1-2 超ハイスペック人間


 二人はカイトのマンションを出て、近くのファミレスに向かって歩いていた。

 夏の生ぬるい夜風を受けながらツヨシは思う。

 この男――橘カイトはなぜ、小説家になったのだろうか。


 カイトなら、有名な企業で活躍できる能力もあるはずだし、そのルックスを生かして芸能活動だってできるはずだ。実際、大学の文化祭でバンド活動をしていたときも、大手の音楽制作会社からボーカリストとしてスカウトされていた。


 小説家という職業は非常に難しい。面白い話を思いつく発想力や、それを文章に起こす筆力に加え、書籍として出版されるところまで至るには運が必要であるし、作品を生み出し続けるためには多くのエネルギーを使う。賞を取ったり、編集者の目に留まってデビューできたとしても、すぐに消えていってしまう新人がほとんどだ。


 それなのになぜ、カイトは小説家になったのだろう。

 まあ、その理由のいくつかはなんとなくわかる気がするけれど……。


 カイトが小説家になることを決めたのは、大学四年生の夏だ。




 それは、ツヨシが苦労して出版社の内定をもらったときだった。


 カイトに就職先が決まったことを報告すると、

「へぇ。めでたいな。じゃあ、俺は小説家になるよ」

 真顔でそんなことを言い放った。


「……は?」

 最初は冗談だと思ったが、カイトの目は本気だった。


「というわけで、卒業後もよろしくな」

「いや、待て。お前は何を言っているんだ?」


 意味がわからなかった。付き合いはかなり長いはずなのに、ツヨシはカイトの考えていることがまったく理解できなかった。


 カイトには就職活動をしている様子がなかったため、大学院に進学するものとばかり思っていた。


「だから、俺の進路はたった今、小説家に決定したって言ってんだよ。そんで、ツヨシは俺の担当編集な」


 ツヨシが知る限り、カイトは小説を多く読んでいるわけでもないし、今まで小説を書いたことだってない。

 それなのに、カイトは小説家になるという。


「いや、待て待て待て。お前、今まで小説なんか書いたことないだろ?」

「誰だって最初は書いたことないだろ」

 正論だった。が、もちろん、小説はそんなに簡単に書けるものではない。


「それはそうだが……」

「ま、どうにかなるだろ」


 カイトが、どうにかなると言ったことは、たいていの場合、本当にどうにかなるのだ。ツヨシはそのことを、身をもって知っていた。


 カイトが「書けた。読んでくれ」と、一冊分の原稿を持ってきたのは、それからたった一か月後だった。


「本当に書いてきたのか?」

「ああ」


 仕上げてきただけでも驚きだったが、その内容も、初めて書いた作品とは思えないほどに完成度が高かった。ツヨシは原稿をパラパラとめくっただけでそれがわかった。


「そうだな。お前はそういうやつだったよ」

「何がだ?」

「なんでもない」


 容姿が優れていて、運動神経が抜群。頭も良くて、性格も非の打ち所がない。

 そういった人間なら、ツヨシも何人かは知っている。


 しかし、カイトはそれだけではない。

 人が長い時間をかけて習得するようなスキルを、短時間で身に着けてしまうのだ。


 歌や絵などはもちろん、修学旅行のときの伝統工芸品を作る体験では、職人さんに『頼む。うちに来てくれ』などと懇願されていた。


 カイトに不可能なことなど何もないのではないだろうか。そんなことすら思える。

 規格外の超ハイスペック人間。それが橘カイトだった。




 ファミレスに向かうツヨシは、隣を歩くカイトの整った横顔をちらりと見る。

 容姿端麗、眉目秀麗、成績優秀、スポーツ万能。


 天は人に二物を与えず、などという有名な言葉があるが、それを否定する存在こそが、この橘カイトという男だった。


 だから、カイトが一か月で長編小説を書き上げたときも、ツヨシは必要以上に驚きはしなかった。


 なんでもできてしまう人間というのが、この世界には存在してしまうのだ。

 見たものや聞いたものをすぐに吸収し、普通の人間の何倍ものスピードで上達する。その上、決して自分の能力の高さをひけらかしたりしないし、過度な謙遜もしない。


 性格もまっすぐで、感情表現も豊か。電車でお年寄りが乗ってくれば席を譲るし、迷子になって泣いている子どもがいれば、しゃがんで目線を合わせて慰め、一緒に保護者を探す。


 そんな男だから、もちろん異性にモテる。幼稚園から大学まで、同じ場所へ通っていたツヨシは、嫌というほどそのことを知っていた。


 まるで夜の灯りに群がる虫みたいに、カイトには女子が寄ってくる。

 しかし、カイトは今まで恋人ができたことがない。その理由は、カイトのある体質にあった。


 完璧に見えるカイトにも、一つだけ、致命的な欠点があった。

 カイトに今まで恋人ができたことがないのも、この欠点が原因である。


 また、カイトが、小説家というあまり家から出なくてもいいような職業を選んだのも……。


 いや、それは考えすぎだろうか。本人に聞かないと真意はわからないだろうし、そうやすやすと聞いていいことではない。ツヨシはそこで思考をめた。


「それにしても、暑いな」

 カイトが呟く。


「そりゃあ、夏だからな」

 もうすぐお盆に差し掛かる、八月の中旬。昼間には気温が人間の体温を超えることもざらだ。熱中症になる人も多い。


「でも夜だぞ? 湿度も高いし」

「お前は日ごろから引きこもっているからな。今日もずっと家にいたのか?」


「ああ。昼に外に出るなんて自殺行為だからな。俺はまだ死にたくない」

「昼に外で働いている人間を前にしてよくそんなことが言えたな」


 外で、と言っても、基本的には冷房の効いたオフィスにいるので、大変なのは通勤のときだけだが。


「悪い悪い」

 まったく悪いと思っていない声でカイトが謝る。


「ったく。最近の猛暑の怖さは家の中だって変わらないんだからな。寝るときも冷房は忘れるなよ」

「わかってるって」


 一人暮らしを始めたばかりの大学生と、その母親のような会話をしているうちに、二人はいつも利用しているファミレスに到着した。

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