無題のドキュメント
佐藤苦
第1話 文芸部、かく語りき
――友人であるM.Sに捧げる。
なーんてAR明朝体で献詞を書くとバキバキにカッコいいと思うよ、私は。
美竹 星來
1.
小説の一行目は衝撃から始めるとよい、というのは文彩(あや)先輩が俺に対して最初にくれたアドバイスだった。文才のない俺は文彩先輩のアドバイスを額面通りに受けるしかなかった。うんうんと唸りながらやっとのことで出てきた一文は、『川のせせらぎは放尿の音と似ている』というものだった。
「見せてみて」文彩先輩は、すっと白い手を俺に伸ばす。
二つに畳んだ紙を渡し、俺は採点を待つ生徒のような心持ちで待った。やがて、文彩先輩は「ふう……」と冬の夜のような静かで透き通った息を漏らした。
「どうですか」俺はいった。
「発想は面白いけど、品がないわね」
「七十点くらいですか」俺が訊くと、先輩は曖昧な沈黙を漂わせる。「……もしかして、七十五点……いや八十点。……まさか、えっ!? 満点――」
「どうして上がってるのよ」先輩は呆れたようにいった。「色をつけても五十点くらいね。そもそもこれコンセプトはなんだったかしら」
「この夏絶対泣ける、青春恋愛小説です」
「そう。たった三千字の掌編小説ならあなたでも平気だと思ったのだけれど」
先輩は言い淀む。けれど俺だって反論したい。二十回も書き直しをさせられていては、感覚が麻痺してしまってもおかしくはないだろう。出して出して出しまくった、出し殻からアイデアを絞っているのだ。先輩にとって三千字の執筆は簡単なことでも、文章の苦手な俺にとっては果てしない物語に等しい。と、そこに――。
「文彩先輩、アタシにも見せてください。高(たか)階(しな)が書いた文、すっごく気になります!!」
神楽月璃(かぐら・るり)は今が放課後とは思えない、まるで登校したてのテンションと、絵文字百個分の笑みを浮かべて反発するバネのように椅子から立ち上がった。
「いいわよ。――はい、どうぞ」
「やったー」神楽は短めのポニーテールを揺らしながら、「ありがとうございますっ。さてさて、どんなストーリーになっているのか……。ご開帳っ、と」
ちょっと待って決定権は俺に――、という間もなく、神楽は疾風迅雷の素早さで、先輩から受け取った紙を広げる。ちなみにその内容は、誤って男子トイレに入ったヒロインが便器にゲロを吐き、偶然居合わせた主人公の男にハンカチを借りて、それをきっかけにフォーリンラブ。
「神楽さん、どう思う?」
「うぅむ。これは……」神楽は困ったように笑った。「まったく、なんていうか、その、なんというか。アタシには評価しかねますね」
神楽はそう絶妙にごまかした。俺がその優しさに感心していると、神楽の顔に細い二本の影がかかった。日が落ちるには早いな、と思って影の元を辿る。すると、神楽の横に座る鏡研一郎(かがみ・けんいちろう)が人差し指と中指の先っぽで俺の力作を摘まんでいた。まるで汚物でも扱うように。
「見せてくれ」鏡の手は掴んだまま。
「は!?」神楽は声を張る。「研一郎……あのさ、見て分からないの。まだ読んでるでしょ」
「貸してくれ。俺もこいつの文を査読したい」
「聞こえなかったの? アタシが文彩先輩から借りたの。順番くらい守ってよ」神楽が作品を手許に寄せても、鏡は譲らない。
「少し見たらすぐに返すって。どんな傑作かいち早く検めたいんだ」
「たっく……仕方ないわね。分かったわよ」
それでついに神楽が折れた。作品はリレーされ鏡のもとへ。鏡は珍獣でも観察するかのように眺め、数十秒経ってから唇の端だけで笑った。
「すごいな……。まさに十六年の人生の集大成って感じだな。ノーベル文学賞も間違いないだろう。――お疲れ」
