、大学時代の色々が蘇ってきてつい顔が綻んでしまう。主に思い出すのはやはり深沢とのやり取りだった。大学三年間のあいつとの思い出がスライドショーになり流れていく。

この街路樹と出会ったのは入部初日、カメラを深沢と選んで買った時だった。

 深沢とは最初友達でもなんでもなかった。初めて会ったのは二年の文化祭の時だった。それまでぼくとあいつはまるで接点がなかった。学科も違うし、話したこともなかったのだ。

 たまたま友人の演劇を見終わり、それだけで帰るというのもつまらなかったので、近くの写真部がやっている喫茶店に入ることにした。そこで、深沢の写真を初めて見たのだ。

 この学校付近の写真を撮ったものだった。近くの畑やビル街が一枚に収まっていて、はっとした。直感的に、この写真が好きだと思った。口では上手く言い表せないけど、好きだった。

 その時胸の奥から湧いてくるものがあった。こんな写真を自分も撮りたい。撮ってみたい。

 その後、ぼくはあいつの所属する写真部に入ることになる。途中入部だったが、部員数が少なく初心者はぼくくらいだったのでみんな優しくしてくれた。

 特によくしてくれたのが深沢だった。同期の男子部員が一人しか居なかったというのもあるし、単純に自分の写真を褒められたからというのもあるんだろう。一から色々と教えてもらった。

 入部届を出し、部室で挨拶を済ませると大学近くの電器店に向かった。もちろん、カメラを買うためだ。

 カメラを選ぶ時、先輩も後輩も一眼レフカメラを使っていたから、ぼくもそれにしようと思っていた。バイトである程度お金があったのだが、深沢はデジカメを推してきた。

「えー、なんでだよ」ぼくが問うと、あいつは不機嫌そうに返してきた。

「別にデジカメだっていいもんは撮れんの。いいやつにしたいならまずはそれで慣れてから買え」

 カメラコーナーには人があまりいない。ぼくらは広々とそこで、あーだこーだ言い合ってカメラを選ぶ。

「なんかかっこわるいじゃん」形から入るタイプのぼくにとってはあまり納得がいかなかった。

「あのさ、佐野。いつもデジカメ使ってる俺のこと馬鹿にしてる?」

「いやっ、してないよ」ぼくは焦ると同時に驚く。てっきりみんなと同じで深沢も一眼レフかと思ったのだ。「じゃあもしかして、あの写真もデジカメで?」

「おお。そうだよ、お前が今馬鹿にしたデジカメで撮ったんだよ」皮肉を言われる。でも、デジカメであんな写真が撮れるなら、デジカメもいいなと思ってしまった。流されやすいタイプである。

「これは俺の考えだけどさ、写真ってのはその時の一瞬を閉じ込められるすげえものなんだよ。誰が何を思っていたか、どんなことを考えてたか、とかさ」深沢がぐいっと身を乗り出す。「性能差なんて関係ない。例えば携帯のカメラで撮ったものだって閉じ込められるんだ」

 深沢をじっと見る。一瞬を閉じ込める、という言葉がすうっと入ってきた。そうか、大袈裟に言えば、ぼくはこれから時を閉じ込めるのか。

「そんでもって、写真なんて運なんだよ。その一瞬が重なりあって撮れるわけだからさ。こっちが撮ってるわけじゃないんだ。俺らはスイッチを押すだけで、あとは全部運で成り立ってるんだよ」

