第10話


今まで大切なものなんて一つも無かったけど、私の大切なものはジゼルだった。だって彼女に会ってからずっと私は彼女を気にしている。自分の生が何よりも優先で、死にたくないから生きていたのに、医者として生きる健気な彼女を私は大切にしたいと思っていた。


「あるよ。とても大切にしたいものがある」


何とは言わない。言ったらジゼルの心がさらに軋みそうで言いたくない。ジゼルはそう、と呟いた。


「私は、……本当に大切にしたいものはもう無くなってしまったわ。だからあの人の尊厳を踏みにじってしまったのかもしれないわね。きっと死の間際に、私は嘆きも哀しみもせずに死ぬと思うわ」


「なんで?ジゼルを見ていると君を思う人は沢山いると思うよ」


彼女はこう言ってもサンドイッチをくれた人のように彼女を慕う人はいる。彼女はそれでなくても優しいから思っている人は必ずいるように思う。しかし、柔らかい声で否定された。


「違うわ。そうじゃないの。優しい人はどこにでもいるでしょう?恋人も、同情する人も……分かりやすく見つかる。でも、私はそういう人が欲しいんじゃないの。欲しいとも思った事がない。私は、私は……ただ自分が信じられる誰かを本当に大切にしたいと思ってるの」


それは酷く抽象的に聞こえた。はっきりと言葉を述べるジゼルの本当の心のようにも思えた。


「ジゼルにとっての信じるって何なの?」


「確かなものじゃないのよ。愛を証明してほしいとか、一生一緒にいてほしいとか……そんなんじゃないの。強いて言えば、確証のない言葉でいいから私を信じさせてほしいの。命や愛が終わるのは分かっているけれど、それでも信じたいと思わせてほしいの。そこに理由なんて無くてもいいのよ。でも、きっと私はもう誰も信じられないわ。疑うのは簡単だけど信じるのは簡単じゃない…。今の私は何も信じたいと思えないの」


「……そんな事言わないでよジゼル」


諦めているようなジゼルが切なくてはっきりと言っていた。彼女の想いは彼女次第でもあるが、私は少しでもジゼルに信じても良いと思われる存在になりたい。全てがそこ迄のように感じてしまわないように、疑う気持ちなんか出てこないように、受け入れて安心させたかった。


「君を本当に想う人は必ずいるよ。君は大切に想われるべき人だもの。ジゼルを本当に想う人は必ず君を信じさせてくれるよ。人の事を大切に思いやって考えるジゼルみたいに、大切に思いやってくれるはずだよ。今は何も信じられないかもしれないけど、いつか信じられる時が必ず来るから大丈夫だよ」


優しく在りずきているジゼルにはきっと私以外にも惹き寄せられている者はいるだろう。この際私じゃなくても誰かに心を開いて、少しでも傷みを和らげてくれればいい。心に傷がつきすぎだ。

彼女は私を見上げるように顔を向けると綺麗に笑った。


「あなたは本当に優しいのね。……あなたの優しさは嬉しいけれど、……とても、恐ろしく感じるわ」


何故?何て聞く間もなくジゼルはまた焚き火の方に顔を向けてしまった。私は彼女の支えになりたいのに、恐ろしいと言われてしまって言葉が出なかった。まだ君に何かがあるのは分かっている。私はそれを刺激したと言うのか?聞きたいけれど、どう言えばいいのか分からない。


「ローレン。もう少し身体を寄せても良い?少しだけ肌寒いの」


ジゼルはそんな私に気にするなと言うように言葉をくれた。私に恐ろしいと言ったのに、私を受け入れているようなジゼルにすぐに応える。


「これで寒くない?」


腰に腕を回して、彼女を胸に抱くように密着する。ジゼルの細い身体は強張りを見せたが、私の胸に身体を預けてくれた。


「ええ。ありがとうローレン」


彼女の温もりが今は苦しく感じる。だが、離すつもりはない。この温もりは離したくない。私からは表情の窺えないジゼルを見つめているとジゼルは握っていた私の手を両手で優しく包むように握った。


「少しこのままでいさせて」


「うん」


ジゼルの心は読めないが彼女がこうして触れてくれるだけでも小さな歓びと捉えてしまう。こうしてくれても心では私を拒否しているのかもしれないが私の気持ちは変わらないだろう。

私は彼女に優しく在りたいし、彼女をどうにか助けてあげたい。


私達は雨が止むまでそうやって寄り添いあっていた。会話もせずにお互いに身を寄せあっている時間は悪いものでは無かったがジゼルに考えが巡ってしまう。それでも時折私の手を強く握ってくるから私は応えるように握り返してあげた。ジゼルの手は、本当に小さく感じた。



通り雨が止んでから私達はまた馬を走らせた。もうすぐディータに着くが雨で時間を食ってしまったので着く頃には夜になるだろう。もう雨は降らなそうだが夜になると視界が悪くなる分襲われやすくもなる。私はできるだけ早く着けるように馬を急がせた。


ディータに着いたのは案の定暗くなってからだった。大きな防壁に囲まれた帝国の首都である貿易都市の大門を潜ると夜なのにまだ人が賑わっている。此処は朝も夜も関係無く人が行き来して店が昼夜永遠にやっているのだ。


「やっと着いたわね。まずは私が所属している医術師会まで行きましょう。ディータに拠点があるの」


「医術師会?それは病院か何かなの?」


馬から降りて馬を引きながら歩くも聞き慣れない名だ。ジゼルは私を案内しながら教えてくれた。


「帝国直属の病院でもあるけれど医者と研究者が集う場所よ。医者や研究者になったら技術や知識の共有のために医術師会に加盟する事を推薦しているの。あそこには私の自室もあるから、今日はそこで休みましょう」


