第百七十五話 前世の夢

 その後、ヨルダンが劇団から提供されているという彼の住処へ向かった。その場所は広場からほど近い場所にある集合住宅の一室。造りは簡素で悪く言えば、納屋のような部屋だった。床と壁は汚れで真っ黒で清潔感のかけらもない。ホントにただ寝るためだけの部屋といった感じだ。家具だって、粗末な寝台と普段執筆に使っているという机と椅子しかない。その執筆をするにも紙とペン、それにインクが提供されているわけでもなく、木の板に文字を削るようにして行っているらしい。紙はこの世界でも量産に成功しているらしく、割と安価で手に入るんだけど、それすらケチられているみたいだね。この集合住宅はこっちの世界で言うと、収入の少ない平民が住むような場所らしい。安く済むことが出来るからか不衛生な環境なんだろう。清潔な場所だらけの向こうの世界の記憶があってよくこんな場所で生活することが出来てたなと逆に感心してしまったくらいである。


 元々、物が少なかったみたいで、移動の際持っていく物も洋服なんかの身の回りの品くらいですぐに準備も終わった。いやあ、さすがにその日のうちに引っ越しの支度が終わるとは思わなかった。まあ、強引な形で引き抜いたし、劇団の方から何かしてくるかもしれなかったから、居を移す必要はあったし、好都合なんだけどね。


 準備が出来たらテレポートで移動だ。瞬間移動っていう概念自体は知っていたみたいでヨルダンはそこまで驚いていなかったけど、さすがに体験したことは無かったようで、不思議そうな顔をしていた。荷物を置いたら早速話を聞くために、会議室に集合だ。


 「さて、契約の前に話を聞かせてもらっていいかしら?あなたは、日本のことを知っているのよね?」

「は、はい。私がニホンのことを知ったのは―いえ、思い出したのは数年前のことです」


少し落ち着かない様子でヨルダンがそう言う。でも、数年前ってなると、日本の記憶が人格形成に影響したってことはなさそうだね。それは転生者って呼べるんだろうか…私は生まれた直後から記憶があって、人格形成に多大な影響をもたらした。けど、後天的に前世の記憶を得た彼の場合、少し状況が違うかもしれない。言うなれば、日本出身のブランデンブルク人の私と、日本の記憶があるブランデンブルク人のヨルダンといった感じかな。記憶を持つだけで前世とは別人のヨルダン。ハイデマリー・キースリングと一ノ瀬杏樹が混ざり合った私とでは、全然成り方、在り方が違う。ちょっと親近感みたいなものを抱いていたけど、それが徐々に霧散していくのを感じる。だからといって、放り出す気はないよ?女に二言は無いからね。


 「父と母が罪人として処刑され、私は孤児となりました。罪人の子になるため孤児院に入ることもかなわず、向こうの世界で言う、ストリートチルドレンのような生活をしていました。そんな生活が半月ほど続いたところで私の身体は限界を迎え意識を失ってしまったのです。その時、夢を見ました。恐ろしいほどに発展した世界で生活している夢を…最初は、今まで生きてきた世界こそが夢の中で起こったことだと思っていました。それほどまでに、現実味を、実感を伴った夢で、人生の追体験とでもいうのでしょうか…そんな感覚がありました。それもそのはず、夢の中で起こっていたことは私が前世で実際に体験していたことだったのですから。前世の私は女性でした。向こうの世界ではごくありふれた家庭―こちらの世界のありふれた家庭と比べると、天と地ほどの差がある生活環境でしたが…そんな家庭で育ち、教育を受けた後、成人し、結婚、子までなしました。しかし、その出産の負担に耐え切れず、命を落としてしまいました。その後、気が付くと私は暗闇の中にいました」

「え!?ちょっと待って、あなた死後の記憶があるの!?」


そう驚いたのは私ではなくアルト。アルトたち精霊は滅多なことで死ぬことがない。だからこそ、死という概念に対して思うところがあるんだろう。それが恐怖なのか興味なのかは分からないけど…


「あれが死後の世界と呼ぶものなのかは分かりませんが、それに近いものであるのは確かでしょう。あそこはただの暗闇。夜の闇とは明らかに異なるそれは、自らの存在以外に感じるものは何もありませんでした。ただ、不思議と恐怖心なんかは感じません。それどころか、ひどく穏やかな気持ちで、温かい水の中を揺蕩っているような感覚だったと思います。どれくらいそうしていたのか…時間の概念までも曖昧な場所でしたから、一瞬だったのか、それとも恐ろしく長い時間だったのかもしれません。ですが、ある瞬間、彷徨う私を何処かへと釣り上げる感覚があったのです。どこかへとひっぱりあげられた直後、前世の私の意識は消えてなくなってしまいました。きっと、今の私、ヨルダンとして生まれ直したということなのでしょう…これが、私がニホンの記憶を持っている理由です」


 長いとも、短いとも感じるヨルダンの独白は、そんな言葉で締められる。死後の世界に関しては、私も持っていない記憶だ。それを知ることが出来たのは、僥倖ととらえるべきか、災難だったととらえるべきか…


「私とは、随分と違う状態ね。あなたにとって、前世の自分は別人という認識でこの世界の住人という意識が強いようだけど、私は、今の自分と前世の自分が混ざり合ったような存在よ。生まれた直後から前世の記憶があったから…」


 ヨルダンの話を聞いて、私のことを話さないわけにはいかない。それはさすがにフェアじゃないし、彼も、日本の記憶を持っている私の話を聞きたいだろう。正直、いい思い出がほとんどない過去の話をするのは気が進まない。普段のように、知識として考えるだけならいい。だけど、自分の生い立ちを語るうえで、感情を無視することは出来ない。きっと、思い出したくもないものと対峙することになるだろう。だけど、それとも向き合わなければいけない。ヨルダンだって、前世のことを、死んだときの悲しみを進んで話したいだなんて思っていなかったはずだから―


「そうね…まずは私の生い立ちからかしら―」


 そこから私は、日本での自分のことを語り始めた。私の記憶を覗いていたアルト以外は知らない、話を…

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