仙境への道 その二

 一九一四年 一月 チベット ツァンポ大峡谷





 あれから十年余りが過ぎ、再び九頭竜会の許可を取り付けた岡田はチベットの地に舞い戻った。

 そして、夢にまで見た仙境の入り口へと辿り着く。


 僧達に招かれた岡田は岩壁の大穴へとその身を投じた。

 中は岩肌をいた洞窟になっている。


 洞窟内には灯りがなく、完全な闇。

 僧達が持つ松明たいまつだけが唯一の灯りだ。


 一行が洞窟に入り暫く経った頃、松明に照らされた岩肌に変化が出始める。


 色とりどりの壁画が姿を現した。

 松明の灯りだけなので細かな色味は判然としないが、使われている色は赤、白、青、緑、黄、紫、黒、銀、金など、極彩色である事は間違いない。


 更に奥へと進むと、展示場ギャラリーの展示品は絵画から彫刻へと様変わりした。

 岩肌に直接掘られた磨崖仏まがいぶつである。


 その摩崖仏も極彩色の彩色が施され絢爛けんらんの極みだ。

 アジア美術を扱う者が目にしたら卒倒そっとうするであろう。


 摩崖仏展示場ギャラリーを進んでいた一行の下に前方から明かりが届いた。

 一行の持つ松明以外の明かりである。


 闇に馴染んだ岡田の眼は、その明かりに慣れるのに時を要した。

 岡田の胸は期待に高まり早鐘はやがねを打つ。


 遂に岡田は伝説の仙境へと到着した。


 洞窟の外は雪が積もっているのに、ここにはひとひらの雪すらも降り注いで来ない。

 おまけに雲一つない夕空である。


 それに信じがたいほど暖かく、夕陽に染まった季節外れの花畑が一面に広がっていた。

 桃源郷とはまさにここの事であろう。


 老僧が岡田に話し掛けて来た。


「セライ・アムチー殿、あちらを御覧あれ」


 老僧が示した花畑の先には湖があった。

 湖の中程には大小三つの中州なかすが確認出来る。


 左側と右側には小振りな建造物、中央の中州には一際大きい建造物が建てられていた。

 中央の中州からは、左右の中州それぞれに手前と奥から橋が伸びている。


 岡田はその建造物群を寺院だと断定した。


 その寺院を目指し一行は歩みを進める。


 湖へと向かう途中、この土地の住民であろう者達を岡田は幾人か見掛けた。


 彼らの衣服は最早もはや衣服とは呼べない程に擦り切れており、四肢を欠損した者、耳や鼻を削がれた者、目を潰された者、歯列が剥き出しで顔の皮をがされた者など、身体の何処かしらに損傷を有する者が大半である。


 その傷痍しょうい住民達は、酷く怯えた目で一行を見詰めていた。


 岡田は彼らの身分を直ぐに察する。


⦅奴隷だな……。

 それも完璧に服従させている⦆


 奴隷と思われる者の他にも、幾分ましな服装で銃を携えている者もいた。

 彼らには身体の欠損が見られない。


⦅兵士、それとも奴隷がしらか?⦆


 岡田は忍び笑いで思い巡らす。


⦅これだ、これこそ我が結社が求める理想の世界。

 我ら魔術師がそれ以外を家畜として支配する世界だ……⦆


 一行は湖に差し掛かる。

 湖面には黒いはすの花が連なっていた。


 その光景を眺めた岡田は北叟笑ほくそえむ。


⦅ここだったのか!

