第7話


「ジゼル、今日は疲れたんじゃない?もう休んだらどう?」


ジゼルは分厚い書物を読みながら片手間に紙に何かを書いていた手を止めた。彼女はあれからずっと真摯な、それでいて難しそうな顔をしていてあの穏やかな表情は無くなってしまった。


「大丈夫よ。少し気になった治療の術式があるから記しておきたいの。今日の患者についても書いておきたい事があるし…。私よりもあなたの方が疲れたんじゃない?今日は治療を手伝ってくれてありがとうローレン」


「いや、私は別にいいんだよ。君の役に立てたならそれでいいんだ」


「そう…。でも、私の我が儘に付き合わせてごめんなさい。彼等は盗賊だったけど……どうしても見過ごせなくて」


ジゼルは申し訳なさそうに目線を下げる。あの場面で助けようとしたのには驚愕したが彼女の医者としての気持ちは医者としてあるべきだと思っている。


「あれは驚いたけど気にしてないよ。私は君のその医者としての姿勢は好きだよ。君のような医者に救われたら嬉しいと思う」


彼女は一瞬で攻撃の姿勢を止めて医者としての考えを貫いただけだ。誠実な医者と好印象さえ与えそうな、信念のようなあの時の言葉は人を確実に救うだろう。だが、ジゼルの顔は少しだけ曇った。


「…私は医者として当たり前の事をしてるだけよ。医者として命は救ったけれど、それでもあの様よ。彼は一生義足で生きる事になるわ……」


「それでもああしないと死んでいたよ」


「そうね……」


自責を感じているかのような呟きは医者として言葉をはっきりと述べていた彼女から出たとは思えないくらい弱々しかった。医者として冷静に判断をして迷いや不安すら感じられないくらい揺るぎない態度をしていたのに、今の彼女はそれと全く違う。


「…何か思う事があるの?」


何も窺えなくて胸が苦しい。あんな治療をこなしてしまうのに、思い詰めるような顔をするジゼルの心が知りたい。ジゼルは私に視線を向けると力無く笑った。


「医者でも治せないものが在るのがどうしようもなく感じるのよ。私は医者と言いながらああやって身体の一部を奪ったりするの。決断を迫って、命だけは助ける代わりに皆が平等にあるものを切り捨てるの。助けるためにずっとそうしてきたし、そうしなければならないけれど……罪悪感を感じてしまって……」


「罪悪感?なんで?」


命を救えたのに罪悪感なんて彼女が感じる必要があるのだろうか。命よりも脚の方が大切だなんて言う奴はいない。ジゼルは後ろめたそうに言った。


「奪っているからよ。身体の一部を今日も奪ったわ。……本当は私もできれば何も失わせたくないのよ。でも、医者として判断が遅れると……人を殺す事になる。だから奪うのよ。私のせいで、人が死ぬから」


思わず顔をしかめてしまった。殺すだなんて、助けていた彼女を見ていた私からしたら衝撃的で言い過ぎに聞こえた。だって彼女はあんなに怪我人のために身を呈した。敵だったのに攻撃すら止めて知識と技術を費やしたのだ。何の報酬すらも求めずに。


「……奪ってなんかないよ。君は助けてた。確かに脚は無くなったけど、死ぬかも知れなかったのに死ななかった。助かったなら命があるだけ有難い筈だ」


「……ええ。それは分かってるの。ちゃんと分かってるんだけど……他に方法がなかったのか後になって考えてしまう時があるのよ。あれしか最善の手はなかった筈なのに……私は医者のくせに情けないの」


自嘲する彼女の瞳にはジゼルがたまに見せる影が差した。ジゼルの優しさは彼女を追い詰めてるのだろうか。胸を締め付けられるような感覚にそれだけを感じた。思えば出会ったばかりの私を大切だと言う人だった、今日だって襲われそうだった奴らを逆に救ってしまった。そして迷い無く救ったのに苦悩している。

私は顔を下げてしまったジゼルに近付いて膝の上で強く握り締めていた拳に優しく手を重ねるとしゃがんで目を合わせた。そんな顔はしなくていい。


「ジゼル、君は医者の前にただの人だよ。悩んだり考えたりするのは誰だってするんだから情けなくなんてないよ。少なくとも私はジゼルを誇りに思うよ」


私は彼女に情けないなんて思ってほしくなかった。あんなに真摯な目をする彼女は医者として、人として素晴らしいと思う。責任を躊躇無く担う彼女の姿勢は簡単には真似できない。


「……ありがとうローレン。……本当に、あなたは優しいのね……」


「……」


私を見る目はお礼を言うくせに哀しそうで、これ以上何て言ったら良いのか分からなかった。笑ってくれたけど切なくて、かける言葉を間違ってしまったのかと思った。ジゼルはその後穏やかに笑ってはくれたが目は哀しそうにしていたから。



そして翌日もそれは変わらなかった。ジゼルとは気まずい訳じゃないし会話も普通にできているのに、晴れない彼女の表情は重くて私は昨日からずっと気にしていた。彼女の陰りをどうにかしてやりたいが何を言えば良いのか分からない。私達はその日もディータを目指して馬を走らせた。


時折馬を休ませながら道中を進む私達の耳にはベシャメルが伝説の魔女に襲われたと入ってきた。小さな村の人々や行商人は魔女が現れたと口々に言っていて、道中で買った新聞には帝国が調査を開始したと書いてあった。あの魔女カベロはあれから現れてはいないようだが、きっといつか現れるに違いない。私の掌の印が疼くのが何よりの証拠だ。



