第36話 最後の事件5

「しばらく来れなくて悪かった。忙しかったんだよ」

 墓前に刻まれた名前にそっと触れると、冷たくて指先の感覚がなくなっていく。

 涙は入院中に流しまくったせいか、墓前を前にしても目の奥はすんとも言わなかった。だからといって、抉られた傷はうまるわけじゃない。

「俺な、警察官を辞めた」

 驚く声が聞こえた気がして、声に出して笑った。

「日常生活には問題ないんだが、腕が鈍っちまったんだ。銃を握ってもぶれることが多くてな。今は探偵をやっている」

 残したものは大きかった。世界中にはびこる悪を取り除けていない。そう言ったら「そんなに自分の力を過信してたのか?」。彼はそう言った。心が軽くなった。俺には後輩もいるし、優秀なオーズリーだっている。

 あの事件から三年が過ぎた。三年も立てば落ち着いているかと思いきやそうは行かず、未だに事件の真相を探ろうとする記者に待ち伏せされたり、警察と会うことも多く慌ただしい。探偵事務所も先行きは不安もあるが、経歴が警察官というだけあって、それなりに黒字は出せている。

「また来るからな」

 立ち上がると、生暖かい風が吹いた。背中を押し、いつもより足が早く動く。人の手か風か分からないほどに、強かった。

 車に戻ると、一件のメールが届いた。

──ローストビーフが食べたい。

 Uターンをし、事務所とは真逆の方角へと車を走らせる。

 弁当屋でローストビーフ丼を二つ購入し、来た道を戻った。

 古いビルの二階をオフィスとして借りていて、中はわりと広い。

 日当たりも悪くないし、少し先にはコンビニもスーパーマーケットもある。唯一の懸念材料だったのが、冷暖房が設置されていなかった。工事に出費がかかったが、これは必要費だ。

 ドアを開ける直前、猫の鳴き声がしたのは気のせいではない。

「あ、おかえりー」

「……うちは探偵事務所だぞ。動物園じゃない」

「預かってくれって頼まれたんだよ」

 リック。忘れそうになるが、本名がリクだ。相棒であり、俺に最も近しい家族。

 猫は俺に牙を向き、シャーシャーとうるさい。

「エリーの墓参り行ってきた?」

「ああ」

「花の香りがする。多分それで猫が嫌がってるのかも」

「猫をなんとかしてくれ。座れん」

 リックは猫をソファーの下におろし、俺はテーブルに弁当ふたつを置いた。

「やった。ローストビーフだ。猫にあげたらダメかな」

「ダメだろう。味ついてるぞ」

 しかもわさびまで乗っている。猫は匂いに気づいて奪おうとするが、ダメなものはダメだ。

「依頼って? 猫の預かりだけか?」

「ん」

 リックの視線の先を辿ると、もう一匹いた。腹を出して眠っている。

「それともう一つ。生き別れの母親に会いたいって依頼」

「母親の居場所に見当はついているのか?」

「はっきりしないから調べてほしいのと、行く勇気がないからついてきてほしいとさ。母親が母親じゃないみたいで怖いって」

「なんだそれは」

「変な宗教にのめり込んで、帰ってこなくなったんだって言ってた」

 誰しもが起こりうる話だ。他人ごとではないし、数年前、相棒はそうなるかもしれない状況に追い込まれていた。前向きが取り得なのが嘘みたいに、悪魔にとりつかれたかのようだった。

「他人事じやないよな」

「俺もそう思ってた。ウィルが看病してくれたおかげで、側にいてくれたから、今の僕があるよ。精神薬も飲まなくなったしね」

「人の死ぬかもしれない瞬間を間近で見たんだ。おかしくもなるさ」

 俺が撃たれ、さらにエリーまでもが撃たれた。不幸中の幸いなのは、子供のドーラがその瞬間を見なかった。まるでこうなることを予想して幼稚園に預けたのではないかと、勘ぐりたくなる偶然が重なった。

 ドーラは今、恋敵の男が育てている。父親なのだから当然だが、結局彼も結婚生活は長く続かなかった。親権問題に発展したとき、ドーラが誰よりも一番懐いたのはリックだった。さすが人垂らしなだけはある。可哀想だが、遊んでくれる兄ちゃんと父親の役割は一緒ではない。