 遂に見付けたぞ黒蓮こくれんの一大群生地。

 これで瑠璃家宮派に差を付けられる。

 もう奴らの好きにはさせん……⦆


 黒蓮に彩られた湖のほとりには門が建立こんりゅうされていた。

 弓形の迫持アーチを頂く拱門きょうもんで、日本の覚者教寺院の三門さんもんとは違い豪奢ごうしゃな屋根などは付いていない。

 只、左右の石柱を始め緻密な彫刻が施されており、然も極彩色で塗り分けられている。


 彫刻の題材モチーフはその多くが〖天女アプサラス〗だ。

 その肉感的な肢体は見る者の煩悩を刺激せずにはいられない。


 又、迫持アーチ中央には木の実型の突起が彫刻されており、その直下の丸く盛り上がった丘状浮彫レリーフ中央には穴が穿うがたれている。

 それらの装飾は何故か、観る者に何処となく性的な印象をもたらした。


 門を潜ると寺院へと向かう水上に石橋が伸びている。

 その石橋は緩やかに屈曲し乍ら中央の中州へと伸び、岡田の身長を超える高い壁面には門と同じく天女アプサラスの彫刻が施してあった。


 岡田には何故か、石橋のうねり具合と壁面に彫刻されている天女アプサラスたおやかな腰の捻り具合が、見事に同期している様にも思える。


 そして一行は湖上の寺院へと辿り着いた。


 建造物の配置であるが、玄関から続く拝殿とその後ろに連結された本殿からなる。

 本殿は拝殿よりも左右に膨らみ、拝殿と本殿を合わせればアルファベットのT字型になっていた。


 又、本殿左右には別の中州へと続く橋が二基づつ架けられている。

 中央の中州奥から左右の中州へと伸びる橋の先端部は、放射状に広がった形状で非常に特徴的だ。

 この配置を観て、自身も魔術師である岡田はその意味を看破する。


⦅畔の門は陰門いんもん

 架かっている石橋は産道。

 左右の中州は卵巣。

 中央の中州奥から左右の中州まで伸びる橋は卵管。

 橋先の広がった部分は卵管采らんかんさい

 黒蓮の絨毯じゅうたんは差しめ陰毛と云った所。

 そして、前方の拝殿と左右に膨らむ後方の本殿は子宮だな。

 紛れもなく女性器の形状を模している……⦆


 正面階段を登ると、岡田が今迄に見た事もない建造物がそびえ立っていた。

 その威容に岡田は言葉を失う。

 緻密な彫刻と鮮やかな彩色は当然だが、その内容が悉く異様なのだ。


 今度の題材は天女アプサラスだけではない。

 戦士、王、従者などと思われる人間の男性の他、犬猫、牛馬、鹿、虎、獅子、孔雀、蛇などの動物。

 龍や麒麟などの幻獣。


 一見すると人間ヒトに見えるが、有角人オーガ単眼人サイクロプス、人間の身のたけ程もある蛙、人の胴体に魚介類の頭部を持つ異頭人ハイブリッド人間ヒトの身体に蛇体が混じり合った蛇人ナーガなど。

 然も、それらの多くが天女アプサラスと交わっていた。


 天女アプサラスに囲まれた人身牛頭の異頭人ハイブリッド、何人もの天女アプサラスを一度に相手取る王と、隣で自慰行為にふける従者、牛馬と交わる人間の戦士達。


 人間ヒトの子供や女性をむさぼり喰らう幻獣などなど……。

 人間ヒトの尊厳を端微塵ぱみじんに打ち砕く邪悪の饗宴がそこにはあった。


 寺院の威容に心を奪われた岡田であったが、二人の僧に促されて拝殿の内部へと立ち入る。


 拝殿に入って直ぐに岡田の目に飛び込んだのは巨大なリンガだ。

 リンガの周りには数人の女性がひれ伏しており、虚ろな目つきでそれをさすっている。


 この部屋を受け持つ僧達が部屋の四隅で香をきしめていた。

 香の匂いを嗅いだ岡田はその正体が催淫香さいいんこうだと見抜く。


 岡田はリンガと部屋の僧達に向かって一礼し、本殿へと進んだ。


[註*リンガ=男性器をかたどった像、もしくはその象徴。

 中央・南アジアの民族宗教では度々崇拝の対象とされる]


 本殿に近付くにつれ、地のうねりの様な声が響いて来る。

 岡田も聞き慣れたこの斉唱、真言マントラだ。

 但し、その斉唱には不規則でじゃらじゃらした女声が入り混じる。


 喨々りょうりょうたる真言マントラの響きと官能的な嬌声とが空間を演出し、岡田も性欲がたぎってきた。


 岡田の高まりと時を同じくして、一行は遂に本殿の中心部へと至る。


 広大な空間に沈殿する青紫色の香煙こうえん

 真言マントラと同期するが如く揺れる灯明とうみょう


 充満し、凝縮されたありとあらゆる体液の匂い。

 絶え間なく流れる天女アプサラスの吐息……。


 そこに広がっていたのは、曼荼羅まんだらであった。


 生きた像で描かれる立体曼荼羅。

 広大な空間に整然と広がるも、なまめかしく動作を続ける僧と天女アプサラス


 その中心部、八対の僧と天女アプサラスが蓮の花の如く咲き乱れる中心に、緑色の法衣ローブを纏う者。

 その者だけは対となる天女アプサラスがおらず、一人静かに目をつぶ結跏趺坐けっかふざしていた。


 そして、その者からの思念波が岡田へと放射される。


『約束通り参ったか……。

 我も肉体を新調し膳立ぜんだてしておったぞ……。

 来るが良い……』


 岡田が近付くとその者が頭巾フードを脱ぐ。

 現れたのは、二十歳にも満たないであろう若者だ。

 身体に対して頭部が大きく、より幼い印象を与える。


 その者が半眼になる。

 法衣の胴体部分を唐突に両手で掻き開く。


 額に埋め込まれた緑色の宝石が邪悪な輝きを放つ。

 そこにはあるべき身体モノは見えない。


 観えるのは虹色の山脈、怪物が跋扈ばっこする荒野、神々が君臨する都市、無窮むきゅうの宇宙……。


 その者は岡田の首に手を伸ばす。

 首筋へと指を這わせる。


 指が脊椎せきついの辺りにぴたりと吸い付くと、岡田の顔が今迄になく愉悦ゆえつもだえた。


『我の名を唱えよ……』


「〈※、※メ※※ド・※マ〉……」


 岡田はその者の名を呼ぼうとするも、声が上ずってしまい上手く呼ぶ事が出来ない。

 身体のあちこちが痙攣している。


『我の名を唱えよ……』


 主上しゅじょうからの命に岡田は歓喜に打ち震え、ついにその名を発した。


「エ、〈エメラルド・ラマ〉…………‼」


〈エメラルド・ラマ〉の抱擁ほうように得も言われぬ快感を覚えた岡田は、喜びの余り射精していた――。


〈エメラルド・ラマ〉が岡田の首筋から指を引き剥がす……。


 その〈エメラルド・ラマ〉の五指には、八目鰻やつめうなぎの口器にも似た吸盤状の歯列が、


 幾重いくえにも植わっていた――。





                  仙境への道 その二 了

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