第2話 至高の一行目

「そこまで」文彩先輩が障子を閉めたようにぴしゃりといった。「ここは文芸部よ。わちゃわちゃと……。いつからダンス部になったのかしら。高階くん、姫乃樹さん、少し落ち着いたらどうなの」

「すみません……」姫乃樹はしゅんとしていった。

「鏡くんたちもよ。今は高階くんの欠点を論う時間でも、回し読みして遊ぶ時間でもないの。高階くんのリハビリよ」

 そう。俺がしているのはリハビリ。

「そうでした」鏡がいった。「つい、珍しい奴だったのでそわそわしてしまったのかもしれません。気をつけます」

 文彩先輩は頷いた。「分かってくれてよかったわ」

 さすがの鏡も、文彩先輩に対しては好戦的な態度を示さなかった。

 文彩先輩はノートを開く。

「さて、高階くんを一人で文活(ぶんかつ)させるのは一旦終わり。ちょっとみんなで考えてみましょうか。そうね――。鏡くん、あなたが考える小説の一行目とはどんなもの?」

「そうですね……。やはり僕は理系なので簡潔な文がいいと思います」

「たとえば?」

「我が輩は猫である。のように短くて、なおかつ主語述語の距離が離れていなくて、客観的に見ても分かりやすい文です。シンプルな文には美しさを感じます。数学の公式みたいに」

 途端、パイプ椅子が倒れる音がした。神楽だった。

「そんな文章全ッッッ然、つまんない!」

「なんだと」

「文を読む味わいもあったもんじゃない」

「神楽さん。今は鏡くんの意見を聞いているの。神楽さんの意見は後で聞くから」

 言われた神楽は渋々座った。猫がそうするように、喉の奥で唸っている。対照的な意見を持った鏡とは決して相容れない。

「どこまで話しましたっけ。月璃のせいで忘れてしまいましたよ。――ああ、装飾の話でしたね。あくまで僕の個人的な意見ですが、僕は、言葉というものは贅肉がつきやすいのだと思います。いわゆる無駄な装飾ってやつです。そういうわけで僕は言葉をダイエットさせたいですね。削って削って、まだ削る。短文が命です」

「なるほど。じゃあ――」先輩は神楽に向きなおる。「神楽さんの意見を聞こうかしら」

「アタシは研一郎の意見に反対です。小説の一行目は、長いとか短いとか、そういうのじゃなくて。うーん……。上手く言えないですけど、風を起こすものだと思います」

「風。――興味深いわね」

「はい。穏やかな風でも、突風でもいいんですけど、なにか人の心をざわざわさせるのがいい一行目の条件かと思っています。アタシはそんな一行目に出会って、心を揺り動かされたいです」

「神楽さんの意見はよく分かったわ。つまり、そのざわざわさせるのにレトリックは不可欠というのね。でも、それならば別に一行目ではなくてもいいじゃないかしら。二行目、三行目で心を揺り動かしてくれれば、なにも一行目に拘らなくても、という気がするわ」

 文彩先輩のもっともな意見に、「違うんです」と神楽は続けた。

「それはその通りなんですけど――。たとえが適切かどうかは分かりかねますが、第一印象ってありますよね。それから、人は見た目が大事っていうのも聞いたことがあります。この場合一行目が第一印象です。だから本を開いて真っ先に目に飛び込んでくる一行目が肝心だとアタシは思ってます」

 神楽は話し終えると姫乃樹に目配せした。

 神楽の話を聞いてよく分かった。神楽の考えでは簡潔な短文は寂しい、物足りない印象を与えるようだ。だから文章を装飾して見栄えのする一行目を構築すべき、というのが持論なのだろう。

 俺? 俺はどうなのだろう? たった一行のために論戦を繰り広げている文彩先輩たちの気持ちは分からなかった。得られる文章の質というものは、消費したコストに見合っているのだろうか。

 文彩先輩は姫乃樹を見る。意見を求めている眼差しだ。

 姫乃樹は、先ほど怒られた余熱が残っていたようで、ぴくりと震えた。鏡と神楽。どちらの意見に与するか考えているように見えた。

「わわわたしは……」

 全員の視線が集中する。怯えさせる気は毛頭ないのだけれど俺も姫乃樹の意見が気になった。慌てた姫乃樹はなぜか立ち上がって話した。卒園式という言葉がふいに頭によぎった。

「わたしは、正直いって難しいことは分からないです。短い文の一行目でも、絢爛豪華な一行目でもどちらでもいいかな、っていうのが気持ちです。――あっ、月璃ちゃん、鏡さん、ごめんね」

 姫乃樹は手を合わせる。

「でもこれだけは譲れないっていうのが、わたしにもあります」

「どういうものかしら」

「身の丈にあった言葉を掴んでいるか……です。わたし、見ての通り身長が低いんです。高いところにあるものを取ろうとすると背伸びが必要で、いつも苦労しています。定規とか使って。だから、背の高い星來ちゃん、羨ましいなぁ~なんて。……あ、違います違います。文章の話ですよね。それで、運良く届いても、落として怪我をしちゃうこともしばしばで」

「それが、姫乃樹さんのいっていた『身の丈にあった言葉』というわけね」

「そうなんです。無理して身の丈以上の言葉を掴むと怪我をしてしまいます。類語辞典を引いてぴったりだと思った言葉を使うより、自分の体に馴染んだ言葉を上手く使えているか、が大事なのだと思います。そういうのって一行目で分かりますよね。月璃ちゃんがいっていたように、一行目で背伸びしているかどうかはまるっと丸わかりです」