「そうか。私は部外者だけど大丈夫なの?」


「ええ。医術師会の長は私よ。問題ないわ」


「え?君はそこの一番偉い人なの?」


ジゼルは何の気なしに言ったが優秀な人材が集まるような会の代表と言う事だ。とても優秀な医者とは思っていたが驚かずにはいられなかった。


「偉いと言うより責任と決定権があるわね。何かあれば取り仕切らなくてはならないし」


「……そうなんだ。さすがだねジゼル」


ジゼルは少し首を傾げながら答えてくれたが、彼女はあまりそう言う事に拘ってなさそうだった。


「まだまだ医学の進歩は遅いのよ。さすがではないわ。もっと新薬の開発も進めなくてはならないし……ほら、着いたわ」


ジゼルの指摘に馬を引く手を止める。医術師会は表通りからちょっと外れた場所に建てられているとても立派な建物だった。これだけ大きな場所で医学の進歩を担っているのかと思うと感心する。

私達は馬を近くにある小屋に移すと中に入った。


「当分はここにいる事になると思うから後で中を案内してあげるわ。でも、今日は長時間馬に乗っていたから…」


「先生!無事だったんですね!!」


「あぁ、カーラ。手紙を出そうと思ったのだけど向かう予定ができたから帰ってきたわ」



ジゼルの話を遮ってきたのは茶髪の髪の少し幼い顔をした女性だった。長い癖のある髪を揺らしながら小走りにやって来た彼女はジゼルに心底驚いていた。


「ベシャメルが魔女に襲われたって聞いてビックリして帝国の調査に先生の事もお願いしてたんですよ!!もう本当に心配してたんですからね!?でも、無事で何よりです」


「心配をかけて悪かったわね。ありがとう。それよりも帝国は魔女について何か分かったの?」


「いや、それが魔術のようなものの形跡しか見付けられてないみたいですけど、逃げ延びた住人からは伝説の魔女と同じような発言を聞いているみたいですよ」


「そう」


カベロは痕跡すら残していないようだ。あの魔術に抵抗する術は見付かるのだろうか?話を聞いていた私にカーラと呼ばれた女性は視線を向けてきた。


「それよりこの方は?医術師会の加盟者ですか?」


「彼女は私の患者よ。特例だから治るまではここにいる事になるからよろしくね」


「そうなんですか。分かりました。私はカーラ=アーケード。医者をしていますが先生の弟子です。よろしくお願いします」



長くなりそうな説明を省略してくれたジゼルのおかげで私はカーラに軽く挨拶をして、ジゼルと共に彼女が使っている部屋に向かった。


「ここが私の部屋よ。生活に必要な物は揃ってるから大丈夫だけれど好きに使ってくれて構わないわ」


広い屋敷を歩きながら案内してくれた部屋はジゼルの自室にしては広すぎるような綺麗な部屋だった。

壁にずらっと並べられた本棚には彼女が読んでいたような分厚い本がぎっしり詰まっていて、机やソファやベッド、それから彼女専用であるのだろう立派な一人用の机には私には分からないような薬品やら何やらが沢山置いてあった。


「色々ありがとうジゼル」


こんな上等な部屋を使わせてもらうなんて何だかソワソワしてしまう。取り敢えずジゼルの机には触らないようにしよう。ジゼルは首を振った。


「いいえ。他にも外来用の部屋があるのだけど魔女の印については何があるか分からないから悪いけど私と同室なのは我慢してね」


「いや、それは大丈夫だよ。私こそ迷惑をかけるね」


「そんな事平気よ。それより明日はステイサムに会いに行くわ。以前話したけれど彼は魔術学者であり研究者でもあるの。彼なら魔女の印について何か知っているかもしれない」


「そうか。何か分かると良いけど……」


ソファに腰掛けた私は魔女の印を見つめた。あの日からたまに疼いて痛む印は紋章を囲む黒い蛇のような線が手首や手の甲まで延びてきている。これは一体何なのか判らないがこのまま放置していたら私の身体に段々と拡がってくるのだろうか?


「痛みはない?」


ジゼルは静かに私の隣に座ると掌を両手で優しく握ってきた。心配そうな眼差しに私は笑って返した。


「ないよ」


「そう。痛かったら言わないとダメよ?私にもこれは判らないものなのだから」


「うん。分かってるよ。でも、今はジゼルだよ」


「え?」


白い肌の赤身は引いたが少し腫れているのは確かな頬に私は手を伸ばして優しく触れた。ジゼルは何の処置も施していなかったから内心心配していたのだ。


「まだ腫れてる」


「これは別に平気よ。放っておけばその内治るわ」


「ジゼル……」


ジゼルなら絶対言わなさそうな台詞を言われてしまった私は呆れていた。他人にはこんなに寄り添ってくれるのに、自分は関心もなければどうでも良い事と認識している。全く呆れを通り越しそうだ。


「魔術で痛みを和らげるくらいはできるでしょ?私は心配だよ」


しっかり目を見据える私にジゼルはしゅんとしたように弱々しく反抗してきた。


「でも、少し殴られただけよ?私はそこまで痛い訳ではないし、……魔術を使うほどでも……」


「ジゼル、それでも私は傷ついた君を見てると心配になるんだよ。君が大切だって言ったでしょ?」


これで反論するなら怒りそうだったがジゼルは観念したように頬を触っていた私の手を握って下ろさせた。


「……分かったわ。痛みが引くように魔術をかけるから」


「うん。ありがとう。嬉しいよ」


「……そう」


素直に応じてくれたジゼルは魔術をかけて痛みを軽減させたみたいだけど、恥ずかしかったのか私がお礼を言ってから目を逸らして恥じらっていた。

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