作品を長机に置き、鏡は俺の肩を二回叩いた。どう考えても皮肉だった。ここにいるみんなは二年の文彩先輩をのぞいて、一年の同学年。なのにこいつは明らかに上から目線で俺をディスってきた。先日の自己紹介でもそうだけど、鏡は俺に対して敵意を抱いている。
なんだ? 新参者に厳しいな。それともハーレムだからか? 俺が割り込んだから機嫌を損ねているのか。だったらなんて心の狭い奴だろう。俺はこの瞬間から鏡研一郎のことを理系クソ眼鏡と心の中で呼ぶことに決めた。
俺は手元に戻ってきた作品を見た。三人の手で乱暴されたおかげで皺が寄っていた。神楽に目をやると、鏡と何か話していた。そこで気づく。なにも律儀に、神楽に作品を返す必要はないのだ。俺は亡骸をリュックに収めようと、チャックを開けた。リュックにはすでにA4用紙が死屍累累といったありさまで詰め込まれていた。先輩に却下された努力の結晶である。鞄にスペースを作ろうと、上から力をかけて押しこんだ。
「あのぅ」控えめな声がした。
「はい?」俺は応じた。「なんでしょう」
「しまっちゃうんですか?」
長机の向かいから、ゆったりと話したのは姫乃樹(ひめのぎ)みぞれだった。
「はい」俺は作り笑いを浮かべて、「評判も悪いし、捨てようかと思います。このまま持っていても仕方ありませんし」
「その前にわたしもちょっと見たいです。あ、もちろん無理にとは言わないですよ。でも、可能な範囲で、見たいかも……です」
姫乃樹は塩をひとつまみするように、ちょっと、の指の形を作った。丸っこい目に風鈴のような声。顔の小ささなんて俺の握り拳くらいじゃなかろうか。中二でも通用しそうなこの女子は俺の気持ちを最大限に尊重してくれたようだった。気さくな神楽と並び、姫乃樹はこの部活の良心といえる存在だ。
姫乃樹がよたよたと俺に近づいてきた。まだ見せるとも言っていないけれど、もう読める気になって嬉しそうな顔をしている。しかし、またしても神楽が机に置いたままの作品を奪う。
「ちょ、まっ――」いってももう遅い。奪われないように、神楽は後ろ手に隠した。
「あっ、月璃(るり)ちゃん、それわたしが見たいやつ――」
「うん。これね。この一行目はみぞれにはまだ早いかもね」
「な、なんでですか? 確かに読書経験は少ないですけど、そんなに難解なんですか」
姫乃樹はぽわんと不思議そうな顔をしている。鏡が作品を人生の集大成なんかいいやがるから、真に受けているのだろう。なんて純真な女子なのだろうか。
「いや、そうじゃないんだけど……」神楽は言葉を濁した。
「じゃあ、わたしだって見たいです。高階さんがどんな文章を書くのか興味ありありです」
「でもね、みぞれ。ちょっと教育上よろしくないものがあって」
「子供扱いしないでください。もう高校生なんです」
姫乃樹は頬を膨らませ、ぷく顔で主張する。
書いた本人がいうのも変な話だが、神楽が見せたくない理由は分かりすぎるくらい分かってしまう。要するに、下品といいたいのだ。
書いたときは必死だった。もしかしたらいいものが書けたかと思った。けれど正気に戻ると、幻想の傑作はぼろぼろと崩れていく。『時間を置くと自分の作品が駄作に見える』という文彩先輩の二つ目のアドバイスも真理のようだった。
つまり、これは俺の心から漏れた恥部である。そんなものは姫乃樹には見せたくない。誰だって高校一年四月の大切な時期に、しかも女子に、下品な文章を書く同級生という認識を与えたくないだろう。ファーストインプレッションが変態ってのは最悪だ。どうせなら一個前に書いた一行を見せたかった。うららかな春に適当に桜でも咲かせておくとか、あるいは雅なセリフとかでお茶を濁しておけばたとえ無色透明な文だと思われても、放尿よりはマシだろうからさ。
「あの、お話が盛り上がっているところで悪いけど、下ネタってはっきりいってあげた方がいいんじゃないの?」