「なんかギャンブルみたいだなあ」とぼくが言うと、深沢は「ロマンがないねえ」と返した。

「ま、俺の言葉じゃなくて友達の言ってたことなんだけどな」

「なんだよ、お前が考えたんじゃねーのかよ!」がっかりだ、とわざと大きく溜息をつく。

「うっせー! いい言葉なんだからしょうがねえだろうが!」

 その後デジカメを買い、あの街路樹を写真で撮った。ぶれてしまって完全に失敗作だったのはいい思い出だ。

 ふと、一枚の写真を思い出す。後悔、というタイトルがふさわしい作品だ。いつまでも渡せないまま、タンスの中に入っている。

 夜空へ携帯のカメラを構える。いるはずのない深沢を閉じ込めようとするけどそんなはずはなく、冷たい風が立ち止まるぼくに吹きつけるだけだった。


 鮎川さんが訝りながら訊いてくる。「には?」

「ええ、には」ぼくはそれに苦笑いで答える。

「カメラには何も異常なかったんだよね」

「はい、デジタルカメラには」専門店の方から、特に異常なかったという回答とカメラが一週間前に帰ってきた。だが、その時既に事は起きていた。

「……詳しくお願いできる?」

「はい」ぼくはスマートフォンを取り出す。「実は、こっちのデータフォルダに撮った覚えのない写真が入ってたんですよ」

 鮎川さんがああ、と納得いった顔になる。つまりこれで、晴れてぼくの所為となったわけだ。いや、なんにも晴れてないけど。

「そういえば、電話でのとおり撮った覚えのない写真、持ってきました?」

「はい」トートバックの中から写真を取り出す。

「失礼致します」

 ナースさんの抑揚のない声に、背筋が寒くなる。やはりまだ怖かった。恐る恐る写真を渡す。笑顔もなく、そのまま鮎川さんの方へ行き写真を手渡した。

「どうもありがとうございます。ぱらっとしか見てないですが、なんだか似たような場所ばっかですね」

「自宅付近です、インドアな人間なので……」最近はもう外へ出て写真を撮りに行ったりしていない。となると通勤経路くらいしか写真を撮る所がなく、おまけに会社は駅からすぐの場所なので自ずと自宅付近の写真になってしまう。

「なんか、これらの写真で思い出すことはある?」

 鮎川さんへ渡した写真たちを思い出していく。駅前の繁華街、夜のビル街、再開発の工事現場――。なにかが繋がっていくような感覚が、自分の中で沸々湧き上がる。

「……再開発」

「再開発、というと」鮎川さんがちらっとこちらを見る。

「ぼくの自宅近くでは、今再開発工事をやっているんです」ぼくが大学の学校説明会に行った時のことを思い出す。あの、美しいハイブリットを。「大学に通うためこっちに引っ越してきたんですけど、その時は駅前の繁華街とその先にある畑という景色がすごく綺麗だったんです。むしろそこをずっと見ていたくて大学を決めたというのもあるくらいで」

「その景色を失うのが嫌だと」

「はい、そうです」

 勢いに任せて喋っていったけど、景色を失いたくないからって写真を撮るということには繋がらない。言ってから、関係ないことかと落ち込む。湧き上がった高揚感がみるみる萎んでいく。

 とんとんとん、と鮎川さんがペン先で机を叩く。カウンセリング中、真面目な表情とふざけた表情が入り混じって、どっちの鮎川さんが本当なのかよくわからなくなる。メリハリをつけているというより、場面場面で切り替えているようなイメージだ。

「ちょっと話を別の方向から考えてみよう」鮎川さんは一旦ペンを置く。「佐野さんはどうして写真を撮っているんだい?」

「どうして、ですか」そう言われて、ぱっと思いつかないことに驚く。考えたこともなかった。きっかけは深沢の写真だけれど、それは撮り続けている理由にならない。

「やっぱり、楽しいから?」

「……そうですね、多分そうかな」そこら辺は曖昧だったが、趣味でやり続けているんだから楽しいんだろう。けど、なんで楽しいんだろうか。

 誰に見せているわけでもないし、コンテストで受賞するためでもない。ただの自己満足なのにだ。

 大学時代はどうだっただろう。あの頃は、深沢みたいな写真を撮りたいから頑張っていた。けど今は、あいつはいない。深沢の幻影を越したとしてなんの意味も無いことはぼくだってわかっている。

