2-8 こころ
朝食の菓子パンを食べ終わった後、ツヨシはカイトを起こした。
「あれ。俺、もしかして寝てた?」
カイトにしてみれば、自宅で夜通しツヨシたちと話していた途中で記憶が途切れていることになる。
ツヨシは、カイトが酔っ払って転び、頭を打って気を失っていたのだと説明した。鼻血が出ていたのはおつまみのチョコレートのせいだとも。
「全然覚えてないんだけど」
「酒を飲んだせいだろ。かなり多めに飲んでいたぞ」
こういうときにアルコールは便利だ。などと、ツヨシはろくでもないことを思う。
「……そっか」
三人で口裏を合わせている可能性に、カイトは思い至ったようだが、何かを察したらしく、しつこく追及はしてこなかった。
しかし、ベランダの方をぼうっと見つめていたので、事件の全貌も把握してしまったかもしれない。カイトは推理力も常人を卓越している。そのことを、ツヨシだけが知っていた。
それからごみや空き缶などを片付けつつ、テーブルの上の余っていたお菓子を四人で食べた。
口数は目に見えて少なくなり、ぽつぽつと当たり障りのない会話だけが飛び交う。
「よし。もう外も明るくなってきたし、電車も動き始めただろ。解散だな。来てくれてありがとう。また機会があれば集まろう。……それと、迷惑かけてごめん」
最後は少し言いづらそうにしていたが、カイトは笑顔を浮かべていた。
「ああ、次の打ち合わせはちゃんと最高傑作を用意しておけよ。それじゃ、失礼する」
「あたしも久しぶりにみんなと会えて楽しかった。またね」
「ああっ、つよぽんに名前で呼んでもらうの忘れてた! カイトくん、バイバイ」
三人は眠そうにしながら、口々に別れの言葉を残して家を出ていく。
スミレが切なげな表情で最後に口にした『バイバイ』には、別の意味も含まれていたのかもしれない。
ツヨシたちが去り、一人になったカイトの表情からは、つい数分前まで同級生に向けていた笑顔は消えていた。
そしてベッドに横になりながら、先ほど起きた事件について思いを巡らせる。
ツヨシたちは隠していたが、カイトは自分の例の体質によって、ツヨシたちに迷惑をかけてしまったことに気づいていた。
スミレが申し訳なさそうな表情を浮かべていたことから、自分に告白をしたのは彼女だということも、事故という形で片付けられたことも察していた。
そして――その告白が本当は事故ではなく、意図的にされたものだということも。
スミレは、夏目漱石の逸話を知っている。その事実を、ツヨシとアオイは知らなかった。そして、スミレもまた、知らないふりをしていたのだろう。
カイトがスミレにその話をしたのは、大学一年生の五月だった。軽音楽サークルに入ることを決めた二人は、練習の帰りが一緒になった。その夜も、今日と同じように綺麗な満月が夜空に輝いていた。
「月、綺麗だね」
二人で並んで歩いていると、スミレがつぶやいた。
「ええ⁉」
「え? 私、何か変なこと言った?」
カイトの驚きように、逆にスミレの方が驚いてしまう。
「あ、ごめん。そのまんまの意味か」
最初、カイトはスミレの台詞を告白かと思った。しかし、鼻血を出して気絶していないことから、スミレはただの雑談として、月が綺麗だと言ったことに気づいた。
「そのまんまの意味って?」
「いや、夏目漱石の逸話で、面白い話があって――」
カイトはスミレに夏目漱石のエピソードを話して聞かせた。
「へぇ、そうなんだ。夏目漱石っておちゃめな人だったんだね」
「まあ、本当に夏目漱石がそれを言ったかどうかなんてわからないけどね。そんなわけだから、あんまり男子に言わない方がいいと思うよ」
「あ、ごめん。べ、別に橘くんのことをそういうふうに思ってるわけじゃ全然なくって……っていうのも失礼だけど」
焦ったように早口になるスミレ。
「うん、大丈夫。わかってるから」
鼻血が出なかったことからも、スミレがカイトのことを異性として好きというわけではないことがわかる。このときはまだ、だが。
「でも、なんかいいね。いつか好きな人ができたら言ってみたいな。月が綺麗だねって」
恋する乙女のようにうっとりとした表情で、スミレが言った。
カイトはその横顔を、ただただ素直に綺麗だと思った。
「ロマンティックだね。漱石といえば、他にも面白い話があるよ」
「どんなの?」
スミレが食いついてくる。
「犬と猫を両方飼っていたらしいんだけど、犬の方にはヘクトーって名前を付けたのに対して、猫の方には名前を付けずに〝ねこ〟ってそのまま呼んでたみたいなんだ」
「へぇ。本当に名前はまだない状態だったんだ。橘くんって物知りなんだね」
「たまたまテレビとか本で仕入れた知識が印象的で、覚えてただけだよ。あ、なんか俺ばっかり話しちゃってごめんね。小池さんも何か面白い話していいから」
「ええ⁉ 気を遣ってくれてるように聞こえるけど、それってただの無茶ぶりじゃん!」
「あ、ばれた?」
あのときは互いに苗字で呼び合っていたが、本格的にサークル活動が始まってからは、スミレとの距離はすぐに縮まった。五月の終わりごろにはバンドを組んで、共に演奏する仲となっていた。
MilKy TiMeのメンバーは全員、お互いに気の許し合える存在だった。もちろん、カイトとスミレも例外ではない。
だからこそ、スミレはカイトに恋心を打ち明けられなかったのかもしれない。打ち明けてしまえば、積み上げてきた何かがそこで終わってしまう。スミレはきっと、そう感じていたのだろう。
その辺りについては、カイトには予想することはできても、本当のことまではわからなかった。
自分を好きでいてくれる人の気持ちに応えられない。カイトは、そのことがたまらなくもどかしかった。
カイトは正直、自分の体質については半ば諦めているところがあった。
恋愛なんて邪魔になるだけだ。今は小説を書くことに集中するべきで、そのためには、この体質はむしろ好都合だ。
心のどこかでそう思っていた。
でも、そんなのは言い訳だ。
スミレは、自分のことを数年間に渡って想い続けていてくれた。その事実を受けて、罪悪感と自己嫌悪が混じり合い、なんとも言えない無力感に押しつぶされそうになる。
自分は、ただ逃げているだけなのだろうか。
「精神的に向上心のない者はばかだ……」
夏目漱石著『こころ』の有名な一説を引用し、カイトは眠りについた。
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