第10話 新章─便利屋リック─

──いいか、リック。腕に……のある奴らには……近寄る……な……。

 腕の中で息耐えていく父の姿は、人間はなんて脆く弱い生き物なのだろうと悟る。

 懸命に大丈夫だ、必ず助けると励まし続ける警官は、恐れを知らず銃声の中、飛び込んできた。

──パズルは整った。犯人も分かった。そして必ず君のパパも元気になってくれるさ。

 父と似た顔を持つ警察官は笑い、白い歯を見せた。

 犯人は逮捕された。だが父は息耐えて、目を開けることは二度となかった。

 警察官を責める気持ちはなく、むしろ励まし続けた彼の姿に憧れさえ抱いた。

 できることなら、助けてくれたあの警察官も葬式に来てほしかった。

 残念ながら叶わなかったが、もし探偵になれたら、彼のような人間になれるだろうかと、親友に声をかけた。

 母の再婚、義理の父と妹、親友のジロー。数ミリの皮一枚で繋がった関係は、なんとかやっていけるだろうか。

 ずかずかと入り込む男もいる。あいつは何なのだろう。




 今度こそ、最後の別れだ。

 決着がついたようでついていないあやふやなままだが、ひとまず区切りはついたと言える。

 ジェフの墓に花を添えて、しばらく独り言を呟いた後、知らない女性と目が合ってリックは逃げるように墓地を後にした。

 ジローは逮捕されて、興信所をたたみ、リックはアパートを後にして一か月ほど実家にお世話になった。

 母スミレは歓迎し、義父も暖かく迎え入れた。母特製のレモンパイで家中バターの香りで包まれた。カリカリのベーコンやソーセージなど肉も多く、これは義父のトーマスの好みと言える。

 バターの匂いと混じるととんでもなく胃に直撃するが、こんなことは口には出せなかった。

 いきなり帰ってきた息子に、スミレは何も言わなかった。あの厄介なロサンゼルス刑事が余計な話をしたのだろうと、リックはレモンパイを食べながら無言で眉間に皺を寄せる。

「新しく仕事を始めようと思うんだ」

「良いわね。何の仕事?」

 元々、探偵業をよく思っていなかったスミレは、気持ちの切り替えが早い。

便利屋タスカー

「……それってどうなの? 危ないの?」

「やってみないと何とも。もう登録は済ませてある」

「ちゃんと食べていけるの? 危険は伴うんじゃない?」

「危ないかどうかなんて言ったらどんな仕事もやっていけないよ。スーパーで働くにしてもいきなり銃を突きつけられる恐れはあるし、教師が銃乱射事件に巻き込まれたって今朝のニュースで、」