せっかくぼかしていた我々の労苦を水泡に帰したのは、美竹(みたけ)星來(せいら)だ。台湾人と日本人のハーフである美竹は裏表のないさっぱりとした性格の持ち主だった。なんでもはっきりと物をいうのは生来のものらしい。悪気はまったく感じられないが、正直なのは時と場合を選んで欲しい。
「しも……」
そのせいで姫乃樹の頬は薄桃色から林檎色へ。鮮やかなグラデーション。
「星來、アンタって人は」神楽がおでこを押さえる。「せっかくアタシがみぞれから遠ざけたのに」
「ごめん。姫ちゃんだけが仲間はずれにされている気がして」
「まあ確かにそうだけど。はっきりいいすぎ」
「変なこといってたら謝るよ。どうにも言外のニュアンスというものに慣れなくて」
美竹は申し訳なさそうにいった。美竹は中学まで台湾にいて高校に入ってから日本に来ていた。日本に来てから最も困ったのは空気を読むという風潮らしい。日本で暮らして十六年の俺だって困るのだから、美竹が困るのは当然だろう。
神楽の主張はみぞれを守りたい。美竹の主張は秘密主義はよくない。いずれも一理あるように思われた。
「いや」均衡を破ったのは鏡だった。「美竹は悪くない。悪いのは神楽だ」
けれど、驚くには値しない。鏡が神楽に噛みつくのは二人が中学からの腐れ縁ということだけでなく、文章に対するスタンスの違いによるものだった。この二人全然わかり合えない。二人のバトルは俺が部室を訪れた初日から断続的に続いていた。
「なんで研一郎が入ってくるわけ……」神楽の声が低まる。
「いいじゃないか」鏡も臨戦態勢だ。
「あっ、そう。なら――」
「ひゃっ」姫乃樹が短い悲鳴を上げる。
神楽は姫乃樹を抱き寄せて撫でながら、「理由をいってみなさいよ。どうしてアタシが悪いの。アタシはこーーんなに稚くて大切なみぞれが言葉に汚されるのを防ぎたいだけなのに」
「ではいってやろう。理由その一、姫乃樹の下ネタへの忍容性を神楽が勝手に過小評価したこと。その二、求められてないのに子供扱いして本人の尊厳を著しく傷つけたこと。美竹もいっていたように、日本的な排他精神で姫乃樹を除外したこと。これがその三。――以上」
「ご丁寧に、同じことを繰り返してくれてありがとう。これって再放送? 物覚えの悪いアタシでもよーく分かったわ。理系のくせに冗長な展開。まんま星來がいっていた内容の反復じゃない。これこそ研一郎が一番嫌うレトリックそのものじゃなくて?」
部室が静まりかえった。俺は二人を交互に見た。しばらくして「負けた……」と鏡は項垂れた。俺が部室に来てから、神楽は三十戦三十勝。よくも懲りないものだと思う。ともあれ溜飲が下がったのは事実であるが。
「アタシに楯突くなんて四十六億年早いわ」神楽は勝ち誇った顔で姫乃樹に振り向く。「まぁ、今に始まったことじゃないしそれはいいわ。でも、そうね。確かにハブるのはよくないわね。――どう、みぞれ見る? 頑張れる?」
神楽は姫乃樹の背中をさすり「保健室行く?」ってな感じのトーンで尋ねる。今しがた鏡に否定されたばかりだというのに、どうやら世話焼き気質は抜けないらしい。
と、俺はある重要な事実に気づく。今話題になっているのは間違いなく俺の作品のことだ。なのに誰一人として俺の意志を尋ねようとしないのはいかがなものか。
「わ、わたし、頑張ります」
「そう? いい、みぞれ。辛くなったらすぐにアタシにいうのよ」
姫乃樹は俺の不満をよそに、俺の書いた小説を受け取り、俺の書いた小説を広げてしまう。
やっぱり、これはおかしい。当事者置いてけぼりじゃないか。
膨らんでいく当惑に思わず――。
「ちょっっっと待った!!」俺は叫んだ。
全員の視線が浴びせられた。驚いた姫乃樹は作品から手を離す。俺は床に飛びかかり、跪いて作品を手のなかに収める。もう離さないと誓いながら。
