第百六十話 スラム
「この辺り、酷い臭いね…」
鍛冶屋を出た後、特に当てもなく散歩がてら街を歩いていると、アルトがそんなことを呟いた。確かに、さっきからちょっと変な臭いがする。なんていうか、下水臭い。話しながら歩いていたから気が付かなかったけど、周りの景観も結構変わっている。さっきまでは石造りの建物ばかりに囲まれていたのに、今は建物というのもはばかられるような、今にも崩れてしまいそうな掘っ立て小屋が並んでいる。一応王都内なのに、こんな場所が…
「ここ、多分スラムだね。早く離れた方がいいかも」
イザベルが少し心配そうな顔でそう言う。言われてみればここは確かにスラム―貧民街と呼べそうだ。貧民街を高い服を着たうえ、女性だけでうろうろなんてしてたら、すぐ襲われ―
「おまえら、命が惜しけりゃ有り金全部おいてきな」
ほらでた。物陰から飛び出し、私たちを取り囲もうとしてくる男たち。いくら何でも予想通り過ぎる。
「命が惜しければ今すぐ立ち去りなさい」
どうしたものかと一瞬逡巡している間に正面の男の首元に剣を突きつけたアニ。私が考えを巡らせていたのは、一瞬と呼ぶのにも短い時間だったはずなのに…早業の炸裂だね。
「ヒッ」
反撃されるとは思っていなかったのか、そんな情けない声を漏らす男。周りの他の男たちも動揺しているのか、反撃してくることも無い。一応こんな奴らでも、仲間が死ぬのは避けたいのかもしれない。
「わ、悪かった。金は置いていくから命だけは…」
そう言いながら麻袋をその場に放置して、剣を向けられていた男は走り去っていった。あっけにとられた様子で追いかける。これじゃあ私たちがカツアゲしたみたいじゃない。
「ちぇ。銀貨が少ししか入ってない」
早速とばかりに、置き去りにされていった麻袋の中身をイザベルが改めている。でも、これもカツアゲしたお金だと思うと貰っちゃうのも憚られるね。本来の持ち主を探すのは無理だし…
「まあ、一応私が持っておくよ」
麻袋を収納魔法に放りこんでおく。まあ、町の憲兵にでも落とし物として渡しておけばいいでしょ。
「あ、あの…」
そんなやり取りをしているとどこからかそう声を掛けられる。まさか、またカツアゲ?あたりを見渡してみれば、物陰に隠れた小さな影を見つける。子供かな?
「どうしたの?」
声がした方へ近づけば、そこにいたのは六、七歳の男の子。恰好からしてこのスラムの住人だよね。食べていくのも大変なんだろう。身長と体形が全然釣り合っていない。ガリガリにやせ細っている。着ている服もつぎはぎだらけでボロボロだ。
「さ、さっきのお金…」
え、まさかホントにカツアゲ?さっきのってことは、アニが剣を向けたのも見てたってことでしょ?この子すごい度胸だな…
「さっきのお金。お、お母さんの薬代…」
怯えた声音でそう小さく呟く男の子。ああ。なんだ。この子のお金だったのか。
「そうだったんだね。はいこれ―」
「お嬢様。ちょっとまって」
少し離れた所でアルトたちと話し込んでいたイザベルがいつの間にかこっちに来て、そんなことを言ってくる。なんで止めるんだろう?拾ったものは持ち主に返さないと。
「誰かが拾ったものを自分の物だって言って盗むのは、貧民街だと常とう手段だよ」
「え?そうなの?」
「そうだよ。子供だからって簡単に信用したら…」
そう言いながら私に向けていた視線を正面に移すイザベル。あれ、なんかちょっと焦ってる?そう思ってイザベルが視線を向けた方向―男の子のほうへ向けてみれば、目に涙をいっぱいに溜めて今にも泣きだしそう。もしかして、これも演技?だとしたら詐欺師の才能がある。
「そうだ。だったら、君のお母さんのところまで連れて行ってもらってもいいかな?私、治癒魔法が使えるから、お母さんの病気だって治せるよ」
「ほ、本当に?」
「うん。もちろん。その時はお金だってちゃんと返すよ。君が本当の持ち主だって言うのもわかるからね」
私たちにとっては、イザベルが言うように銀貨数枚じゃそんなに高いお金じゃないけど、このスラムの住人にとっては大金になると思う。それを本当の持ち主なのに憲兵に渡されたんじゃたまったもんじゃないだろう。
