第2章 秋のおでんと秘めた想いの伝え方

2-1 コンビニの誘惑


 季節は秋。

 何もかもを吸い込んでしまいそうな暗い空に、満月が綺麗に輝く、ある夜のことだった。


 誰もが知っているほどでもないけれど、それだけで十分に食べていける、つまりそこそこ人気の小説家、たちばなカイトは新作の執筆に行き詰まり、最寄りのコンビニへと出掛けていた。


 執筆が順調に進まなくなったときは、椅子に座ってパソコンの前で唸るよりも、まったく別のことをする方が効率的だ。カイトはそう思っていたし、今までもその方法で上手くいっていた。


 ひと月前よりもずいぶん冷たくなった夜風を受けながら、カイトはコンビニへとたどり着き、自動ドアをくぐる。聞き慣れた入店の音楽と、店員のやる気のない「いらっしゃーせー」という声に出迎えられた。


 このコンビニには、週に三、四日というハイペースでお世話になっている。逆に言えば、何かを購入するときはほとんどここで済ませている。コンビニには、食べ物や飲み物はもちろん、文房具や生活用品まで置いてあり、名前の通り非常にコンビニエンスだ。


 便利であると同時に、たくさんの誘惑もある。期間限定のデザートや新商品の飲み物、揚げ物に焼き鳥……。数え上げればきりがない。

 狭い空間での陳列は自動的に最適化され、美しささえ感じる。


「あら、お兄さん。こんばんは」

 商品の補充をしていた顔見知りのおばちゃんの店員が、カイトを見つけてあいさつをする。


「こんばんは。お疲れ様です」

 カイトも頭を下げる。


「今日も遅くまでお仕事してたの?」

「まあ、そうですね」


 いつもカイトが遅めの時間帯に来るせいか、おばちゃんはカイトの仕事が忙しいものだと思っているらしい。


「大変ねぇ。ちゃんと休むのよ」

「はい。ありがとうございます」

 文筆業なので、書くものさえ書けばいくらでも休めるのだが……。


「それじゃあ、ゆっくり見てってね」

 この年代の女性によく見られる、不快にならないギリギリのラインの馴れ馴れしさで、いつのまにか仲良くなっていた。今では、おばちゃんはすっかりカイトのファンだ。


 ゆっくりと店内を一周したカイトは、レジ前のおでんに目を留める。

 大根、たまご、こんにゃく、はんぺん、しらたき。様々な具が、シルバーの大きな容器にところせましと詰められていた。


 白い湯気が立ち上り、食欲を刺激するような匂いを漂わせている。カップ麺か菓子パンかで迷っていたカイトだったが、一瞬で思考をおでんに持っていかれた。

 セールで値段が安くなっていたこともあり、思わず多めに購入してしまう。


「お兄さん、今日も男前ねぇ。おまけしちゃおうかしらうふふふふ」

 などと言いながら、商品の補充を途中で止めてレジカウンターに戻っていたおばちゃんが、おでんをプラスチック製の器に詰めていく。彼女はいつも、カイトが来ると積極的に会計をしたがる。


「勝手にそんなことしたらクビになっちゃいますよ」

「お兄さんのためならクビになってもいいかもしれないわね」

 カイトとおばちゃんは、こんなふうに軽いジョークを交わせる関係だった。


「ありがとうございま~す」

 学生バイトらしき青年の、一切やる気の感じられない声を背中に受け、カイトはコンビニをあとにする。


 夕食をつい一時間前に食べたばかりだったため、そこまでお腹が空いていなかったということに気づいたのは、店を出てから五秒後のことだった。


 おでんの魔力には抗えない。とはいえ、食べずに置いておくと冷めてしまう。翌日にとっておくという手もあるが、早めに食べた方が味の鮮度は高いだろう。


 どうしたものかと悩みながら家までの道のりを歩きだそうとすると、

「あれ、カイトくんじゃない?」

 すれ違った女性に声をかけられる。


 カイトが振り返ると、そこには美女が立っていた。

 少したれ気味の眠そうな目が驚いたように見開かれている。


「……スミレ?」

「うん、そうだよ。久しぶりだね」

 カイトにスミレと呼ばれた女性は、艶やかなロングの黒髪を闇夜に輝かせて微笑んだ。


 Tシャツの上にパーカー付きの黒いトレーナーを羽織り、裾の広がったデニムのボトムスにスニーカーという、ラフな格好をしている。


「ああ、久しぶりだな。どうしたんだ、こんな時間に。もう九時近いぞ」

 黒髪ロングの美女、小池こいけスミレは、カイトが大学時代に所属していた軽音楽サークルの友人で、同じバンドを組んでいたメンバーでもある。


 近くに住んでいることは知っていたが、カイトが引きこもりがちなうえ、生活リズムが違うこともあり、しばらく会っていなかった。


「明日が休みだからお酒を飲もうと思ってね。買いに来たの。残念ながら、飲むのは一人で寂しくだけどね」

 スミレは先程までカイトがいたコンビニを指しながら、寂しげな笑顔を浮かべる。


 バンドではドラム担当で、その長い髪を振り回しながらも、テンポの速い激しい曲を正確に演奏する技術を持っていた。


 ちなみにカイトはボーカルで、そのプロ級の歌声に、たまたま学園祭に来ていた音楽関係者にスカウトされたことが数回ある。カイトはある程度努力をすれば、大抵のことは一般人を大幅に上回るクオリティでこなしてしまうのだ。


「ああ、そうか。今日は金曜日だったか。スミレはまだ市役所で働いてるのか?」

 小説家という特殊な仕事をしているカイトは、一般的な社会人のような曜日感覚は持ち合わせていない。


「うん。ずっと公務員。でも最近繰り返しの毎日に飽きてきちゃった。ねえ、なんか面白いことない?」


 スミレは、どこかの邦楽の歌詞のようなセリフを口にした。カイトにも、お役所仕事イコールマニュアル通りのことをひたすらこなす、というイメージがあったため、なんとなくスミレの言いたいことは理解できた。


「俺の本でも読んでくれ、と言いたいところだが、知り合いに自分の本を読まれるのもなんだか恥ずかしいな……」


「あはは。小説家になるなんて言い出したときはびっくりしたけど、今じゃもう人気の作家先生だもんね。売れてるんでしょ。もっと自信を持ちなよ」


「自信を持つのと、知人に読まれて恥ずかしいかどうかはまた別の問題なんだけどな」


「へえ。まあ、気が向いたら読むことにするよ」

 軽々しく、絶対に読む、などと言わない正直さはスミレの美点だ。彼女は普段、あまり小説を読まない。


「これからも頑張ってね。じゃあ、そろそろ行くね。久しぶりに色々話したかったけど、夜も遅いし……」


「ああ、それなら――」

 カイトは、手元のおでんとスミレの顔を交互に見比べて、いいことを思いついた、という表情を浮かべた。


「どうしたの?」

「今からMilKy TiMeミルキータイムのメンバーを集めて俺の家に集まるってのはどうだ?」


 MilKy TiMeというのは、カイトたちのバンド名だ。当時はなんとなく格好いいような気がしていた渾身のネーミングだが、今思うと若かったな、と感じてしまう。


「ええっ⁉ 私は別にいいけど、他の二人が空いてるかどうか……」

「大丈夫だ。一人は確実に空いてるはずだ」


 カイトは自信に満ちた口調で言うと、ポケットからスマートフォンを取り出し、メンバーの一人に電話をかけ始めた。


〈……どうした?〉

 カイトの予想通り、元ギタリストは抑揚のない生真面目そうな声で、すぐに電話に応答した。

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