 姫乃樹は胸にそっと手を置いた。

「……譲れないこと、結構あるな」

 鏡が笑うと、姫乃樹は照れた。

「鏡くんは簡潔な文、神楽さんは飾り立てた文、姫乃樹さんは等身大の文。なるほど。人の好みは千差万別というけれどその通りね。みんな考えが違って面白いわ」

 文彩先輩はペンを走らせてから、美竹を見た。

「次は私ですね。私は文学的な素養がないから、好きな日本のアニメや映画のオープニングから話していいですか。それを先輩たちがいう一行目と解釈して」

「ええ、構わないわ。ぜひ聞かせて」

「雑な例ですが、たとえば今私達が話しているこの部室のシーンから物語が始まるとして、ただ会話している場面を映すより、その部室に仕掛けられている爆弾を映す方が印象的で好みです。もっというならそれに気づいていないことが伝わるといいですね」

「ば、爆弾……」姫乃樹が震える。

「みぞれ、それはたとえだから心配しなくていいの」

 怯える姫乃樹をなだめる神楽。そんな様子をちらと見て、文彩先輩は続ける。

「衝撃的な展開……つかみというものね。一行目とは離れるけれど、最初のシーンとしては私もそれは同感だわ」

「はい。だから私は高階の文、それなりに好きです。お手洗いから始まる恋愛小説ってぶっ飛んでいてよくないですか」

 部室に緊張が走った。視線が俺に集中する。

 意外だった。まさか美竹に認められるとは思わなかった。

 俺が何か言おうともたもたしていると、神楽が口を開く。

「星來……。それ本気?」

「うん。だいぶね。内容が内容だから、もちろん手放しに褒めることはできないけれど。私は一文の背後に高階の格闘した姿が透けて見えて……好きかな」

 好き、という単語が俺に向けられていることに気づいて少しだけ恥ずかしかった。こうもはっきり肯定されるのは慣れていない。当然、お世辞を疑った。でも美竹は表情と言葉が完全に一致していた。嘘偽りが感じられなかった。

「まとめるわね」文彩先輩が満足そうにいった。「簡潔で、飾り立てた、等身大の、インパクトある一文がふさわしい。全員の意見を重ねただけだけれど、こんな感じかしら」

「異議なしです」鏡が頷いた。

「待って!」

 神楽が強く制する。

「今度はなんだよ。まだ何かあるのかよ」

 鏡は呆れている。

「まだ高階の意見を聞いてない。高階は当事者でしょ。本人がどう思うかが一番重要じゃないの」

 神楽の視線が俺に向けられる。見られた俺は答えに窮した。

 それも当然。だって、そんな一行目なんてどうでもよかったからだ。

 俺にはそれよりも重要な目的があったから。そのために興味のない文芸部に来て、言われたとおり小説なんか書いているのだ。いくら論理をこねくり回そうが関係ない。勝手にやってくれという気分である。一行目? はぁ。どうぞご自由に。どうしてそんなに熱くなれるんだ。

 包み隠さず本心を伝えると、話し途中にもかかわらず、鏡が遮った。

「こだわりがないなんて、どうかしてる!」

 鏡は驚き、他の部員たちもまずまず同調していた。しかし、俺からしてみればみんなこそどうかしてる。執着しきっている。妄執と呼んでもいいかもしれないだろう。それとも俺が異端だとでもいうのだろうか。

「分かったわ。もう結構よ。高階くんにとって文はさほど重要ではないらしいから」

 文彩先輩は一台しかないパソコンの前に座った。

「適当な一行目はこれでいいかしら?」

 そういって文彩先輩は指をキーボードから離した。プリンタがガタガタと横揺れしながら紙を吐き出す。先輩はその紙を長机の真ん中に置く。

 しばし間があってから、神楽がうっとりとため息を漏らした。

「文彩先輩。すごい……、すごいです。美人な文で、それでいて――」

「それでいて、単純明快。キャリアが違うな」

 神楽のセリフを鏡が引き継いだ。二人は思わず顔を見合わせる。さっきまでの対立はどこへやら。姫乃樹も美竹も同様の心情に見えた。要するにそこにいる全員が、文彩先輩の文章に魅了されていた。

 そういった羨望の眼差しを浴び慣れているのか、何食わぬ顔で文彩先輩はいる。

「これでどうかしら」文彩先輩が俺に紙を手渡した。

「そうですね。……はい。ありがとうございます」

 俺は簡素に答えた。中身のない返答だった。文彩先輩は俺の本心に気づいているだろうか。その表情から心情は読み取れなかった。

 こうして俺の作品の一行目は無事決まった。二行目以降も文彩先輩の大胆な改稿で方向性が様変わりした。万事解決……かに見えた。

 だが、待ってほしい。

 俺は受け取った紙を見つめていた。

 確かに文章にはこだわりはない。けれど、なんだかこの文章、しっくりとこない。

 他人の文章を批評する立場にないのは重々承知だけど、この文は完璧すぎるのだ。人の血が通っていないようで揺らぎがない。しかも据わりが悪いというか頭でっかちというか、とにかく居心地が悪いのだ。中一のときぶかぶかの制服を着させられたような……。

 しかし、部員たちは誰一人そのことに気づいていない。文の分かりやすさや、美しさ、適切な語彙、展開に吸い込まれてしまって大切なものを見落としているような気がした。

 直感。本能。美意識――。こういうときなんと言えばいいのだろう。

 何かが足りないと思うのは俺に文章センスがないからなのだろうか。国語が好きで、勉強していれば内容は理解され、称賛に値するのだろうか。

 

 ――国語嫌い。

 部員たちが称賛する文の前で、俺はただ一人、この部に来た目的。すなわち二週間前の最低最悪の出来事を思い出すのだった……。

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