「もういい。分かったわ。体調は? 薬は飲んでる?」

 過保護なのは相変わらずだ。重度の喘息持ちがどうも心配の種らしい。

「飲んでるよ。ここに来る前に薬をもらってきた。それに、来週ひとつ仕事が入ってるんだ」

「まあ、もう依頼が?」

「スミレ、リックだって頑張ってるんだ。水を差すようなことは言うんじゃない」

「差してないわよ。私はただ心配なだけで、」

「リック、いつだって帰ってくるんだぞ。お前の家なんだから。遠慮されると俺が悲しい」

「トムはこの子が倒れたところは見てないでしょう? 私は何度も見てるんだから」

「心配なのは分かるが、見守ってこそ親だ」

 義父トーマスはリックの頭をわしゃわしゃと撫で、豪快にソーセージにかぶりついた。

 寝ている義理の妹ジェシカには会えずじまいだったが、機会はいくらでもある。

 土産にレモンパイを包んでもらい、リックはアパートに帰った。メールボックスにはピザのチラシが入っているだけ。

 あれからというもの、警戒心が養った気がする。ストーカーのおかげとは思いたくないが、きっかけは明らかに不法行為によるものだ。

 パソコンを立ち上げると、メールが一通来ている。

 仕事が二件に増えた。一つ目の仕事よりも期限が近い。二日後だ。

──家の電球の交換と、掃除をお願いしたい。

 細かな時間帯は相談したいとのこと。いつでも大丈夫だと返事をすれば、数分で返ってくる。

 契約成立だ。リックは大きな欠伸を二度し、早々にベッドに潜り込んだ。


 翌日の午前中、リックは待ち合わせの時刻五分前で依頼主の元へ到着した。

 メールは必要最低限の内容だったが、ところどころミスが多い文章だった。

 どんな依頼主だろうと胸躍らせていると、まず驚いたのが家といえよりお城を思わせる佇まいで、中世の時代から飛び出したかのような建物だった。

 父に読んでもらった魔女の本に出てくる城にそっくりだ。

 インターホンを鳴らすと、年老いた女性が顔を覗かせる。

「あなたが便利屋さん?」

「はい。リクと言います。このたびはご依頼をありがとうございます」

「ちょっと多いんだけれど……いいかしら?」

「構いませんよ」

 建物を見たときから、リックの覚悟は決まっていた。一個や二個ではないだろう。軽く二桁はあるはずだ。

 中も期待を裏切らない間取りで、赤い絨毯が玄関からまっすぐに伸びている。赤いバラは生花で、瑞々しい香りが広がっている。だが元気がない。庭の花は全滅に近かった。

 老婆は「おいで」と短く伝え、ゆったりとした足取りで奥の部屋へ誘う。

「ここはキッチンなの。古い竈でしょう? ここでいろんなものを焼いたりしてたんだけれど、段々焦げ臭くなってきちゃって。旦那とふたりだと、なかなかできなくって」

「ここの掃除ですね。お任せ下さい」

 いろんなものを焼いていると言っているが、確かに異様な香りだった。母のスミレが使っているキッチンは、普段から手入れをしているおかげか、ここまで異臭はしない。老夫婦ふたりでは奥まで行き届かないだろう。

 それにしても何の香りだろう。料理でこんな鼻につく臭いは出るのだろうか。リックは顔をしかめ、隠すように厚めのマスクを着用する。

「あの、お仕事があるならここにいなくてもいいですよ」

「若い方が来てくれるのってなかなかないのよ。嬉しくって。いてもいいかしら?」

「ええ、どうぞ」

 老婆は木でできた椅子に腰掛け、特に何もすることもなくうっすらと笑みを浮かべている。

 人が良さそう、というのが第一印象だった。なのに今は、背筋に氷を当てられているかのような感覚が襲う。仮面はしょせん仮面であり、下に何を隠しているのか回りには見えない。

 ちりとりで小さな埃や焼け焦げた何かを丁寧に取っていく。白い細かな粒子も混じり、何を焼いたんだとリックは彼女を一瞥する。

 焼け焦げた跡を拭き、丁寧に濡れた雑巾で拭いていった。すぐに雑巾が真っ黒に染まり、元の色が何だったのかもはや分からない。新しい雑巾に変えて、念入りに奥まで拭いていく。

 三十分が過ぎた頃、すぐ背後から聞こえた声に、リックは驚愕して竈に頭をぶつけてしまった。

「随分綺麗になったもんだね。ありがとう。お茶でも入れましょうか」

「まだ電球が……」

「それは後でお願いしたいわ」

 もしかしたら、寂しいのかもしれない。キッチン以外は生活感の感じられない屋敷だ。おそらく客人がやってくることもそうそうないのだろう。そう思うことにした。

 老婆は蜂蜜入りのハーブティーとクッキーを出し、リックをもてなした。

「手作りですか?」

「ええ、ええ。よく分かったわね」

「母親もよくお菓子を焼いてくれますから」

「何が得意なの?」

「パイをよく作りますね」

 レモンパイはまだ冷蔵庫に眠ったままだ。早いうちに起こさないと、風味も落ちてしまう。

「ここには旦那さんとふたりで?」

 老婆は薄ら笑いを浮かべて、返事もなく小さく頷く。老人の笑顔は和やかにするものだが、この人の笑顔は心を凍りつかせる威力がある。

 数枚のクッキーとハーブティーを平らげ、リックは仕事に戻った。

 代えの電球は多いと聞いていたが、数は六個。二桁を想像していたので、拍子抜けした。

 老婆は名残惜しそうにリックを引き止めようとしたが、リックは丁重に断った。それでも頑なに支払い金額よりも多めに包み、クッキーと共にリックへ手渡す。

 リックは次の仕事があるとなんとか腕を払い、屋敷を後にした。

 ロサンゼルスの外れにもあのような不気味で美しい建物が存在しているとは知らなかった。慣れた道ばかり通ると、得られる知識も少なくなる。

 老婆には仕事があると伝えたが、今日はもうない。途中で公園に寄り、ホットドッグを購入した。

 パンにソーセージ、マスタードとケチャップというシンプルなものも好きだが、野菜をトッピングしたホットドッグを好む。盛りに盛ったコールスローを零さないよう気をつけて食べても、細かなキャベツの端がぽろぽろと零れていく。公園を横切るパトカーが横切るものだから、尚更だ。なんてタイミングだ。

「…………ウィル?」

 ウィリアム・ギルバート。例のストーカー事件でいろんな意味で世話になった、ロサンゼルス刑事だ。お互いに車の中だったが、ばっちり目が合ってしまった。わずか一瞬でも、ウィルの眉を上げる仕草が見えた。あちらも同じ気持ちなのだろう。「なぜここに」。

 リックは残りのホットドッグを口に入れ、コーヒーで胃に流し込んだ。何か事件かもしれない、と他人事のようにぼんやりと考えていた。

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