 なんでぼくは、写真を撮っているんだろう。

「――わからん」

 そう言った、と思った。だが、ぼくは言っていない。言ったのは鮎川さんだった。

 何かの紙を引き出しから出し、物凄い速さで文字を書いていく。ぶつぶつと何かを言いながら目の前の紙に集中する姿にぼくは言葉が出なかった。

「なにかほかに聞くことはありますか」困惑していると、ナースさんがこっちへ来てそう言った。この状況を説明して欲しかったが、驚きが勝って何も言うことが出来ない。「無いようでしたらもう、今日はお帰りになって結構です。次回のカウンセリングは、追って電話で決めるということで」

 事務的な対応だ。マニュアル通りに進めているように感じるけど、それは彼女の無機質さの所為だろう。患者を無視して考え込む医者なんて聞いたこと無いし、こんなことが頻発してもらっては困る。

 ナースさんが手で出口を示す。もう出てってくれ、ということだろう。とんでもない診療所に来てしまったと昔のここを予約したぼくを恨む。

「……わかりました」

「本日はありがとうございました」

 ナースさんが綺麗にお辞儀をする。カウンセリングというのを、今日を含めて二度ここで経験しているわけだけど、こういうのが普通なのだろうかと疑ってしまう。

 ナースさんが診察室を閉める時、向かう視線がやはり右肩の方にあったのが見えた。


「畑にでも寝っ転がろうぜ」深沢が仰向けに寝転がった。とてもリラックスしたような面持ちだ。「佐野は来ないのか?」

 少し躊躇したが、深沢のその気持ちよさそうな姿に惹かれる。「ああ、行くよ」

 どさっと倒れる。砂埃が舞い、土の温かさがじんわりと背中を覆っていく。

「気持ちいいだろ」

「うん、なかなか」

 空は晴れ渡っている。ゆっくりと泳ぐ雲を、知らない鳥が追い越していく。

「俺さ、この街が好きなんだよ」

「うん」

「なんつーかさ、いいバランスで成り立ってんのよ」

「わかるわかる、ちょうどいい感じがね」

「そうそう」

 月が幻のように浮いている。ぼくはそれをじっと見ている。

「そういえば、あの写真はどこで撮ったんだ?」

「あの写真ってなんだよ、佐野」

「文化祭に出してたやつ。ぼくが見惚れたあれ」

「ああ、あれか」ぼくが深沢を見る。すると、深沢もこっちを見た。「今から、行く?」

 その言葉にぼくは頷いた。

 畑から起き上がり、駅前の繁華街へ行く。ショッピングモールに隣接するビルの外側にある非常階段を深沢は指さした。立入禁止のロープが張られている。深沢は躊躇わずに登り始めた。ぼくも勿論それについて行く。

 六階に着くと、深沢はそこで止まった。

「ここか?」

「そう、ここで写真を撮ったんだ」

 ぼくはその景色を見ようとして――。


 起きた。

 天井の壁が見えた。ぼくは起き上がりながらぼやく。「天井が見たいんじゃないんだよ」

 というか畑に寝転がるってなんだ、と思う。まあ、夢らしいといえば夢らしいが。

 今日の仕事は休みだ。休みでなかったとしても、昨日のカウンセリングでの不完全燃焼があったので休んでいただろう。

 ぼくは、深沢と向き合ってみたかった。写真を撮ってしまうのは、どうしてもあの男が関係しているように思うのだ。

 正直言うとあいつと話がしたかったが、もうこの世には居ない。深沢は去年死んだ。

 なんでも山奥に単身で写真を撮影しに行き、そこで足場の悪い所から滑って、という話だ。葬式と通夜には行きたかったが、ちょうど会社の研修合宿中だったので行くことが出来なかった。

 今思えば、それは行きたくないという言い訳だったようにも思える。

 あいつが山に行く前日、ぼくはちょうど居酒屋で会っていた。勿論、山に行くという話も聞いていた。

 そこでぼくは、卒業式後に撮った写真を思い出した。再開発が始まりたての時だ。こんなにも綺麗な街を、再開発が簡単に執り行われていく。反対しているのは一部の地元の人だけ。駅前でビラ配りが行われているが、誰も目を通さない。――こんなんでいいのか。みんな、そんなにもこの街を見捨てているのか。ぼくは、撮らなきゃという使命感に駆られた。けど所詮は、声を張り上げることすら出来ない臆病者の悪あがきだった。