「分かった。お母さんのところに連れてく。よ、よろしくお願いします」
最後に使い慣れていないであろう、ぎこちない敬語でそう告げる。それは教育を受けていないであろうこの子が見せた精一杯の誠意だった。
「ここだよ」
話を聞いていなかったアルトとアニにも事情を話してみんなでぞろぞろと後をついていくと、他の建物と大して変わらない小屋に案内された。道中、この子のお母さんの症状を聞いてみると、やっぱりこの子にはよくわかっていないみたいだった。咳が出るとか顔色が悪いとかそういうことすら分からないみたいで、ただただ、ベッドから出られない、ほとんど寝たきりの生活をしているってことだった。
「おじゃまします」
家の中はやはり一部屋しかなく、さすがに私たちが全員入ると手狭だった。こういう、ギリギリの生活をしている人と交流を持つのは初めてだからか、アルトなんかは、軽くショックを受けているみたい。私も知識としては知っていても、実際に見るのは初めてだ。今までは豊かな日本で生活をし、その後は貴族としての生活。ここまでの困窮を味わったことが無かった。雨風をしのぐのでギリギリな粗末な小屋で生活をし、病を患っても、満足な治療を受けることも出来ない。そんな生活に対して、これは私が抱いてもいい感情ではないのは分かっているが、不憫に思えた。きっと彼らはそんな風に思ってほしくないと思う。彼らは彼らで必死に生きているのだから。
「じゃあ、少し診させてもらうね」
浄化による治療をする前に、目利きの義眼を使って症状を確認する。母親は今、寝入っているようだから、こちらから説明する手間も省けて丁度いい。
「これは…」
簡易鑑定の結果は、いいものだとは言えなかった。正直、生きているのが不思議なくらい。肺炎に、神経機能障害、ガン。それに生きるために身体を売っていたんだと思う。そういう病にもかかっていた。後は、臓器が一部足りない。片方の肺と胃の一部が切除されていて、肝臓もほとんど機能していない。もしかしたら、臓器は売ったのかもしれない。何か治療のためにっていうのは考えにくいし。
「君のお母さんはお腹の中に必要な部分が少し足りていないみたい。私の魔法で病気自体は治せても、それを治すのはちょっと難しい」
さすがに、存在しない臓器を作るのは無理だ。創造魔法を使うにしても、臓器の生成なんてイメージすることが出来ない。肝臓の機能障害さえ治療できれば生きていくことは出来ると思うけど、普通の人と同じような生活をするっていうのはたぶん無理だってことも続けて説明しておく。ようするに、無理が出来ない体だってことだ。
「分かった。お母さんにはちゃんと説明する…」
「ちなみに、お母さんに飲ませていた薬ってどんなのかわかる?」
「これ―銀貨一枚で一瓶」
そう差し出された空き瓶には、中位回復薬と書かれていた。値段も相応。騙されているとかはなさそう。でも、中位の回復薬だと全然追いつかなかっただろうね。私たちが前に作った最上位の回復薬ですら微妙なところだと思う。
「この薬だと、品質が足りてなかったと思う。病気の進行を抑えることくらいは出来てただろうから意味が無いとまではいかないけど…あ、ごめんね。とにかく今は治療だよね」
寝たままの母親の手に触れ浄化を発動。抱えている疾患が多いからか、完全に治癒するまでいつもの三倍以上の時間が掛かった。それでも、苦しそうだった呼吸が安定したのが分かる。念のため目利きの義眼で再び確認してみれば、足りない臓器以外の疾患は完治していた。
「これで大丈夫だと思う。さっき言ったけど、治ったとしても無理は出来ない体だから注意してね。それと、これ。さっきのお金。もう取られないようにしなよ?」
それだけ言って私たちはその場を辞す。その間、声を出したのは私だけだった。他のみんなは何かを警戒しているような感じだったけど、なんだったんだろう。
「ありがとうございました」
背中にそんな言葉が聞こえた。
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