 依頼人の母親と思わしき人物は、ロサンゼルスのど真ん中に位置する繁華街に住んでいる。アクセサリーの販売と、占いをして生計を立てていた。

「占い?」

「ああ。占星術師を名乗っている。お前は信じそうにないな……なぜ笑う?」

「いや、ジュニアスクールにいたときのことを思い出した。女の子なんだけど占いが趣味の人がいて、その子はクラスメイトと好きな男の子の取り合いをしていたんだよ」

「へえ?」

「自称占い師はライバルを占って、相性は最悪だの言って諦めさせようとしていたんだ。占いの結果なのか嘘なのかは判断つかないけど、必死だったなあ」

「子供なりに知恵を働かせた結果だ。いろいろ考えるもんだな」

 猫がドアの前でうろうろし始めた。数分後に猫の飼い主兼依頼人が現れると、猫は知らん顔でソファーに乗る。

「処方箋の受け取りをしてきたもので……助かりました」

「いい子にしていましたよ。それと、お母様の住まいが分かりました」

「もうですか? はあ……さすが探偵ですね」

「占い師を営んで、生計を立てているみたいです」

「占い? そうか……」

「心当たりが?」

「母は占いが好きでした。子供の頃からずっと夢見て、将来は占い師になりたかったとぼやいていた記憶があります」

「猫はここにいてもらって、行きましょうか」

「ええ? 今からですか?」

「都合が悪いですか?」

「いやあ……その……」

 しどろもどろになる男は、ますます背中が小さく見える。

「心の準備ができていません……」

「多分、一生できないと思いますよ」

 リックにこじんまりとした背中を押され、依頼人のヘルマン・エッガーは渋々頷いた。

 車の中では、オランダ系のアメリカ人だと自ら話した。祖父の仕事の都合でアメリカへやってきたため、名前はオランダ系であってもほぼゆかりはないという。

 繁華街近くの駐車場で駐め、目的地へ向かう。

「足取りが重いぞ」

「すみません……会うのが怖くて」

「それなら、最初に僕らが行きましょうか?」

「そうして下さると助かります……」

 なんとも頼りない依頼人だ。

 だがエッガーが怖いというのも無理はない。二重の意味であるのも頷ける。どこかのマフィアか分からないような輩がうろうろし、娼婦も男を捕まえては中へ引きずりこもうとしている。気の弱いエッガーであれば、人攫いにあってもおかしくない。