 そしてぼくは一枚の写真を撮った。今までで一番の出来と言ってもいいくらいのものだった。

「深沢さ、今度会った時すげえ写真見せるよ」

 深沢は如何にも酔っ払った真っ赤な顔でにやにや笑った。「おう、見せてみろよ。ボロクソに言ってやらあ」

「おー、いい度胸じゃん。てめーの驚く面が楽しみだぜ」

「言うようになったじゃねえかてめー!」

 結局、あいつにはその写真を見せられなかった。そしてそれは、今でも部屋のタンスにしまっている。忘れないように、そしていつか奇跡が起きてあいつと会えた時に。


 とりあえず、繁華街に向かう。気になるところがあった。

 路地を歩いていくと、花壇の土には霜柱が立っていた。昔は写真部の奴らで徹夜明けに畑の霜柱を踏んで歩いたな、と思い出す。

 大通りに出ると、人通りが一気に増えた。舗装されたばかりの道路では車が次々と走って行く。うるさくなったな、とぼくは寂しさを感じる。昔はもう少し交通量が少なかった。

 少し行くとショッピングモールが現れた。ついこの前営業開始したばかりだ。賑わっているようで、駐車場にはたくさんの車が停まっていた。中のお店には駅前の繁華街にも似たような店舗があり、本当に必要なのかと疑ってしまう。

 そこを過ぎると駅前の繁華街に出た。今日の夢で見た、ビルを目指す。

 途中、あの街路樹が目に入りつい立ち止まってしまった。あの時の深沢とのやり取りを思い出していた。

「うっわ、ぶれぶれじゃん」ぼくの写真を見て、開口一番あいつはそう言った。初めて写真を撮った時のことだった。

「うっせ、初めてなんだよこっちは」もっと褒めるとかないのか、と嬉々としてぼくの写真を見ている深沢へ思う。

「まあまあ、熱意がこもってるよ。いい写真撮るぞ、っていう」

 バカにされている。ぼくはむすっとした態度で深沢を睨む。

「あ、あとゴースト入っちゃってるな」

「ゴースト?」心霊写真ってことか。ぼくは気になり横からぶれぶれ写真を覗き込む。

「幽霊ってことじゃないぞ。逆光の時にこうやって丸っぽい光が入ることをゴーストって言うんだよ」

「へえ、じゃあ写真に入るとまずいんだ」

「そうでもない」

「どっちだよ」専門用語に複雑な技法、なかなか写真というのは撮るだけじゃないのかということを思い知らされる。

「このゴーストを上手く使っていい写真を撮ることもある。まあそこは幽霊と一緒だな」

 どこがだ、とぼくは訝しむ。

「ほら幽霊だってこの世になにか未練があっているわけだからさ。写真のゴーストと一緒で、幽霊だっていていいんだよ」

「なんか屁理屈だなあ」

「前向きな捉え方と言ってもらおうか」

 下らない、と鼻で笑う。深沢と話し込んだのはこの日が初めてだったが、退屈しなさそうだなとはこの時もう思っていた。

「でも、お前のこの写真いいと思うよ」

「お世辞はいいよ」そう言ってデジカメを深沢から奪い返す。

「ほんとだって。さっきも言ったけどさ、熱意がこもってて俺は好きだよ」

「でもぶれてるじゃん」

「何言ってんだよ」その時の深沢の表情を不思議と覚えている。初めて写真を褒めてもらったからだろうか。「気持ち伝わればこっちの勝ちなんだから、どんなものも使ってかないとダメだぜ。むしろ、ぶれるくらいでちょうどいいっていうか」

