第4章 春の再会と実る恋

4-1 再会


   ◆ ◆ ◆


 幼いころからずっと、たちばなカイトのことを見てきた。


 ああ……やっぱり好きだなぁ。

 暗い部屋で、マイはカイトを想う。


 その言葉は、彼には届くことはない。何があっても、絶対に。

 橘カイトは、告白されると、鼻血を出して気絶してしまうから。


 でも、誰よりも彼のことを知っているのは自分だ。

 いつだって、私は彼の近くにいた。


 誕生日も血液型も、好きな食べ物も住所も電話番号も、家の家具の配置だって知っているし、彼の予定だって把握している。


 今日は……きっと家で小説を書いているのだろう。

 自分は彼のことを、世界中の誰よりも想っている。

 マイには、そんな確信があった。


  ◇ ◇ ◇


 麗らかな春のある日。

 カイトは自身の仕事部屋でパソコンと向き合っていた。いくら画面をにらんでも、流れるような文章が浮き上がってくるわけでもなければ、秀逸なアイデアが降ってくるわけでもない。


 一か月前に出した新刊の売れ行きは上々で、過去作も何作か重版が決まったにもかかわらず、カイトの表情には覇気が感じられなかった。頭を掻きながら大きなため息をつく。


 新作に取り掛かっているが、原稿に集中できないでいる。

 執筆中の文書ファイルをしっかりと保存してから、カイトは立ち上がって部屋を出た。


 居間にある木製の棚。三つある引き出しのうち、一番下を引く。

 そこには、白い縦長のケースがしまわれていた。派手さはないが、高級なものであることはすぐにわかる。


 カイトが丁寧に箱を開くと、現れたのはダイヤのネックレス。

 五年ほど前、カイトが大学を卒業するタイミングで、母から『大切な人ができたらこれを贈りなさい』と渡されたものだ。


 ダイヤの部分は小さなサイズながら、堂々とした輝きを放っている。本当かどうかはわからないが、一千万円以上の価値があると母は言っていた。父が母にプロポーズをする際に贈ったものらしい。

 カイトは、あとからそのことを父から聞いた。


 そんな大事なものをもらえるわけがない、と事あるごとに母に突っ返そうとするが、未だに受け取ってもらえていない。カイトの母は頑固な人だった。


 そして、このダイヤのネックレスこそが、カイトが原稿に集中できないでいる原因だった。


「いったい、俺はどうすればいいんだ……」

 カイトは迷っていた。


 苦労などすることなく順風満帆だった人生で、初めて分かれ道の前に立たされているような気がした。


 自分の選択に自信が持てない。こんなことは今まではなかった。初めての経験だった。


 物思いにふけっていると、間の抜けたインターホンの音が鳴った。どうやら、誰かが来たようだ。


 ツヨシとの打ち合わせも入っていないはずだし、ネット通販で何かを頼んだ覚えはない。


 ツヨシ以外に、定期的に訪ねてくるような知り合いもいないので、宗教の勧誘か何かだろうと見当をつける。さっさとお帰りいただこう。ネックレスをケースに戻し、しっかりと引き出しにしまった。


 壁に設置されたインターホンのボタンを押し、応答する。

「はい。どちら様でしょうか」


 表示されたモニターに映っていたのは、カイトと同い年くらいの美女だった。少し見上げる角度でモニターの方に顔を向けている。どうやら、小柄な女性のようだ。


「あ、カイトくん。お久しぶり!」

 モニター越しに聞こえるのは弾んだ声。彼女はカイトの名前を呼んだ。


 しかし、カイトにはこの女性が誰なのかわからなかった。他にも、なんのために訪ねて来たのか、どうやってカイトの家を知ったのかなど疑問はあるが、カイトのことは知っているみたいだし、まさか危害を加えてくることもないだろうと思い、とりえずドアを開けることにした。


 ノブを回してドアを外側に開くと。

 その瞬間――突然の衝撃がカイトを襲う。


「いってぇ……」

 カイトは床に頭をしたたかに打ちつけ、意識が飛びかける。

 気づくと、先ほどモニターに映っていた美女に抱きつかれていた。


「わー、ホントにカイトくんだぁ!」

 二人の顔の距離は数センチ。シトラスの良い香りが鼻腔をくすぐる。


 彼女はカイトの名前を知っているようだが、カイトは抱きつかれている今でも、この女性が誰なのかわかっていなかった。


「えーっと……すみません。誰、ですか?」

「ええええっ⁉」

 女性は驚いたようにのけぞった。カイトの上に馬乗りになっている状態だ。


 カイトは女性を改めて観察する。

 下がり気味の眉に丸い目、小さめの鼻に厚めの唇。それらのパーツすべてが、柔らかい印象を与えている。


 栗色でセミロングの髪にはウェーブがかかっていて、雰囲気を一段としなやかなものにしていた。


 体つきも華奢で、〝思わず守ってあげたくなるような女子〟という概念をそのまま体現すれば、この女性そのものになるのではないだろうか。


「すみません。全然記憶になくって……。というか、そもそも、お会いしたことあります?」


「カイトくん、それはないんじゃない?」

 笑顔が一転し、ムッとした表情になる。表情や身振りがいちいち大げさだ。


「えーっと……とりあえず、降りていただけませんか?」

 カイトは要求する。小柄とはいえ、成人女性だ。それなりの重さはある。このままでは身動きが取れない。


「やだ。カイトくんが思い出してくれるまでどかない」

 謎の美女はカイトの要求を突っぱねて、潤んだ瞳で見つめてきた。


 なんだ、この状況は……。

 力で無理やりどけることもできそうだったが、カイトはそうしなかった。


 潤んだ大きな瞳と一直線に結ばれた口元、膨らませた頬。彼女を覚えていないことが、とてつもない重罪に思えてきたのだ。


 会ってすぐに抱きついてくる程度に親しかった女性なら、かなり絞られるはずだ。たっぷり十秒見つめ合いながら、過去の記憶を検索する。


 白のブラウスに紺のスカートという、清楚な服装。よく見ると控えめに細かい柄が入っており、高級なものであることが予想できる。


 他人の腹に馬乗りになっているという、行儀の悪いことこの上ない体勢であるにもかかわらず、彼女はどこかノーブルな雰囲気を漂わせていた。


 例の体質のせいで女性との交流をできる限り避けてきたことも幸いし、一件のヒット。


「……もしかして、カリン?」

 カイトがおそるおそるといった感じで、回答を口にする。


「そうだよ」

 その女性、宝泉寺ほうせんじカリンは、見る者すべてが満点をつけるであろう、可愛らしい笑顔で肯定した。


 カリンは、カイトと同じ小学校に通っていた女の子だった。小二のとき、彼女が転校して以来、約二十年ぶりに会ったのだ。すぐにわかるわけなどなかった。どうにか昔の面影を見出すことができただけでも御の字だろう。

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