「ウィルがいてくれて助かるよ」

「俺は用心棒代わりか」

「用心棒兼相棒。あそこだな」

 目立たない普通の店だ。地味なアクセサリーショップで、壁にはスプレーでわけの分からない落書きがされてある。よくある光景で、馴染みすぎて目立たない。

「適当にこの辺で待ってますから」

「何かあったらすぐ中に入ってきてくれ」

「分かりました」

 店内はそれほど広くはなく、通路は大人ふたりが並んで通れる広さではなかった。何かのアロマのせいで鼻がやられ、リックもしかめっ面をしている。

「いらっしゃい」

 カウンターに女性が座っていた。

 リックの動きが一瞬止まるが、なるほど。彼女は間違いなく母親だ。エッガーによく似ている。鼻筋や髪色などそっくりだ。

「占いが有名だと聞いたのですが」

「ええ……そちらのお兄さんは、警察官?」

「よく分かったな」

「占いの結果を言っているだけ」

 女はタロットカードをめくった。

 歩き方、足音でばれるものだ。今のは占いの結果ではないと察しがついた。危ない繁華街で店を開いているので、何度も警察には世話になっているのだろう。

「僕も占ってもらっていいですか?」

「構わないわ。先払い五十ドルよ」

 リックは財布を出しながら、椅子に座った。高いんだか安いんだか。

「何を占いましょうか」

「恋占い」

 リックは即座に答える。

「いいわよ」

 生年月日。本名はリク・ヨヨ・モリス。ヨヨは日本のファミリーネームから取ったもの。

 女はカードを何回か切り、めくる。男女の裸体が描かれたものや、塔カードが並ぶ。逆位置はどういう意味なのか。

「変化を必要としていないんじゃないかしら?」

「当たってます」

 女はにやりと笑い、もう一枚カードを引く。

「恋愛という形であれどうであれ、あなたを支えてくれる人がすぐ近くにいます。収入も安定してきますし、無理に誰かと恋に落ちようとすると、すべてを失います」

 素なのか演技なのか、リックは驚いている。

「面白い。僕のことを知るはずがないのに」

「すべてはタロットカードに出ているんです」

 リックは束になったカードから、勝手に一枚引いた。

「これはどういう意味?」

「節制のカードね。逆位置だから、不規則な生活を表したり、不安定な心、宗教やオカルトには気をつけて、という意味」

「今、あなたのことを思ってカードを引いたんだけど」

 女ははっと顔を上げ、顔を歪めた。

 偶然だろうが、依頼人と一致するような引きだ。こいつはポーカーをやらせてもいいカードを引くかもしれない。

「当たり?」

「誰しも何かしら抱えているものよ。あなたも、私も」

「もし、過去の許せない過ちがあるとすれば、元通りにならなくても分かり合いたいと思いますか?」

「……………………」

 誰かが店に入ってきた。脅えたような弱い音だ。繊細で、情けなくなるような小さな音。

「……母さん、」

「まさか……そんな……」

 母さんと呼ばれた女は立ち上がる。

 自然と溢れる涙に、綺麗だと素直に思えた。

「元気な姿を見られて嬉しいよ。父さんも母さんのことをずっと愛してるよ。もちろん、僕も変わらずにね」

「ヘルマン……ああ……どうか私を許して……」

「誰だって過ちは犯す。それも含めて母さんの人生だ」

「私がどうかしてたのよ……なぜあんなものにはまってしまったのか」

「人間は弱ると手を差し伸べてくる悪人も神様に見えるもんだ。誰しも陥る」

「懺悔のつもりで、タトゥーも取ったのよ」

「タトゥー?」

「蛇や天使のタトゥー。なんであんなものを入れたのかしら? 本当に気持ち悪いわ」

 犠牲になったものは大きい。彼女も加害者一味であり、そして犠牲者。そんな人間はわんさかいる。

 幹部が逮捕されたって、終わりやしない。

 リックも言葉を失っている。

「今日はお店を閉めようかしら。ヘルマンにも会えたし、その……」

「二人で家に帰ろう。今すぐにでも」

「送ろう。猫も事務所に預けたままだ」

 頼りなく見えたヘルマンは、背中が大きく見えた。

 いったん事務所へ寄ると、猫は出迎えもせずにソファーとテーブルを陣取って眠っている。

 二匹を回収して家まで送り届けると、これ以上のないくらいにお礼やら何やら持たされた。

 泣きじゃくるエッガーの父を見ていると、探偵もいいものだと思えた。警察官とはまた違う達成感だ。

 帰りはリックの運転で家に戻った。

「ただいま」

 リックの声に反応して、一軒家にはワンと鳴き声が響く。

「おー、バディ寂しかったか?」

 大きな身体で何度もジャンプし、どっちに抱きつこうか悩んだ挙げ句、選んだのはリックだ。

「食い物持ってるからだな」

「嫉妬するなよ。こらバディ、これは人間の食べるものだ」

 エッガー家から渡されたタルトやカップケーキだ。リックから受け取ると、すぐに冷蔵庫へしまう。バディと目が合ってしまった。

 バディは知り合いから譲ってもらった犬で、遊びたい盛りのまだ子犬。

「ウィルってさ、もし占いで悪いこと言われたら信じる?」

「信じるタイプに見えるか?」

「そもそも占いにお金を払うタイプじゃないな」

「俺は今までも自分の決断で人生を歩んできた。後悔も山ほどしてきたがな、今思いつく限りの後悔といえば……」

「いえば?」

 リックは怖々と尋ねる。

「車の中でタルトをつままなければよかった点だ。夕食があまり入りそうにない」

 リックは笑った。

 笑っても肺に負担がかかることもない。

 おもいっきりバディと走れる。

 前よりも肉をよく食べる。

 幸せは、こういうものなのかもしれない。

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