 ――はっとする。まずい、思い出に耽っていた。

 ぼくはあの夢は消えていないか、と焦る。辛うじて思い出し、再度なぞって忘れないようにする。

 消えていきそうな夢の景色を踏みとどまらせながら歩いていく。それは現在、たった一つのあいつと向き合う手がかりだった。

 夢の通りに進んでいくと本当に非常階段に着いた。この錆びれた雰囲気が関係しているのか、喧騒が遠くに聞こえる。まるで別の空間へ入ってしまったみたいだった。

 夢の中と同じ立入禁止のロープがかかっていた。来たこともないのによく当たっていたな、と驚く。

 この非常階段の場所もそうだ。夢のなかではああ言っていたものの、現実のぼくは存在すら知らなかったのに、何故かここにあり辿りつけた。一瞬、夢遊病という文字が脳裏をかすった。

 周りを見る。足音も喋り声も聞こえない。誰もいない。ぽっかりここだけ取り残されているみたいだ。

 鼓動が高鳴る。これをくぐれば、何かが変わるかもしれない。

 そこで、貼り紙を見つけた。貼られたばかりなのか紙の色が白い。

 文面には、階段の一部の強度が脆くなっていたので近々補強工事をするというものだった。その言葉に足が止まる。

 そして、脳内に不法侵入という言葉が渦巻く。躊躇するこの時を待っていた、という感じだ。連鎖して、強制退職、逮捕などと不穏な言葉が広がっていく。

 これは、行くなということなのだろうか。

 少し後ずさり、非常階段を下から見上げる。天に届きそうなほど高く思えた。ここを登ればあいつに会えるかな、なんて馬鹿なことを思う。

 会ったとして、あいつに何を聞こう。どんな写真撮ってるか、だろうか。けど深沢はお喋りが好きだから、むしろこっちに質問してきそうだ。その光景を想像してぼくは微笑む。「お前、なに探ってんだよ」とか怒られそうだ。

 ――ふと、そこでその台詞をどこかで聞いたような気がした。確か、大学でだ。

 その後、ぼくはなんと言ったっけ。深沢の顔がもやもやと出てきて、それに向かってぼくは言う。

「いや、なんで写真撮ってるのかなって」

「直接聞けよ、めんどくせーな」深沢はむすっとした。

「いや、だって恥ずかしいじゃん」

「なんだよ乙女かよてめー」

 思い出した。確か写真部の部室でぼくと深沢が二人っきりだった時だ。その時ぼくはみんながどんなことを思って写真を撮っているのか気になっていて、色々訊きこんでいた。あれは写真を撮り始めて少し経った時のことだった。

「聞くのは不本意だけど、深沢はなんで写真を撮ってるの」渋々、ぼくは深沢に訊いた。本当は深沢には直接訊きたくなかった。

 深沢に訊きたくなかったのには理由がある。

 あいつに隠れて成長したかったのだ。たまたま春休み前ということもあり、この間にぐぐっと成長してあいつを驚かせたいという気持ちがあった。

「後悔させたい」

「え?」

「だから、後悔させたいんだよ」

 後悔とは一体どういうことだ。犯罪現場を撮り、その写真を犯人に突きつけて後悔させるみたいなことか。そんなことが頭を過ぎる。

「後悔って、どういう風に」ぼくは訊ねる。まさかそんな事言わないよな、とベレー帽を被って写真を突きつける深沢を頭の中から消す。

「写真を一目見た時にさ、あーこの景色すげえな、こんなのあるんだみたいな感じに思って欲しいんだよ」深沢がペンを回しながら答える。「写真越しじゃなく、本物を見たいなってさ」

 確かに、深沢の写真にはそういうものが多い。本当にこの街にそんな場所があるのか、と思うものだ。

「前にも言ったとおり俺は写真には時を閉じ込める力があると思うんだよ」深沢がペン回しをやめて身を乗り出す。「ってことはさ、俺が撮った写真はもう二度とその目で見れないってわけじゃん。それってなんだかすごくね?」

