第1章 夏のファミレスと血だまりのイケメン
1-1 人気作家 橘カイト
ツヨシがトイレから席に戻ると、テーブルに血の海が出現し、その上に幼馴染みで腐れ縁の男、
「おい、カイト」
ツヨシが声をかけても反応はない。
通路に面したテーブルの一端からは、ポタ、ポタと赤い滴がテンポよく垂れていて、床にも小さな血だまりが形成されている。
大きくため息をついたツヨシは「またか」と呟く。
テーブルの端に置かれているボタンで店員を呼び出した。ボタンはかろうじて血に染まっていない。
店員を待つ間、ツヨシは素早く状況を観察する。
血を流して倒れているカイトの服装などに乱れはない。椅子に座ったまま、頭だけがテーブルの上に載っている。両腕はだらしなくテーブルの下に垂れていた。
面積の半分くらいが血に染まったテーブルの上には他に、先ほど食べ終わったパフェの容器が二つと、ドリンクバー用のグラスが二つ。ツヨシが席を立つ前と、大きく変わっている点はなさそうだ。
ツヨシとカイトの他に客がいないこともあり、店員はすぐに呼び出しに応じた。そして、眼前に広がっている惨状を理解すると、大きく息を吸った。
「いやああああああああああああああああっ!」
深夜二時半、閑静な住宅街にポツンと建つファミレスに、大音量の悲鳴が響き渡る。
時は三時間前に遡る。
街もすっかり静かになった、深夜の十一時。
大手出版社に勤める編集者のツヨシは、幼少期からの腐れ縁であり、担当する作家でもあるカイトの家を訪ねていた。仕事の打ち合わせのためだ。
カイトは若手実力派の人気作家で、作風も広い。デビューから年に二冊ほどのペースで作品を出し続けている。そのすべてがツヨシの勤める出版社から出ており、大ヒット作と言えるものはまだないが、平均的に好ましい売り上げを記録している。
カイトは一言で言ってしまえば、天才だった。爆発的なヒットを飛ばせるタイプではないものの、こちらが求めているものを、一定以上のクオリティで書くことができる。
デビュー当時からそれなりに注目されていたカイトは、作品の刊行ごとに少しずつファンを増やし、今では立派な人気作家となった。
そんな天才作家が手がける、ヒットの確約された次回作の打ち合わせのため、ツヨシはマンションの階段を上っていた。
カイトの部屋は、五階建てのマンションの最上階にある。これといって特徴のない、どこにでもありそうな、まあまあ見栄えのいいマンションだ。家賃は十四万円。若者の一人暮らしにしてはかなり高い部類になる。
五階まで階段を上っただけで息切れしているという事実から目を背けて、ツヨシはカイトの部屋の前に立つ。
別に誰にも見られていないのだから、見栄を張らずにエレベーターを使えばよかった。後悔しながら、ツヨシは息を整えた。
インターホンを押し、待つこと数十秒。
「ふぁ~い」
という眠そうな声とともに、カイトがドアを開けた。
ボサボサの寝癖にスウェットというだらしない姿で、カイトはドアの隙間から半分ほど整った顔をのぞかせる。
「あれ? どうしたツヨシ、こんな夜中に」
迷惑そうに顔をしかめるカイト。
ドアにはチェーンがかけられていた。防犯はバッチリだ。これなら強盗に入られる心配もない。いや、違う。そうじゃない。
こいつ、寝てやがったな。
すぐに状況を理解したツヨシは、眠そうにあくびをするカイトを睨みつける。
「次回作の打ち合わせだバカ」
ゆったりした部屋着のカイトとは対照的に、ピシッと黒いスーツを着た、ビジネスモードのツヨシが言った。
本来であれば、一度帰宅してから楽な服装に着替えたかったのだが、色々と問題が起きて、結局ギリギリの時間になってしまった。
本当に色々あった。
締め切りを二週間ほど過ぎてから『すみません。探さないでください』というメールを最後に失踪した作家が見つかったという連絡があったり、編集長がレーベルの公式アカウントを炎上させかけたりした。
