第8話
しかし、夜が更けてもジゼルは一向に帰ってこなかった。仕事を終わらせたらすぐに帰ると言っていた彼女が寄り道をして酒を飲んでいるとも考えにくく、かと言って誰かと遊ぶような事も考えられない。私は心配になってジゼルを探す事にした。
彼女の行き先等想像は付かないが街を出て暫く辺りを探すと容易に見付かった。彼女はこの街の高台にある噴水に佇んでいた。噴水を見つめているジゼルの表情は暗く物思いに耽っているようにも見えて、何より儚げだった。
「ジゼル」
声をかけるとジゼルははっとしたように私に視線を向ける。
「ローレン。ごめんなさい。心配をかけさせてしまったわね。綺麗だから少し眺めていたの」
「平気だよ。それより夜風が冷えるから宿に帰ろう。身体が冷えたでしょ」
きっと此処にそれなりの時間居たであろうジゼルに私は自分のマントを取って肩に掛けてあげた。その時に触れた彼女の身体はやはり冷たくなっている。
「寒くない?」
「ええ。……ありがとう」
「じゃあ、行こう」
私はジゼルを連れて宿に戻った。部屋に着いて暖炉の前にある柔らかいソファに座らせて、身体が暖まるように暖炉に薪をくべてから暖かいお茶を淹れる。ジゼルはありがとうと笑ってお茶を一口飲むも陰りは一層に増しているように見えた。
「……今日の、あの親子の事?」
私はジゼルの隣に座りながらそう言っていた。医者として毅然に振る舞ってはいたがジゼルはとても優しい人だ。あの決断は彼女をこんな顔にさせている原因であると考えても変じゃない。でも、彼女が悪いとは思えない。なのにまた私は表情を曇らせてしまった。
「ええ。……また奪ってしまったと思ってね……」
「……死んでしまったけれど、私は救われたと思うよ」
「……ええ。ありがとうローレン」
ジゼルは以前も奪ったと言っていた。この言い方が私には釈然としない。こういう言い方をすると言う事は彼女の苦しみであるのだろうが…。
「気を遣わせてしまってごめんなさい。ああいうのは嫌と言う程経験したのだけど……あの親子が自分と重なって見えてしまって……」
「ジゼルと?」
彼女は小さく頷くと暖炉の炎を見つめながら穏やかな口調で、動揺も無く至って普通に話し出した。
「私はね、姉を亡くしてるの。ラナと言うのだけど亡くしたと言うより私が見殺しにしたと言ってもおかしくないの。ラナは戦争で私を庇って敵の兵士に刺されて、あの子のように瀕死だったのよ。それでも私はあの母親のように肩を抱いて助けようとしたのだけど、ラナに止められて助けなかったわ。医者は感情に流されてはいけないのに、私は感情に流されてただ死ぬのをのうのうと見ていたの」
まるで昔話のように彼女の声からは哀しみすら感じられなかった。表情も悲観的でなく穏やかなのに目だけは僅かながら哀しみのような、後悔のようなものが表れていて、ジゼルの苦しみがやっと分かった気がする。
「でも、ラナは私を愛していると言ったわ。あの母親のように何度も愛していると言って、私が返事をする間も無く死んでしまった。……私はその時にね、やっと気付いたのよ。命が終わるように、愛にも終わりがくる事に」
言い様のない気持ちだった。その言葉に一瞬あの忘れられない言葉が過る。
……マリア、愛している……
あれは、あれはそういう意味なのか?
私は、私は、……。人を殺そうとする時に沸いてくる気持ち悪いような気持ちをどうにかするように強く拳を握った。
命の終わりと同等なのだ。いや、命よりも重いのかもしれない。言葉なんて出なかった。だってその言葉通りだと思ってしまった。あの母親は哀しみに暮れたに違いない。だから私達にあんな風に言った。それにあんな状態でもあの子に心からの愛を口にしていた。
「長く医者をしていたのに、私は人の死がどういう事なのか理解していなかったわ。命が失くなって、もう話したり触れる事も出来なくなるから泣いて哀しんでいるだけじゃないのよ。もう想いあうのも、愛しあうのもできなくなるから残された者は死んでいるのに想いを口にするの。そんな大事な事に、分かっていなきゃならない事に……私は大事なものを失くしてから気付かされたわ」
彼女の医者としての真摯な態度や、命に対して大切に思う姿勢は此処からも来ている。彼女は命と同様に気持ちも何より大切にしているのだ。失くした時の計り知れない想いを知ったから、彼女は医者として毅然とした態度で振る舞うのだろう。その時だけは、絶対に心の内を見せないように。
「ねぇ、ローレン」
ジゼルは私に視線を向けると何時ものような穏やかな笑顔を向ける。
「前にも言ったけど、私を大切に思わなくていいのよ。あなたは私を気に掛けてくれるけど、私は感情に流されて見殺しにするような医者よ。それでなくても、医者と言いながら助けられない時がある。誰かに大切に思われる資格なんて私にはあってはならないの」
「私はそんな風には思えないよ」
ジゼルの笑顔に息苦しさを感じる。私を拒否する自罰的な心はジゼルを縛り付けて苦しめさせているように思う。一人で生きていくと言ったのもジゼルの話を聞くと切なく胸に響いた。
「私はジゼルと長い時間一緒にいた訳じゃないけど、君が人を救うのを見てきた。君はその場凌ぎの嘘も言わずに誠実に命と気持ちを救ったと私は思う。君は傷付いた者に対して迷いなく判断を下していたけど、君の姉のラナに対しては迷ったんじゃないのかな?それで、気持ちを汲んだんじゃないの?」