 瞬きをすると、あいつの顔が消えて非常階段の景色が戻ってきた。

 もう一度非常階段を見上げる。不思議と先ほどよりも低く見えた。


「すいませんね、前回は」あはは、と鮎川さんが頭を掻く。すいませんどころの話では無い気がするが。

「びっくりしましたよ」とぼくは苦笑いで返す。今回で診察が進まないようであれば他の所へ行こうと本気で考えていた。破天荒どころの話ではない。

「じゃあ少し早いですが、本題に入りましょうか」ちらりと鮎川さんがこちらを見る。少しばかり肩に視線が行っているような気がした。「上手く行けば、今日でカウンセリングは終わると思います」

「……本当ですか?」その言葉に驚きを隠せない。この人は冗談は言うけど、嘘はつかない人だとこれまでの診察で感じていた。つまり、対処法がわかったということなんだろう。前回の奇妙な行動も相まって、期待してしまう。

「まあ、確実とは言えないけどね。それでまず一つ聞きたいんだけど」ふう、と鮎川さんは軽く息を吐いた。「佐野さんは、身近な人を亡くしたことがありますか?」

 その言葉にどきりとする。浮かんだのは深沢の顔だった。

「こういうことなんで、無理して答えなくても大丈夫だよ。だけど、答えてもらったほうがこの先早く進める」

 両親及び祖父母も未だ健在だ。一通り考えたけど、やはりあいつしかいなかった。

「大学で知り合った友人を、昨年亡くしました」

「ありがとう」鮎川さんは微笑む。「もしかして、その方は趣味で写真を撮ってたりした?」

 衝撃が走る。なんでそのことを知っているんだ。

「……ええ」訝りながら返答する。

「それで、佐野さんの住んでいる街のことをどう思ってた?」

「好きだ、と言っていました」

 すると、鮎川さんは長く息を吐いた。質問が終わったようだった。

「――これから少し信じられないようなことを言うけど、信じてほしい」真相に近づいていっている。それが、感覚でわかる。心臓の脈打つ音が大きくなる。鮎川さんが口を開く。言葉を、待つ。

「あなたには、そのご友人のレイが憑いています」

 言葉が身に入ってこない。三秒ほど思考が止まった。

 するとレイという言葉が頭をぐるぐると回り始める。ぱらぱらとレイという音の漢字に変換されていくが、今一つピンとこない。それっぽいものは一つだけあったが、ありえないと思い捨てた。まさかそんな非科学的なことがあるわけがない。

「レイとは、どういう?」

「心霊、またはゴースト」鮎川さんは真面目な顔だった。

 先ほど捨てた漢字が戻ってくる。霊。嘲笑うかのようにつくりの下半分が歪む。

「……それで、どう関係してくるんですか」慌てる自分を落ち着かせながら言う。霊ってなんだよ、意味わからないよ。

「えーと、二回のカウンセリングを通してわかったことは、佐野さんは変わっていく街に対して嫌悪感を持っているということだった。けれどもそれじゃ写真にはつながらない」

 そうだ。それは、前回ぼくが話してて思っていたことだった。なにか足りない、という気持ちだ。

「この前、僕がああなってしまった後に、うちの助手が言ってきたんだよ。あの人には憑いている、って」ナースさんを見る。そう言えば、ずっとあの人はぼくの右肩を視ていた。「実はうちの助手には霊感があって、今までにも何度かそういうことがあったんだよ。そして、もしやその霊が関係しているんじゃないかと思ったんだ」

 目の前に居る女性に霊感がある。そんなこと信じられるはずがなかった。なら実験してみようじゃないか、と言いたいところだった。

「どうやって信じろって話だよね」鮎川さんがぼくの心を見透かしたかのようにそう言う。

「そうですね」

「あはは、まあここは信じてくれないと話が進まないんだけどさ」

 けれど、信じてしまう自分がいた。それは嘘をつかない人だという自分の直感だし、他にもあの非常階段のことがあった。あそこのことをぼくは知らなかった。深沢は自分がどこで写真を撮ったかを話さなかった。それはぼくに対してだけじゃなく、他の人に対してもだ。