「高階、どうしちゃったの!?」神楽が目を丸くしている。
「こ、これは……姫乃樹さんには見せられない」
「えっ」姫乃樹は露骨にショックを受けていた。「そんな……ヒドいですうぅー」
「おいおい。それはまた、差別的な発言だな。姫乃樹に、は、見せられないって」
鏡がいった。否、いったのは理系クソ眼鏡だった。
「違う。本当はみんなに見せたくなかったよ。でもとめるひまがなかった。俺を置いて、みんなどんどん進んでいくから」
「何いってんだよ」理系クソ眼鏡が笑った。否、嘲笑った。「まず先輩が見て、月璃が見て僕が見て……もうこの部活の全員見たようなもんだ。今更、姫乃樹一人に見られたってどうってことない」
「やだよ」俺は短くいった。
「どうして」
「なんでもいいじゃないか。俺が……書いた俺が見せたくないっていってるんだ!」
俺は自分の作品を抱き留める。みんなが俺を見下ろしている。
くそぅ……どうしてこんな恥ずかしい思いをしなきゃいけないんだ。俺はただお願いがあって文芸部に来たというだけなのに。どうして文芸部の、ワックスが剥がれたきったない床で胎児のように丸まっているのだろうか。もう十六だというのにこんな醜態をさらすなんて、この部活は、いや、この学校は、この国は一体なんなんだ!
と、頭上には姫乃樹が。「高階さん」
「はい?」俺は縋る思いで応じた。
「大丈夫ですよ」
喉に天使を飼っていそうな声が聞こえてきた。後ろで賛美歌が流れていそうだった。よかった。姫乃樹は見なくてもいいと思ってくれている……! なんて優しい女子。
思ったのもつかの間。
「わたし耐えますから」
「は?」
「わたし頑張りますから」姫乃樹は菩薩ライクな穏やかな笑みを浮かべていた。
「そういうことではなく」
「遠慮しないでください。みぞれは寛容なのです。たとえそれが保健体育的内容だったとしても受け止めます」
姫乃樹はどうしても見たいようだった。さっきは俺がダメなら見ないっていってなかったっけ。この変わり身の早さには驚くばかりだ。穏やかだけど、文章に係る好奇心は抑えられないらしい。
俺は頭上のあちこちに作品を逃がした。それを追って姫乃樹はちまっと、背伸びしてくる。そのたびに上半身にある過積載のふくらみが俺を押す。
「姫乃樹さん、おおらかさの出しどころ間違ってるから。ダメ。これだけはダメだから」
「平気ですって」
「いや――」
押し合いへし合いするのは、状況が状況なら喜ぶべきことだろうなと、一瞬でも力を緩めてしまったのが悪手だった。
あっ、と思ったときには、乾いた音を立ててA4の紙は破れてしまった。枯れ木から最後の一葉が落ちるかのようにひらひらと舞い着地する。
沈黙する俺。青ざめた姫乃樹。それを見つめる薄ら笑いの鏡。気まずそうな顔の神楽に、シャープなため息の美竹。コマ送りになって飛び込んでくる。
「ひゃっ。――ごめんなさいっっ!! そんなつもりじゃ」
「姫乃樹さん、いいですよ。どうせ捨てますし、気に病まないでください」俺はソフトにいう。
こちらとしては破かれた方が好都合だった。むしろ、見られる心配をなくすためにシュレッダーにかけたいくらい。
「いえ、ダメです。これは高階さんの力作なんですから。セロテープで貼ります」
けれど姫乃樹はそのままにしておくのを許さなかった。姫乃樹は右往左往して、棚に向かいセロテープを手に取った。四の五の言わせずに俺の作品を修復し始めた。しばらくして、俺はパッチワークとなった作品を受け取る。もとのピンと張った上質紙の見る影もない。――まあ、でも読まれなかっただけ幸いだけど。
誰かが、パンっ――と手を叩いた。
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