それなのにこいつは……。
「ああ……そうだっけか」
カイトはボケっとした顔で、ドアの隙間から応答する。
「お前な……」
ツヨシは肩をすくめてから、静かに息を吸って一気にまくし立てる。
「日にちも時間もお前が指定したんだぞ。深夜の方がインスピレーションがどうたらこうたら、とか言って。こっちは残業で疲れてるんだ。今日だって編集長が間違ってレーベルの公式のSNSアカウントで人気声優にクソリプ送ったせいで炎上しかけたんだ」
「編集長、またやらかしたのか」
ツヨシの所属するレーベルの編集長は、一か月に一度は何かしら事件を起こすらしく、ツヨシはいつも後処理を任されている。
「やらかしたなんてもんじゃない。あのハゲは一生パソコンを使うんじゃねえぞマジで。何が『僕がついてるからね』だ! まさしくお手本のようなクソリプだった! 鳥肌が立つ! 頼むから何もせずに呼吸を止めて大人しく座っていてくれ!」
怒りの矛先が編集長に向いてきた。呼吸を止めたら死んでしまうのでは、などと、今のツヨシに言える度胸は、カイトにはない。
「それは……お疲れ様、としか言いようがないな……」
カイトは慎重に言葉を選ぶ。
「で、もう一度確認なんだが、今日は打ち合わせの予定のはずだったよな?」
編集長の方へ向かっていた怒りが、そのままカイトの方に向きそうになる。
「打ち合わせな! そうだ、打ち合わせだ! 猛烈に打ち合わせしたくなってきた! 打ち合わせ、最高! 打ち合わせがしたくてしたくてたまらない! よし、すぐ準備するから待っててくれ!」
先ほどの眠そうな雰囲気が嘘のように、カイトは慌ただしくドアを閉めた。
普段はクールなツヨシだが、怒ると手がつけられなくなる。
「まったく……。五分で支度しろ!」
「おう」
ツヨシが近所迷惑にならない程度に大きな声で言うと、ドアの向こうからカイトの威勢のいい返事が聞こえてきた。
どうせまた日付の感覚がなくなっていたのだろう。
カイトは大学を卒業し、小説を書き始めてからは引きこもりがちになった。外に出る理由がないとのことだ。
カイトは現在、世間との関わりを自ら絶っているような状態だった。仕事でもプライベートでも、ツヨシ以外の人間と関わることはほとんどなかった。
そこそこ名の知られた人気作家であるため、窓口さえ設ければ、他の出版社からの依頼も多く舞い込んでくるのだろうが、公式サイトの作成やSNSの開設などは、今のところやっていないようだった。
カイトの連絡先などの問い合わせがツヨシあてにくることもしょっちゅうだった。しかし、ツヨシはそのすべてを断っている。
カイトの才能を独占しているようで申し訳ない気もするが、それが本人の意思でもあるのだから仕方ない。
ちなみに、ツヨシがこうしてカイトの家を直接訪ねるのにも理由があった。
電話やメールではなく、わざわざ外に連れ出して打ち合わせをするのは、カイトに人間らしい生活をさせるためだ。その打ち合わせが深夜になってしまうのはどうかと思うが、外に連れ出さないよりはましだろう。
ツヨシがドアの前で腕組みをして待っていると、きっかり五分後にカイトが出てきた。
先ほどとは違い、白いTシャツに紺のジャケットという、それなりにおしゃれな服を身につけ、髪もセットしていた。その姿はさながらモデルのようで、長年一緒にいるツヨシですら、思わず見とれてしまうほどだった。
「すまん、待たせた。いつものファミレスでいいか?」
「ああ、行くぞ」
ツヨシが先に歩き出し、カイトはその後ろについていく。
今度はしっかりエレベーターを使って、二人はマンションを出る。
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