「実は、ちょっと信じています」鮎川さんが目を見開く。てっきりここで信じられないと言われると思ったんだろう。けど、ぼくには信じてしまう根拠があった。「先日、夢を見たんです。その友人とぼくが会う夢です。そこで、彼の写真を撮った場所を教えてもらいました」

 生憎、あの非常階段を登ることは出来なかった。けれど、あの写真の畑とビル街が一緒になっている構図はあの場所でないと撮れなかったはずだ。あのあとしばらく周囲を周ったけど、それらしき場所は見つからなかった。

「半信半疑ですけど、でもその場所が正解な気がするんです。彼は絶対に他の人に写真を撮った場所を言わなかった。だから、そのことを教えてくれたのは紛れもなく彼だと思うんです」

「なるほどね、それなら話が早い」

「でも、霊感があるなんてまだ疑ってますよ」

 冗談半分でそう言う。そりゃそうだよね、と鮎川さんは苦笑した。

「それでここからは完全に憶測だけど、僕が思うに佐野さんはそのご友人の霊に操られて写真を撮っているんじゃないかと思うんです」撮られていたあの写真たちを思い出す。あれらは誰かの写真に似ていた。それの答えがいま出た。――深沢だ。「再開発の場所を通る度、佐野さんは心の奥でその景色に嫌悪感を示していた。そしてそれに呼応する形でご友人の霊が反応し、なんらかの共通する理由から写真を撮っていた」

 胸の奥がざわつきはじめる。急かすかのようだ。しぼんだはずの高揚感がまた湧き上がってくる。

「なにか、思い出すことはないかい?」

 血管の循環する音がうるさくなる。それに乗って、頭の中で深沢との思い出が写真となって巡っていく。

 文化祭での邂逅。

 入部直後のカメラ選び。

 部室での会話。

 卒業後の訃報。

 ――そこで一つの言葉が浮かんだ。ぽろっと、口からこぼれ落ちる。

「後悔だ」鮎川さんがちらりとこちらを見やる。様々な写真がフラッシュバックし、一つの線となる。肩が、少し重くなる。

「昔から、ぼくには行動力が無かったんです。この街の景色が変わるときも、どこかでなんとかなると思っていた。結果、街は変わってしまった」言葉が止まらなかった。けど、止めようとは思わなかった。「そして同じ時期に友人が死にました。ぼくは、彼に写真を見せる約束をしていたんです。自信作です。けど、彼は死んでしまった」

 先輩からのメールが届いた時のことを思い出す。世界に取り残されるような感覚とはああいうことを言うのかと思った。切り離され、そのままずぶずぶと地中の奥に沈んでいくんだと感じた。

「多分、あいつはぼくと一緒に後悔させてやろうと考えてたんです。あの街の再開発の様子を撮って、再開発させたことを後悔させてやろうと。そんなの、単なる悪あがきなんですけどね」そんなので元の景色が戻るはずがない。無理だ。けど、あいつならやりそうだった。動かないよりはマシだろ、とか言いながら。「どーせ、ぼくが未練がましく見せられなかった写真を見てる時、後ろから覗いてたんですよ。それで、これが自信作だなとか笑ってたんですよ。あの馬鹿野郎は」

 なんだか腹が立ってきた。顔、それにからだ全体が熱い。鼻水が出て、眼前が潤んでくる。

「ああ、すいません。話がずれました」若干、語尾が震える。そんなことはない、大丈夫だ。

「いや、いいよ」にこり、と鮎川さんは笑う。「それでこの先のことなんだけど、佐野さんはどうしたい?」

 そうだ、と大事なことを思い出す。ぼくはそれを知るためにここへ来たのだ。

 けどどうしたいか、と問われてすぐに答えは浮かばなかった。ぼくはどうしたいんだろう。

「まあ、でも特に対処とか必要ないかと」

「――え?」

「いや、もう解決したじゃん」

 解決、という言葉にピンと来ない。確かにさっきので理由というのははっきりしたけど、それはなにも解決に繋がっていない。眉間に皺が寄るのがわかる。

「えーと、ね」鮎川さんが考えはじめる。持っていたペンで机を軽く数回叩く。「これもまた推論だけど、今回の現象はご友人が気づいて欲しいから表に出てきただけじゃないかと思うんだよね。それ故に、佐野さんは誰にも被害を与えていない」