優しくて責任感が強い彼女はきっと家族の死の恐怖に動揺したのではないだろうか。私は彼女が見殺しにしたとはとても思えなかった。医者として冷静沈着に対処していたのは確かだ。しかし、医者じゃない時の彼女は慈愛に満ちた本当に優しい人で、こうやって己のあり方を苦悩してしまうのだ。膝の上で強く握り締める拳がそれを表している。ジゼルは動揺したようにあからさまに目を逸らした。
「……それは、…私は……」
「別に言わなくてもいいよ。私がそう思っただけだよ。違ってもあっててもどちらでもいい。さっきも言ったけど私はジゼルに対してそんな風には思えないと思っただけだよ。君は初めて会った私を大切に想ってくれる優しい人だから、私もジゼルを大切に想うよこれからも」
私はジゼルの硬く握られた拳に優しく手を重ねる。どうかそこまで思い悩まないように、己を縛る罪の意識に囚われないように、私は手の甲を優しく擦った。ジゼルは私に視線を戻してくれたけどますます表情を歪めてしまう。私はまたこんな顔をさせてしまうのかと後ろめたさを感じる。だけど、私の気持ちはこれ以外にない。苦しく感じながらも笑ってみるとジゼルは目を潤ませて涙を溢した。
「ジゼル?」
「……ごめんなさい。……これは、……違うの!…違うわ……!」
言葉を震わせながら顔見せないように涙を拭うジゼルは自分を否定するかのように違う違うと言いながら涙を溢していて、私は見るに耐え兼ねてジゼルを抱き締めた。何が違うのかは分からないし彼女が何を隠したいのかも分からないけど、溢れてしまったのなら受け止めてあげたい。彼女は一人で背負い過ぎだ。
「ジゼル。別に泣いたって平気だよ。君は医者だけどそれは何時もじゃない。それに医者である前に君はただのジゼルで、ただの女性だよ」
「……でも、……私……、私は……」
「今はいいんだよ。平気だから。私は誰にも言わないしジゼルを罵倒したりなんてしないよ。ジゼルは私にとって大切だから大丈夫だよ」
今は否定なんてさせたくなくて私は言葉を被せた。強い彼女が泣いているんだ、今くらいは言い訳も何も言わせたくない。私は静かに泣く彼女の背中を優しく擦った。この涙は傷付いて苦しんでいるからだ。その痛みが少しでも無くなってくれればいいと思う。ジゼルは小さくごめんなさいと呟いて私にすがるように凭れてきたので私は黙ってそのまま抱き締めてあげた。
抱き締めてしまうと細くて小さな身体は医者として毅然として冷静沈着に対処していた時と比べ物にならない位弱々しくて壊れやすく感じた。彼女の優しさは弱さでもあるのだろう。非情になれない彼女の心は医者と言う信念とも取れる道に支えられてはいるが、それだけじゃ支えられないほど沢山のものを背負い過ぎて悲鳴をあげている。
それでもきっと彼女は優しくあり続けるのだろう。
ジゼル本人も言っていたが失くしたものがありすぎるから大切にできるものは全て大切にしたいんだろう。
きっとそれすらも、彼女の使命なのだろう。
彼女を抱き締めながら彼女の言っていた言葉が頭の中で思い出されて切なくなる。魔女の印の事もあるがジゼルも何より大事だ。どうにかジゼルの傷を癒やしてあげたい。普段の彼女は温厚で穏やかに笑っていて、たまに怒ったり苦手なものがあるただの女性なんだから。
背中を撫でてやっているとジゼルは次第に泣き止んだみたいだがそのまま泣き疲れて眠ってしまったようだった。軽い重みはベッドに運ぶには何て事ないが起こしてしまうのは可哀想なので、私はソファに起こさないように一緒に横になった。このまま一人で寝かせるのはなんだか忍びなかったのだ。少し狭いがジゼルを胸に寄せて私のマントを掛けてやる。
彼女の顔をそっと覗き込むと頬には涙の跡があるものの穏やかな顔をして眠っているのに安心して目尻が下がった。
少しは拭えただろうか?私はジゼルを軽く抱き締めながら目を閉じた。
そうして翌日は腕の中で動くジゼルから控え目に呼ばれて目を覚ました。
「ローレン、……ローレン……」
戸惑ったような困ったような声で私を呼ぶジゼルにうっすら目を開けると間近に恥じらうような顔をするジゼルがいて、呼んだくせに視線を下げてしまった。
「ジゼル、身体は痛くない?」
「……ええ。痛くないわ。それよりも私、昨日は…あのまま眠ってしまって……」
「うん。だからベッドに運ぼうと思ったんだけど起こしたら可哀想だからそのままここで寝かせたんだ。ソファから落ちなくて良かったよ」
「ええ。それは、ありがとう……」
ジゼルは視線を何度か逸らしながら恥じらっている。馬に乗っている時も密着しているのに、こんなジゼルは初めてで思わず笑ってしまう。
「ジゼル、そんなに恥ずかしがらないでよ」
「だって、……あなたが……」
私に困ったように視線を向けるジゼルは可愛らしくて、私は笑いながらジゼルの身体を寄せるように抱き締めていた腕に力を込める。
「私がなに?」
「ローレン…!」
もう目を逸らされないように顔を寄せているからジゼルは動揺するだけで視線を逸らさない。彼女は何時も落ち着いているのにこれは面白くて仕方ない。私は笑って尋ねた。
「嫌だった?」
「嫌では……ないけれど。あまり、からかわないで。……私は、こういう事に慣れてないから恥ずかしいの…」
「ふふ。ごめんジゼル。君が可愛くて笑いが止まらないよ」
「ローレン、そんなに笑わないで…」
正直に答えるのも可愛らしくて私はまた笑ってしまったがジゼルはちょっぴり拗ねてしまった。
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