私はたまに疼く痛みを掌に感じながらも道を進み続けた。道中休憩を取りながら馬を走らせるのを繰り返す。

ディータまでまだまだ距離があるもののジゼルが寄りたいと言っていた町まで後少し。そんな時見えてきたのは整備された道に馬車が転覆している有り様だった。


「あれは……」


誰かに襲われたのだろう。馬車はグシャグシャに壊れてしまっていて、馬には矢が刺さって死んでしまっている。惨たらしい光景だった。


「ローレン、生存者がいるかもしれない。確認しましょう」


「うん。分かってる」


ジゼルなら言うと思っていた私は近く迄来ると馬から降りて一緒に馬車の回りを確認したが生存者はいなかった。気品のある服を着た者や襲ったと思われる賊は何人か矢や剣で刺されて死んでいて、食料や装飾品が入っていたであろう箱は無惨にも根こそぎ持ってかれている。辺りには血と荷物が散乱していた。


「狙われて襲われたのね……」


クリスはそれらを見て目を細めるも急に脚を急がせた。


「ローレン、血痕があるわ。まだ生き残りがいるかもしれない」


「早く追ってみよう」


「ええ」


うっすらとした足跡と血が滴った跡を見つけたジゼルに続いて歩くも、その先にあったのは痛ましいくらい血塗れの親子だった。


「あれは……!」


駆けるジゼルは木の根に背を預けて子供を抱いている女に話し掛ける。血だらけの中座っている女性は見るからに重体だった。


「あなた意識はある?この子は…」


「あぁ…!あなた、……助けてくれない?!私の娘が、……襲われて刺されたの……!まだ意識があるのよ!お願いだからこの子を助けてちょうだい……!」



女は荒く息を吐きながら途切れ途切れに泣いてジゼルにすがる。傷だらけで酷い状態だが彼女の腕に抱かれている少女はもう虫の息だった。


「……お母さん……痛いよ…痛いよ…」


小さな呟きは口にするのも辛そうで、少女の胸からはどくどくと血が溢れている。これはきっともう助からない。誰が見てもそう見えるそれは、見ていて私の方が苦しくなってしまう。そんな惨状にジゼルは静かに口を開いた。


「私は医者だけど、この子が痛くないように逝かせる事しかできないわ。申し訳無いけれど肺がやられていて、手の施しようがない」


ジゼルは冷静に事実を述べた。彼女は賊を助けた時のように淡々とこんな時でさえ顔色を変えなかった。


「はぁ……、あぁ……、そう。そうよね……分かっていたわ。ごめんなさい。分かっているわ。……あぁ、でも、こんな事になるなんて……」


もう受け止めていたかのように呟く女性はさっきよりも涙を流して嘆いた。終わりが見えていてもすがらずにはいられなかったのだろう。ジゼルはただじっと親子を見つめていた。すると女性は涙を拭って哀しそうに言った。


「あなた、……この子の痛みを、取ってあげてくれる?……さっきから、ずっと痛がってて……可哀想なのよ」


「ええ、分かったわ」


「ありがとう。もう大丈夫よ。お医者様が助けに来てくれたから……もう痛くないわ」


ジゼルは哀しい願いを聞き入れて少女に手をかざす。女性が優しく少女をあやすように話し掛ける中ジゼルは魔術を使ったようだった。


「お母さん……お母さん……」


見た目は何も変わらないのに魔術の効果が現れたのか、痛い痛いと言わなくなった少女は朧気に開いていた目を閉じた。呆気なく少女は終わりを迎えたのを悟った。


「はぁ……。愛しているわ。……あなたをずっと、愛してる……」


哀しそうに笑う女性は愛を囁いて少女を抱き締めた。運悪く襲われてこんな最期を迎えるなんてやるせない。哀しみに眼を細めるもジゼルははっきりと言った。


「この子に祈りを捧げるわ。必死に生きたのを私は忘れない」


「ありがとう。この子も喜ぶわ……。あなたに出会えて……救われたわ。ありがとう。もう、行ってちょうだい。……私は、大丈夫だから……」


ジゼルの慈悲に涙を溢す女性はもうすがりはしなかった。ただ笑って私達にそう言うものだからジゼルは悟ったように笑って立ち上がった。


「行きましょう。私達が居ていい場所ではないわ」


命を慈しむ彼女は全てを受け止めた上で去ろうと言うのだろう。何もしないのも彼女の優しさなんだ。だが、それがあまりに胸に響いて戸惑ってしまう。ジゼルは笑ったが何もしてやれない事に何も思わない筈がない。それに置いていくなんて、これからどうなるか分かっているから残酷にすら聞こえた。


「……うん。行こう」


でも、私も気持ちを汲んだ。ジゼルも、この女性の気持ちも。



それから振り返りもせずに目的の街まで向かった。あれから私もジゼルも何も話さなかったがジゼルの表情はますます曇っているように感じた。

あれだけの傷でもう瀕死だったんだ、いくら腕の経つ医者でも助けられない筈なのに彼女は苦悩しているのかもしれない。


目的の街に着いて宿を取ると以前診た患者を診てくると言ってジゼルは鞄を持って行ってしまった。もう夜になるというのに彼女は仕事になるとそんな事は関係無いようだ。本当に医者として人生を全うしているのだなと感じるが、医者として生きる彼女は儚くて、見えない秘めた思いを隠している姿が心苦しい。

優しい性格だから余計に沢山の物を抱えているように見える彼女はそれを口にしようとしない。言うのも躊躇うくらい嫌なのかもしれないが、私はジゼルの支えになりたかった。


医者としての彼女は凄いと思うが人として、ジゼルとしての彼女には危ういような脆さを感じる。以前言われたあの拒絶の言葉も彼女を見ていると本心なのかと受け入れ難い。


私はジゼルが帰ってくるのを部屋の暖炉の前で待ち続けた。

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