 確かに、一番恐れていた電車内で撮りだすみたいなことは無かった。ただ、再開発地域の写真を撮っていただけだ。

「僕は心霊関係については詳しくないから、どうしても祓いたいということがあれば専門の場所でお願いね。僕は、あくまでその癖を治すためにお話をするだけだから」

 ……なんだろう。実感が沸かない。けれど、よく考えてみればそれもそうだった。実感が無く始まったのだから、終わった時に実感を覚えるはずもない。

「とりあえず、何もなければこれでカウンセリングを終わりますが」

「――あの」嫌なことを考えてしまう。さっきのお祓いという言葉がぼくの頭で大きくなっていた。深沢を祓う……つまり彼をぼくが殺さなきゃいけないのか、と考えてしまう。「お祓いってしなきゃいけないんですか」

「しなくていいんじゃない?」軽いノリで鮎川さんが言った。

「え?」

「さっきも言ったけど、特に悪さしてないみたいだし。もちろん、なにか悪影響が出たらそりゃ祓う必要はあると思うけど」

「はあ」

「それに、幽霊だっていていいでしょ」

 聞き覚えのある言葉だった。あの時の深沢の顔を思い出す。

「そうかもしれないですね」

 なんだかあいつに救われたみたいで嫌な気分だった。そんなぼくを見て、あいつはほくそ笑んでいるんだろう。やっぱり俺の言うことは正しいとかのたまっているかもしれない。そんな光景を思い浮かべ、つい口元が緩む。

 まあ嫌な気分だけど、悪くはない。


 ショベルカーの駆動音や、作業時の金属音が街に響く。街とは言っても、閑静だったこの地域にだけだ。駅前は電車の音や人の喧騒で聞こえない。

 ぼくはおもむろにカメラを取り出す。最近落とした際に大きな傷がつき、そろそろ買い換えようかと思っている。だがそれは、この作品が出来上がってからだ。

 じっと工事現場を見て、撮りたい風景を決める。少し見ていると、頭の中でシャッターが数回押され、イメージが出来上がった。ぼくは忘れないようにしながら、それが撮れる位置まで行く。

 カウンセリング後、ぼくは写真集を作ることに決めた。この街の再開発前からの変遷を記録したものだ。幸いなことに、ぼくの学生時代からのこの街を撮った写真はデータで保存していた。

 脳裏を過ぎるのは勝手に深沢が撮った写真だ。ぶれてはいるけど、不思議と力強さがあるあの写真を軸に出来ないかと思っていた。

 あの、部室でのあいつの言葉を思い出す。「後悔させたい」

 結局ぼくはあいつに取り憑かれたままだし、このままずっとそうだろう。だったら、あいつと一緒に世界を後悔させてやりたい。そう思ったのだ。悪あがきだろうと知ったものか。

 もしかしたらこの写真集がミリオンヒットして、反対勢力が増えるかもしれない。メディアに取り上げられ、再開発の人らは渋々再開発地域を元に戻してくれるかもしれない。霊が憑くことがあるんだ。そんな奇跡があったっていいじゃないか。

 ズームなどを使い、脳裏の風景と照らしあわせていく。とりあえず、ぴったりとは行かないがそれらしい構図にはなった。

 あとは運を待つだけだ。それまで、ぼくは念じる。後悔しろ、後悔しろ。

 感覚が、今だと報せた。指が動く。

 シャッターを押す。ぱしゃり、と後悔を閉じ込める音がする。

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ぶれるくらいでちょうどいい 榎坂 祥 @enkzk_syou

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